・・・・・・あれは、つい先日のことだ。
その日は昼間からじっとりと蒸し暑く、呼吸をしているだけでも汗が毛穴から吹き出すような、そんな真夏日のこと。夜になっても暑苦しさは消えず、網戸にしていても湿気を含んだ生暖かい風が吹き込んでくるだけで、まるで涼しくならない。
一昨日、部屋の空調が壊れてしまい、業者に電話したのだが。お盆休みに入ってしまうため、修理には伺えないとにべもなく断られてしまった。ベットの上で、何十回目か分からない寝返りを打つ。疲れているはずなのに、暑くて眠れない。苛立ちを覚えたが、どうすることも出来ない。小さく舌打ちし、タオルケットを蹴り上げた。
「もういい!私なんてどうなってもいいんだから!ついてこないでよ!」
網戸のほうから女の声がした。うっすら目を開けたが、起き上がるのも面倒だ。私はそのままベットに横たわっていた。女は甲高い声を張り上げて捲し立てる。
「タクは私のこと嫌いなんだ。へー、そうなんだ。分かった、分かりました。私はタクがいないと生きていけないけれど、タクは違うんだ。私がいなくても大丈夫なんだ。へー、そう。よーく分かりました。今までさんざん世話になってきた私のこと、そうやって見捨てるんだ」
女は卑屈な台詞を早口で喋っていた。痴話喧嘩の縺れ、だろうか。酔っぱらっているのか、或いは素面なのかは分からないが、それにしたって真夜中に騒ぐのは頂けない。近所迷惑なバカップルだなあ、と思いつつ。この痴話喧嘩の終焉に少しばかり興味が出てきたので、聞き耳を立てた。自分でも自覚しているが、趣味が悪いことこの上ない。
女はすぐ近くで誰かが聞き耳を立てているなんて想像もしていないのだろう。更に大きな声で捲し立てた。
「はっ、何言ってんの今更。あんたの借金、誰が返済してやったと思ってるの。そんな口を聞いていいと思ってるのねえ?何様のつもり?何ならお金返して貰うよ。今すぐこの場で耳揃えて返しなさいよ」
女の言い分から察するに、お金が絡んできているのだろう。男のほうが随分な借金をしていて、女が工面して肩代わりしてやったと、そういうことだろうか。それをいいことに、女は男を尻に敷いているのか、自分と別れないよう言いくるめているのか・・・・・・大まかな筋書きはそんなところだろう。普通というか、よくあるような内容に次第に興味を失っていく。
「分かる?私にはタクが必要なように、タクには私が必要なんだよ。タクに捨てられたら自殺するからね。これ、脅しじゃないよ。本当に死んじゃうよ。死ぬ前に友達や家族に一斉送信するからね。タクのせいで死ぬ羽目になりました、って。タクが私にしてきたことを洗いざらいぶちまけるからね。ほんとだよ。いいの?私が死んじゃってもいい?そしたら困るのはタクだよ」
女は脅迫めいたことを言い出した。こういうことを言い出す奴に限って、なかなか死なないんだよなあ。言ってみたがりなんだよなあ。女の幼稚さに、呆れて失笑が漏れた。
「ねー、聞いてるの?私の言うこと、ちゃんと聞いてるの?タク?」
女はだんだんと苛立ってきたのか、棘がある声。そういえば、さきほどから盗み聞きしているが、女の声しか聞こえないのは何故なのだろう。男の声は一切聞いていない。あれだけ大きな声で捲し立てられているのだから、反論するなり宥めるなりすればいいのに。ここは住宅街。アパートが多く隣接している。そんな場所で、夜中に大声を上げて喋り倒す連れがいれば、誰だって何とか黙らせようと躍起になるだろうに。そんな風に制止させようとする声すら聞こえないのだ。
いや、そもそも男は本当にいるのだろうか。女の自作自演な気がしてきた。酔っぱらっているのか、もしくは注目されたいのか、或いは変な薬でもやっていて幻覚を見ているのか____そのどれかだろう。全く、ハタ迷惑な。そう考えた私は、これ以上聞き耳を立てるのを止め、目を閉じた。
「・・・・・・えっ、ちょっと。な、何よその目。怖いんだけど」
女の声が震えている。明らかに声のトーンがさっきとは違った。
「ちょっと、何なの。もしかして怒ってるの?だ、だって本当のことじゃん。タクが借金したのがいけないんじゃん。私がのお陰で借金は返済出来たんでしょ。私、タクの恩人だよ?・・・・・・ねえ、その目止めてよ。怖いから、睨まないで。ね、落ち着いてよ」
「分かった。分かったから、睨まないで。こっち来ないでよ。ねえ、止めて!言い過ぎたなら謝るから。ごめんね、ごめんなさい。ほら、謝ったじゃん。ねえ・・・・・・来ないでよ、ねえ!」
「・・・キレたの?怖いから、止めて。こっち来ないで。近付かないでよ、ねえ!謝ってるじゃんか!怖いから、止めてよ。ねえ・・・・・・、怖い!来ないでよ!やだ!あっち行ってよ、やだ!止めて!」
雲行きが怪しくなってきた。女の声は震えていて、演技ではなさそうだ。このままだと女が危ないかもしれない。窓から外の様子を確かめたほうがいいのかもしれない。だけれど・・・・・・関わり合いになるのも、怖い。少し迷ったが、知らぬ存ぜぬを決め込んだ。女はいよいよ泣き声になっていた。
「止めてよ・・・・・・来ないで。その目、やだ。怖い・・・・・・来ないで。こっちに来ないで。来ないでよ_____あっ、」
車のエンジンが掛かる音に掻き消され、女の声は聞こえなくなった。やがて大きな轟音を残し、車が走り去る音がした。私は固く目を瞑り、体を縮こませた。いつの間にか背中の汗は冷汗に変わっていた。
そして今日。先日からのうだるような暑さは夜になっても抜けず、また寝苦しい夜が始まる。ベットの上で幾度目かになる寝返りを打ちながら、私はつい先日のことを思い出した。
あの女____あれからどうなったのだろう。深く考えないようにしていたが、こうして脳裏に思い浮かべてしまう。女の会話からして、男の車で連れ去られたのだろうか。その後、どうなったのだろう。口喧嘩くらいで済めばいいのだが、女の怯え方は尋常ではなかった気がする。
「・・・・・・大丈夫かな」
ぼそり、と独り言を呟く。
『大丈夫じゃないよ』
誰かが耳元で囁いた。
作者まめのすけ。