ピリリリリと機械音が鳴り、端末の液晶画面のブルーライトが点滅する。
日付がまた変わったのだ。
0:00の数字が表示される瞬間、自動送信メールが端末機に送信された。
その内容に、
わたしは今日もまた、絶望した。
【生存者 31名】
あぁ、また減っている。
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【複合変異型狂犬ウイルス GdF病】
このウイルスが世界で流行してから、
この世界の全てが壊れてしまった。
宗教、法律、経済、科学、医療、技術、歴史。
人類が生きていく中で積み上げてきたもの。
それら全てを悉く崩していった。
国境を越え、ヒトの遺伝子を渡り、このウイルスは学習積み重ねた。
効果的な、人間の亡ぼし方を。
効果的な、世界の亡ぼし方を。
そしてウイルスがある答えに辿り着いた時、
世界は壊れた。
またこのウイルスを発見し、このウイルスを【複合変異型】と断定し【GdF病】と命名した医者はこう言った。
『悪魔のウイルス』
『このウイルスは自然界から生まれたものではない』
『高度な遺伝子操作、病原菌、ウイルス、生物科学の知識を持った何者かが意図して造り上げた。ウイルスの遺伝子操作の果てに生まれた子供』
『そうでなければ、そうでなくては、』
『これは、いったい、なんだ』
『私は今まで生きてきて、こんなに生き物に対して、悪意をもったウイルスは見たことがない』
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複合変異型狂犬ウイルスを研究し、感染者を治す為にワクチンを開発していったが、ウイルスの変異と感染者の増加にワクチン開発に携わる医療従事者は全て、死んでしまった。
人類はこのウイルスに抵抗する事すら、
許されなかったのだ。
このウイルスの感染は主に体液、飛沫感染。
またこのウイルスに感染した生き物は、
初期症状の精神錯乱を経て、
末期には、
3つの種類の経過に陥る。
【ウイルスに蝕まれ、ウイルスを辺りに撒き散らして死に至る感染者】
【手当たり次第にタンパク質を摂取する無差別捕食を繰り返す感染者】
【補食する相手を限定し追跡する感染者】
この3つに限定される。
複合変異型狂犬ウイルスに侵された感染者は、日の光と風を嫌い、暗い密室を好む為に活動時間は夕方から夜だ。
捕食する相手を追跡する感染者は、その時間外で活動する事はない。
だが、無差別捕食の感染者は例外だ。
彼らは、日の光も風も厭わない。
飢餓状態の生き物が、空腹の末に自身を生んだ親の腸を喰らうように、
食糧を求めて、山に降りる熊のように、
彼らは食べるためには、手段を選ばない。
タンパク質であるならば、
必要タンパク質であるならば、なおさら、
虫であろうが、犬だろうが、人間だろうが、
彼らは喜んで咀嚼する。
問題なのは、
ウイルスを撒き散らして死に至る感染者だ。
彼らに共通しているのが、
【健常者に見えること】。
感染者に咬まれる、また感染者の飛沫を浴びて感染した時に放置するケースが多い。
精神錯乱をおこしても、
彼らは【健常者でいようとする】。
その為、感染が発覚した時にはもう遅い。
彼らは体内の中で健やかにウイルスを育んでいるのだ。
やがて、十月が過ぎた妊婦以上に、
腹を脹らませて、破裂させる。
それが、老若男女、赤子であっても。
病院などの医療施設を壊滅させたのも、
この感染者が多い。
私は、この感染者にあった事がある。
確か、母親と子供だった。
子供が感染者に引っ掻き傷をつけられ、
感染した。
母親はそれを理解していたが、
自分の命をかけて生んだ大切な子供を、
ころせるわけが、なかった。
彼女はあらゆる手で子供の症状を隠蔽した。
常時膿が出ている引っ掻き傷を隠すために何度も何度も、包帯を変えた。
やがて、子供の腹が脹れ歩けなくなった時に、
周囲の生存者に子供の感染が発覚した。
感染者を見つけた生存者の対応は速かった。
その子供は恐慌状態の生存者達に袋詰めにされ、
多数の大人に鈍器で滅多打ちにされて、
ころされた。
母親の目の前で。
我が子を殺され、発狂状態の母親を、
また生存者達は【感染者】として、
子同様、袋詰めにされ、ころされた。
袋詰めにするのは、血液や飛沫が飛び散らない為の人間の苦肉の予防策だった。
その光景を見た私は恐ろしくなり、
すぐにその場を離れた。
なによりも、その場にいた。
人間が怖かったからだ。
それからだ。
私は独りで行動するようになったのは。
半年後、その生存者達は無差別捕食者の群れに遭い、無惨にころされた。
無差別捕食者は、単独の人間よりも、
大勢の人間をもっとも、好む。
いくら食べても、
空腹は治らないのに。
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【生存者 21名】
また減っている。
またころされたのだ。
汚れたスニーカーを履いて、食糧を探す為に、近くのスーパーマーケットに寄った。
ぐちゃぐちゃの店内。
埃と血液のまみれた商品。
その中で未開封の商品を漁る。
なんでもいい、消費期限なんてどうでもいい。
食べるものと、水が無ければ。
感染者からは逃げられない。
この世界で生きられない。
埃だらけの中で、
ようやく見つけた食糧は、
瓶詰めのパンと五百ミリリットルの水。
最近はこれくらいしか、あたらない。
それも、そうだろう。
あのウイルスがバイオセーフティレベル4で世界に広まってから、もう3年経過しているのだ。
この水だって、飲めるかどうか分からない。
それでも、わたしは。
その時だった。
スーパーの出入口でカチャ…カチャ…と鉤爪が床に触れる音がした。
この音は、動物が歩く音だ。
この世界で感染していない正常な動物はいない。
息を殺して、棚の傍に隠れる。
口と鼻を手で抑える。
カチャ…カチャ……、
スーパーの中に入り、何かを捜すように、確認するように、
歩く音。
追跡する感染者だろうか?
無差別捕食の感染者にしては、
随分落ち着いた足跡だ。
そうして1つの事に集中していて、
わたしは肝心な処を見逃していた。
棚の下に潜む、無差別捕食者の存在を。
気づいた時には遅かった。
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【生存者 14名】
はぁ、はぁ、はぁ。
浅い呼吸と嫌な汗が止まらない。
あの場所から逃げられたのは奇跡に近い。
無差別捕食者に咬まれた左腕。
わたしはその瞬間にパニックを起こし、
感染者に囲まれていたのにも関わらず、
逃げ仰せた。
無差別捕食の感染者が頭だけだったのも、
あったのかもしれない。
咬まれたのも一瞬で肉が引きちぎれる前に、
振りほどけたのにも、要因にあるが、
決定的なのは、
あの感染した動物が、私を襲わなかった事だ。
出入口で逃げる私を、
肉が丸出しの犬はただ、見ていた。
逃げる私を白濁した眼で見ていた。
ただ、静かに。
また新しい変異が起こったのだろうか。
だが、それでも、
わたしは一時的に生き延びても、
【感染】してしまったのだ。
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流れる血が止まらない。
やっとの所である医療機関に入れた。
ウイルスによる世界的流行が起こる前に封鎖された研究所だ。
わたしは、その施設の二階の休憩所に隠れ、
仮眠をとった。
幸い、人が入った形跡はなかった。
埃だらけだが、血痕の跡がない。
それがなによりの証拠だ。
だが、咬まれた左腕は血が止まらず、
貧血を起こしているのか、眩暈がした。
左腕の手当てに、薬品が置いてある部屋を探し、エタノール消毒薬の瓶の中の液体を左腕にかける。
焼けるような痛みが走る。
こんな事に意味がないのは分かっている。
まやかしでも良かった。
まじないでも良かった。
今にも狂いそうな恐怖に堪えるには、
この行為は必要だった。
わたしはまだ、
死にたくないのだ。
【生存者 残り6名】
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仮眠室で再び横になる。
四日ぶりの睡眠だ。
埃だらけだが、なによりも居心地が良い。
食糧は、あのスーパーに落として逃げてしまった。
飢餓で死ぬか、発病して死ぬか。
わたしはどっちなのだろう。
そう冷たく考えると涙が零れた。
喉がカラカラなのに、
流れる涙はあるらしい。
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ふと、変な物音を感じ仮眠室の毛布を剥ぐ。
なんの音だろう?
仮眠室を出て、廊下の窓を見ると、
生存者と思われる男女二人が、
フェンスを乗り越え、
研究所に入ろうとしていた。
こんな夜更けに、行動するなんて。
なんて無茶な事を。
それだけ二人は追い詰められているのだろう。
二人の間には生まれたばかりの赤子の姿がある。
赤子は血だらけだ。
あぁ、ダメだ。あれは、感染している。
それよりも、こんな夜にあんなに音を立てたら、場所を感染者に教えているようなものだ。
周りを見渡すと、ぞろぞろと感染者達が彼らに近づいているのが見えた。
無差別捕食の感染者の群れだ。
二人はそれに気づかない。
フェンスを越える事に意識が囚われている。
「─────────!!」
咄嗟に危険を知らせようと大声を出そうとした。
だが、それは阻まれた。
感染者の一人が彼女を襲い、フェンスから引き摺り下ろした。食い荒らされる彼女。
彼女は助けてと手を上に上げるが、
男が彼女を見捨てて、研究所のドアに向かう。
研究所のドアは鉄製でオートロック式のものだ。
わたしは昼前、それを確認して裏口の鍵を半日かけて壊してやっと入れたのだ。
男の腕には感染した赤子がいる。
これは、あまりにも。
あけろ!あけろよぉお!
と男の声がした。
無理だ。無理に決まっている。
研究所の鍵は、ドアの横の鍵穴だけだ。
ピッキングでもしないと入れない。
女性を食い荒らし損ねた空腹の感染者達が男に向かってぞろぞろと近づいている。
いるのは、わかってんだよぉおお!!
だれか、いんだろ!あけてくれよ!!!
男は絶叫しながら、乱暴に鉄のドアを叩く。
目が血走っている。
精神錯乱を起こしているのだろうか。
音に反応するように、感染者達は群がり、
男は食い荒らされた。
食い荒らされる最中、
声にならない悲鳴が男から聞こえたが、
やがて、それも止んでしまった。
赤子と男の無惨な死体がこちらからでも見える。
わたしは見殺しにしてしまった。
あの二人を。
だが、私が警告を伝えたとしても、
間に合っていただろうか。
招き入れたとしても、
むしろ、わたしが、
彼らに殺されていたのではないか。
わたしは感染している。
だから、私もあんな風に。
すると トツゼン。
ピリリリリ、と0:00を告げる端末機の音が鳴った。
一瞬にして、止む感染者達の食事。
そして、一斉にぐるりと、
わたしの方を見た。
それから、わたしの記憶はない。
【生存者 残り3名】
separator
気がつけば、私は。
死にたくない、死にたくないと、
何回も独り言を呟いていた。
正気に戻り、辺りを見渡せばそこは、
二人分の骸骨が横たわる部屋だった。
ひっ─────と、短い悲鳴が上がる。
知らなかった。
ここに自分以外に隠れていた人がいたなんて。
それよりも、なんて、
なんて、白くて美しい死体だろうと思った。
明らかに感染者の死体ではない。
感染者は動き回るか、ウイルスを飛び散らせる感染者が骨になったとしても大抵骨盤に皹が入っているし、まだ腐食して死臭がする。
だが、二人の骸骨はすでに綺麗に肉は全て剥がれ落ちてひとつの芸術品のような形で横たわっている。
この研究所が閉鎖されたのは、
パンデミックの前。
そうすると、この二体の骸骨の死体はいつからあったのだろう?
そう考えていた時だった。
ピリリリリ、と自動送信メールがまた届いた。
【生存者 残り2名】
その部屋の隅で私は端末を床に投げ捨てた。
割れる液晶画面。
もうこの世界に人間は生きられない。
私は神様にこう言われたのだろう。
「もう疲れたでしょう。早く眠りなさい」と。
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朝起きて、研究所周辺を確認すると、すでに地上四階は感染者の巣になっていた。
昨晩で、わたしがいると、
確認したからだろう。
無差別捕食の感染者で溢れ返っていた。
無理もない。
もうこの世界には、
わたしと、【だれかさん】しか
生きていないのだから。
左腕の出血が止まり、傷口が壊死し始めた。
わたしももうすぐ、ああなる。
精神錯乱して、地下の一室に逃げ込んだわたしに。
生きる道はない。
薬品庫のアルコールランプを大量に用意して、焼身自殺をする用意も整った。
アルコールランプに一斉に火をつける。
ここは薬品の倉庫。埃だらけの段ボールで自殺するにはもってこいの環境だ。
最後に私は、
薬品庫の中で見つけた睡眠薬を片手に、
火が燃え広がるのを待った。
睡眠薬が聞くのは5分後。
アルコールランプの火が段ボールに燃え広がる。
もうそろそろか。
まだ死にたくないと思っていても。
もう色々と限界だった。
よく、今まで逃げてこれたと思う。
でも、もう終わりだろう。
感染者に食い荒らされて死ぬのと、
焼身自殺、どっちが苦しいだろう?
とぼんやりと考えた。
睡眠薬を服用した時、端末機がまたピリリリリと音を鳴らした。
【生存者 残り1名】
その時、非常階段から狂った大勢の足音が聴こえた。
separator
気がつけば、またあの部屋にいた。
部屋の隅でガタガタと震える足。
扉にどこから持ってきたのかわからない鉄パイプを挟めたが、然程意味はないだろう。
アルコールランプに火をつけたのが、時間稼ぎになったのか分からないが、無差別捕食の感染者は火だるまになりながら、この世でたった独りの生存者(ごちそう)の私を探している。
だれかさんが、どこかで死んで、
わたしだけになってしまった。
わたしは目から涙を流しながら、
しにたくない、しにたくない、と
呟いていた。
そんな事、もう無理なのに。
睡眠薬が効いて、
意識がないまま、火炙りになって死ぬか
意識がないまま、食い荒らされて死ぬか、
そのどちらかだ。
それとも、意識があるまま食い荒らされて死んでしまうのか。
端末機を見ると、睡眠薬が効くまであと4分。
浅い呼吸が止まらない。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、
心臓が狂ったようにのたうち回る。
精神錯乱を起こしそうになっているのだろうか。
それにしても、それにしても、
わたしは、まだ死にたくない。
やりたいことがあれほどあったのに。
あれほど、しあわせになりたかったのに。
それなのに。
ふっと白昼夢を見ている気分になった。
家族に囲まれていた幸せな日々を。
separator
温かい食卓。暖かい布団。
健やかな安らぎ。
わたしはみんな大好きだった。
こんな日々がずっと続くものだと、
私が死ぬまで変わらないものだと、
思い描いていた。
だが、フェーズ4の感染の時にわたしは全てを喪った。
襲いかかる見知った顔の感染者、訳が分からない恐怖すら理解出来ない私は呆気にとられていた。
逃げろと家族は身を呈して私を守ってくれた。
兄弟達と外に逃げると、
庭で愛犬が感染者に食い荒らされていた。
愛犬は鎖で繋がれていて、逃げられなかったのだ。
愛犬の悲鳴にわたしは何も出来なかった。
やがて、兄弟達も感染して、
わたし一人だけが生き延びた。
わたしは他の誰も彼もを見殺しにして、
生き永らえてきたのだ。
separator
すーっと涙がまた伝う。
睡眠薬が効くまであと2分。
わたしは何を、していたのだろう。
感染が進んだのかも知れない。
体が怠く、何も考えられずにいる。
カリッ……カリッと鉤爪で何かを引っ掻く音がする。やがて、その引っ掻く反動で鉄パイプがずれて隙間が出来た。
その隙間に肉と爪の犬の足見えた。
頭では恐怖を感じていたが、
何も出来ずにいた。
やがて、がりっがりっがりっと手当たり次第に辺りを引っ掻き回されると扉の錠役の鉄パイプが歪み、床に落ちた。
開かれる扉。
あのスーパーで見た感染者した犬がそこにいた。
追跡する感染者か。
でも、なんで?
そんな思いもそのまま、
何も考えられずにただぼうっと、
肉が見えた犬を見る。
感染した犬は私の方に、
カチャ……カチャと鉤爪の音を鳴らして、
近づいてくる。
白濁した眼は開かれたまま、
私の方に向けられている。
やがて、わたしと鼻が触れる距離にまで近づくと、まだじっと私を見ているままだ。
わたしはぼんやりと見ているしかない。
もう恐怖すら感じなくなってしまった。
その犬はわたしの顔の前で、
大きく口をあけた。
わたしは食べられるのを覚悟で目を閉じた。
だが、目を閉じる前に。
その犬の口の中にある首輪を見つけた。
肉と肉が挟まった黒い歯肉の舌の上には、
私が幼い時に拾ったばかりの仔犬の愛犬に着けた首輪があった。
【彼】につけた【名前】もその時に見えた。
睡眠薬の効果が効き、壁にもたれかかった状態から意識を無くして倒れた私に、【彼】はゆっくり覆い被さると、胸に牙を突き立てた。
『あなたのレバーをいただきます』
端末機に自動送信メールが送信された。
【生存者 残り0名】
端末画面のブルーライトが点滅を繰り返していた。
作者退会会員
『あなたのレバーをいただきます』
ペルシア語ことわざ
実は深い愛着と愛情とを表現する言い回し。
家族やごく親しい友人など、愛し合っている人たち同士の間で使われ、「あなたのためなら、何でもする」「心から愛している」、もしくは「食べてしまいたいくらい、あなたを愛している」という意味なのです。
誰も知らない世界のことわざで知りました。
良いことわざだと思います。