美弥は背後から、肩を叩かれて振り向いた。
そこには、黄色い歯をむき出しにしてニヤニヤ笑う、何日も風呂に入っていないようなべったりとした髪を頭に貼り付けた太目の男が立っていた。美弥は悪臭に思わず息を止めたが、相手はまがりなりにもお客なので、営業スマイルを振りまいた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
娘が小学校へと進学したのを機に、美弥は本屋でパートタイマーで働くようになった。
子供は一人、30代半ばになっても、美弥は20代半ばにしか見えないほどには、体型にも美容にも気を使っていた。スケベエじじいにボディータッチを受けるなどのセクハラはあったので、その男に対しても、美弥は警戒していた。
男は30代半ばくらいで、おそらく美弥と同じくらいの年齢と見受けた。その男は黙って、小さな紙切れを美弥に差し出してきた。美弥は、思わず手を出して、それを受け取った。
それはよくある三角くじで、四角い紙を半分に折ったものであった。真ん中に赤いマジックで「二等」と書いてあった。
「お客様、これは?」
「賞品を受け取りに来たんだよ。」
その男はなおもニヤニヤと笑いながら、美弥を舐めるように見つめ続けた。
「賞品、ですか?」
美弥は、一生懸命、記憶をたどる。こんなくじを配布するようなイベントがあったかしら?
それとも、商店街で何かそういうイベントがあったのか。
美弥は、二等の下に小さく書いてある文字を確認すると、全身の血の気が引いた。
そこには「木内 美弥」と書いてあったのだ。
驚いて男の顔を見ると、男は目を見開いて
「くださいなー」
と言った。
これはヤバイ。自分の胸の名札を呪った。
販売員である以上、名札の携帯は必須で、したがってこういうストーカーまがいのことは、若い頃には何度か経験があった。以前も販売員をしていて、何度か怖い目にあったことがある美弥であるが、まさか、この年になってまでこのようなことがあるとはよもや思わなかったのだ。
すぐに店長を呼び、美弥はすぐに奥の部屋へと身を隠した。
男は店先で「何故賞品を渡さないのか」「詐欺だ」とか騒ぎ立てたので、店長が警察を呼びますよと言うと、男は諦めて帰ったようだ。
その日は、早退させてもらって、あくる日店に出勤すると、店長がしばらく休んだほうがいいと美弥に勧めてきた。
男は、帰ってもなお、本社に電話をして、当たりくじの賞品を渡さないとはどういうことかと意味不明の電話をしてきたというのだ。もちろん、そんなくじは存在しないし、人間を賞品にするなどあり得ない。警察に相談したが、実際に誰も被害に遭っていないということで、パトロールを強化するというおざなりの対応だったそうだ。
「木内さんの身の安全のためにも、少し休んだほうがいい。」
と店長に言われ、しばらく仕事を休むことにした。
仕事を休んで三日経ったある日、不意に電話が鳴った。
美弥は職場からかと思い、思わず番号を見ずに電話に出た。
「もしもし?」
美弥がそう応対すると、しばらく沈黙があって
「・・・嘘つき。」
と男の声が聞こえた。美弥は全身の毛が総毛だった。その声は、紛れも無い、あの男の声だった。
この三日間、忘れようと思っても忘れられなかった、あの地獄の底から聞こえるようなくぐもった低音。
「くださいなー。」
美弥は、すぐに電話を切った。
なんでなんで?うちの電話番号を知っているの?携帯ではなく、家の電話番号。
それが何を意味するのかを考えると、美弥は恐怖で狂いそうになった。
家を割り出されている。美弥は、思わず窓の外を確認した。
居る。
街路樹の木陰だ。
男は静かに携帯を耳から離して、ポケットに突っ込むと、こちらに向かって黄色い歯をむき出しにして笑った。
「いやあああああ!」
美弥はカーテンをすぐに閉めると、警察に通報した。
ところが、警察が到着するころには、その男はそこには居なかった。
警察も事態を重く見て、ようやく捜査してくれるようだ。
携帯の電話番号から割り出そうとしたが、思ったとおり、非通知で、男の特徴を詳細に警察に説明した。
だが、その男はいっこうにどこの誰だかわからずに、結局警察もパトロールを強化する程度のことしかできずに、美弥はとうとうパートを辞めざるをえなくなってしまった。
美弥は、学校に許可を得て、自分の娘にも危害が及ばないように、車で娘を送り迎えした。
美弥は常に、家の周りを見回して、あの男が居ないかを確認して、家に閉じこもる生活を続けた。非通知の電話には絶対に出ないようにしていた。
そろそろ娘の学校のお迎えの時間だ。美弥は支度をすると、車の鍵を持った。そのとたんに、携帯が振動した。その番号は、娘のキッズホンの番号だった。三箇所くらいにしか電話をできない、ワンプッシュでつながる携帯を安全のために娘に持たせてあるのだ。娘に何かあったのだろうか。美弥は慌てて、通話ボタンを押す。
「もしもし?アヤ?」
「・・・くださいなー。」
アヤの声ではなかった。
美弥の心臓は早鐘のようになり、声は怒りで震えた。
「何でアヤの携帯を持ってるの?アヤに何かしたのっ?」
男は答えずに電話を切った。
美弥は、慌てて窓の外を見た。
居る。また街路樹の木陰だ。男は、黄色い歯をむき出しにして笑うと、アヤのキッズホンをポケットにしまった。
許さない。絶対!
美弥はキッチンの包丁を手に、玄関のスニーカーを引っ掛けると、その男に向かって走った。
男は、美弥の手に握られた包丁を見て驚き、脱兎のように逃げた。
しかし、男のその太った体では、普段から運動で体をキープしていた美弥の足にすぐに追いつかれてしまった。
男にタックルすると、男はぶざまに歩道につんのめって転んだ。
「アヤを!アヤをどこにやった!」
「し、知らない!俺は知らない!」
「嘘をつけ!」
美弥は、男の太ももを包丁で刺した。
「ぎゃあああああああ!」
男の叫び声が閑静な住宅地に響いた。
騒ぎを聞きつけて、通りがかった男が美弥を取り押さえた。
「何をやってるんだ、美弥!」
その男は美弥の夫であった。
夫は美弥から包丁を取り上げようとした。
「あなたっ!アヤが!アヤがこの男にっ!」
美弥は狂ったように暴れて、包丁が男の喉元に突き刺さってしまった。
そこではじめて美弥は事の重大さに気付き、呆然として手から包丁を落とした。
美弥は信じられない面持ちで、夫を見上げた。
「・・・あ、あなた・・・。」
美弥はそこで気を失った。
刺された男は、すぐに救急搬送されたが、失血死してしまったようだ。
アヤは無事で、美弥が男を刺した時にはまだ学校に居たようで、キッズホンをなくしてしまったので、学校から連絡しようと思った矢先の出来事だった。
美弥は傷害致死ということで、拘留された。
美弥は壊れてしまった。人を殺めてしまったショックから、精神のバランスを欠いて、もう社会復帰することは難しい。
「おかあさん・・・。」
アヤは泣いた。どうしてこんなことになったんだろう。
「アヤ、大丈夫だ。父さんがついてる。」
アヤの父親は幼いアヤの肩を抱いてさすった。
「今日からは、お父さんと暮そう。」
そう、父さんと二人っきりで。
やっと、親権がこちらに回ってきたんだから。
経済的理由をたてにして、父親の良介は親権を争っていたのだ。
美弥には経済的に、アヤを養うことはできない。
ところが、美弥に恋人ができた。
結婚すると思うから、親権は自分にくれと言うのだ。相手もアヤを引き取ることに賛同しているという。
本屋の店長。
良介は美弥をパートに出したことを後悔した。美弥が店長とデキたのだ。
美弥は隠してとぼけていたが、良介は気付いていた。だが、何も証拠はない。
美弥から判を押した離婚届を出された時には信じられなかった。
浮気をしているとは思ったが、まさか離婚まで考えているとは思わなかったのだ。
美弥は本気だった。美弥に対してはもう愛情はなくなったが、アヤは自分の血を分けた子供であり愛情はもちろんあるので、美弥と親権を争っていたのだ。
そんな時、良介は若いホームレスの男に出会った。
契約社員でくびを切られ、住む所もなく公園のベンチに佇んでいたのだ。
「このくじを、女に渡して欲しいんだ。」
そう言って、小さな紙片を渡すと、わずかな金でその男を雇った。
美弥を精神的に追い詰めたかっただけだった。
そうすることで美弥が精神に異常をきたしてくれれば、結婚もダメになるだろうし、親権も自分に来るはずだ。
まさか、男を刺すとまでは思わなかった。
包丁を持って暴れる美弥の手を払い、わざと男の喉元に刺さるように仕向けた。
美弥はあの時、もしかしたら気付いたのかもしれない。
そう思いながらも、口元は緩み、良介はアヤの肩を抱いている反対側の手に握った、搬送される男のポケットから零れ落ちたアヤのものであるキッズホンを握り締めてポケットにしまいこんだ。
ちなみにくじの一等はもちろん、アヤだ。
作者よもつひらさか