私には4つ年下の弟がいる。名前は玖埜霧欧介(クノギリオウスケ)という。
私は私の概念を、生き様を、価値観を語ることが不得手だ。それこそ欧介のように、自分の全てをさらけ出すことが難しい。あの子は健全な人生を送ってきたのだろうし、これからも真っ当に生きていくべき人間だから、人として歩くべき道を踏み外さないのだろう。
それに比べて、私は違う。
私は____忌まれた血筋を引いている。
中学3年生の時、とは言っても。当時、私は小学校は勿論、中学校にも通っていなかった。忌まれた血筋の家に引き籠もり、朝も昼も夜もない生活を送っていた。
あの家で過ごした日々のことを。現代とあからさまに隔離された空間。忌まれ、蔑まれ、時に虐待じみたことをされ、家に出入りしていた神職関係者に強姦されかけたこともある。周囲の大人は私の名前を様付けして呼んでいたが、それは決して私が敬うべき人間だったからではない。
腫れ物に触るというよりも。膿んだ腫れ物を見やるような扱いをされていた。つかず離れず、ただ死なぬように食事や身の回りの世話などはしてくれていたのだろうが。必要性のない会話は皆無であり、遊んで貰った記憶もない。
それを言い訳にするつもりは毛頭ない。家庭の事情や不和など、どこにだってあるものだ。まだ殺されなかっただけ有り難いと、感謝すべきなのかもしれない。だが。そういった家庭で育った私は、いや、育てられてはいないから、大きくなった私は____人とはそういうものだと考えるようになった。
人とは滅多に会話をしないものであり、時に暴力を振るい、強姦する。他者を様付けで呼び、食事を運び、禊ぎだと言って庭先の井戸端で、井戸から汲んだ水を何度も頭から被せむものだと。そういう生き物なのだと。私は理解していた。
だが。そんな私に転機が訪れた。
どういった経緯があってのことなのかは知らない。今考えると、福祉関係の人間だろうと当たりは付けるが、多分そうなのだろう。知らない人間が数人、あの家を訪れた。家の人間は狂ったように騒いでいたし、「余所者が穢れを持ち込んだ」と怒鳴り散らしていた。私は家の人間に引き摺られ、奥の部屋へと押し込まれそうになったが、すんでのところで待ったが掛かった。
福祉関係の人間は私を家から連れ出し、色々と質問してきた。何も答えないでいたら、そのうちの1人が、私の体を検証し始めた。流石に裸に剥かれることはなかったけれど。背中や腕、首にある痣や傷跡を見て、「辛かったね」とか「よく頑張った」などと言われたが、何のことだか分からなかった。辛かったというわけではないし、頑張っていたわけでもない。何を言われたのか、理解が追いつかなかった。
そして。私はそのまま福祉関係の人間らと車に乗り、家を後にした。それからその家との繋がりはない。私は善良な玖埜霧夫妻の養子に迎えられ、ようやく人間らしい生活を送ることを約束された。
だけれど。私はすぐには新しい生活に馴染めなかった。温かい家庭の独特な雰囲気。厳しく優しい両親と4つ離れた弟の存在。降ってわいたかのように、現実味がなかった。それどころか疎ましくもあった。自分が今まで置かれていた環境が急に惨めに思えて、勝手に疎外感を感じていた。
自分の居場所はここじゃない。まるで居候しているかのような、そんな感じ。両親や弟は、本当の家族であり、絆がある。幸せそのもの。温かい場所。入り込めないような、入ってはいけないような、見えない境界線を子どもながらに感じていた。
最も、後にそれは自分の手前勝手な思い込みであったと思うのだけれども。幾ら温かい言葉を掛けられても、「心のこもったおもてなし」にしか受け取れなかった。
私は余所者だから、家族じゃないから、他人だから。もてなされる身分であっても愛されているわけじゃない。はき違えたらいけない。居候させて貰っている身の上だ、迷惑を掛けたらいけない。
両親とは必要最低限の会話のみした。当時は受験生ということもあり、その点では会話をしなくてはならない状況にはあったが、聞かれたことにのみ簡潔に、そっけなく答えるだけ。弟とは口も聞かなかった。そもそも弟とは思えず、次元が違う生き物のように感じていた。
この子は私のことをどう思っていたのだろう。この子にしてみれば、何不自由なく幸せに暮らしてきたというのに、急に姉という存在が出来たのだ。私が養子として迎えられるまで、ずっと1人っ子だったというから、違和感は半端ではなかっただろう。
申し訳ないという気持ちはあった。少なからず、それはあったのだ。だからこそ、どう接していいものか分からなかったし、何を喋ったところで仲良くなれない予感がした。
この子は私なんていないほうが良かっただろうに。嗚呼、可哀想。両親が善人なばっかりに、私なんかを引き取るなんて言い出すから。君もとんだとばっちりだね。
玖埜霧家に馴染めぬまま、数ヶ月が過ぎた。テスト期間ということもあり、その日はいつもより早めに帰宅した。だが、ここで予想外の出来事が起きる。
小学生だった弟と、帰宅時間が被ってしまい、玄関で鉢合わせしてしまった。しかも、弟は友達を連れていた。その友達は小学校の同級生で、弟の幼馴染みでもあった。
しまった。思わず舌打ちする。案の定、友達はジロジロと不躾にこちらを見てくる。私はなるべく視線を合わさぬよう、無言で靴を脱ぎ、通り過ぎようとしたが遅かった。
「欧ちゃん、あれ誰?」
そんなこと、私が聞きたい。この家における私という存在は何なのかを。
あの子、何と言うだろう。知らない人と言われるのなら、まだいい。本当のお姉ちゃんじゃないけど、お姉ちゃんて呼んでる人、などと言われたりしたら嫌だ。
居候でもいい。むしろ、居候だと言って。変なこと喋らないで。お願い、お願い、お願い_____
これ以上、惨めな気分にはなりたくない。
心臓が高鳴り、胸が痛くなる。吐き気すら覚え、後ろを見ずに階段を数段上った。弟の視線を感じたが、構っていられない。そのまま駆け上がろうとした時だった。
「 、 」
弟が言った言葉に、足が止まった。
◎◎◎
俺が通う中学校には、恐ろしい部活が存在している。その名も心霊研究部という。読んで名の通り、心霊的現象に対する研究を行い、月1程度に開かれる会合では、自らの研究内容について発表し合う。陰気で、この上なく胡散臭い部活である。
まあ、言ってしまえば部活ではなく愛好会なのだけれど。
心霊研究部部長を名乗る同じクラスの岩下こそ、この部活だか愛好会を立ち上げた張本人である。当初は正式な部活として活動するべく、校長先生や教頭先生、学年主任の先生に直談判を申し入れたらしいのだが、ことごとく玉砕。部活としても愛好会としても発足は許されず、なので当然部室も与えられていない。
部員も岩下を含め3人しかいないわけだし、そもそもそんなオカルトテイストな匂いのする怪しい部活など、発足させたくない教師達の気持ちは痛いほど分かる。だが、哀しいかな。そんな俺自身もまた、心霊研究部の一員なのだった。
「ではこれより、心霊研究部よりルーチンワークのお知らせがある!」
無駄にデカい声を出して、熱く語るこの男こそ、心霊研究部部長の岩下だ。因みに今、俺達がいるのは第2理科室。第1理科室とは違い、授業で使われることはほとんどなく、備品や人体模型、骸骨の標本や実験用器具などが仕舞われている。ここならば、人の出入りもないということで、勝手に部室として使っているのだった。
俺達は理科室の細長い机に、岩下を挟んで3人で腰掛けていた。やる気なく、欠伸をかます俺に、日野祥子____通称ショコラがジトリと睨んできた。
「ちょっとお。栄えある心霊研究部副部長が会議中に欠伸って。どんな体たらくなのよ。白ソックスで首締めて窒息させちゃうぞ」
物騒な物言いをかますこの女子こそ、心霊研究部の紅一点。俺や岩下と同じクラスに所属している日野祥子だ。人当たりがいい性格で、成績も良く、友達多し。ノリのいい、ムードメーカー的な存在の彼女ではあるが、それと同時にトラブルメーカーでもある。
どこから情報を仕入れてくるのかは定かではないが。オカルトと名の付くものには目がなく、厄介な頼み事を俺に持ち掛けてきてくるため、齢14歳にして体にガタがきている。今現在も、俺の左手首には小さな鈴の付いたミサンガが結わえてあるのだが。これを片時も外せないのは、ショコラのせいなのだ。
「何よ、欧ちゃんたら。そんなにしげしげとショコラちゃんを見つめてくるなんて。そんなに私、発育いい?」
「誰がそんなほっそい体に欲情するか。お前はもっとちゃんと食べたほうがいい。それに、俺は副部長になぞなった覚えはない」
「ふうん。欧ちゃんはスレンダーよりもムチムチな方がいいんだね。ボン、キュッ、ボンみたいな感じがお好き?」
「いや、どちらかといえば、痩せ型だけど胸はあるほうが……って、何言わせるんだよ!」
「牛乳いっぱい飲めば、大きくなるのかな」
「それについては否定する。うちの姉さんもワンカップ大きくしたいからって毎日飲んでた時期もあったけど、効果はなかったって。お腹壊しただけらしい」
「いや、背がね。身長の話」
「………」
いやらしいなあ、と。ショコラが含んだような笑みを浮かべる。明らかに悪意があってのことだろ、胸の話から何をどうやったら身長の話に飛躍するんだよと言いたかったが、岩下がわざとらしい咳払いをしたので口を紡ぐ。
「静粛に!会議の真っ最中に私語は慎めよお前達。大体、今回の議題だって、元はといえばショコラが提案したんだろう」
「めんごめんご。そうそう、今回の議題なんだけどさ____」
ショコラは猫のように細い目を更に細め、右手人差し指を立てる。
「忍冬神社のお祭りが開催されるんだって」
◎◎◎
忍冬神社といえば、我が田舎町に古くから伝わる神社である。由緒は果たして正しいのか、何の神様を祀っているのかはよく知らないけれど。外観だけで言えば、今にも崩れ落ちそうなボロい建物だ。
何年か前までは、神社を管理する神主さんがいたらしいが、その人が亡くなってからは、新しい神主さんを迎えるわけでもなく、改修工事は施されず、そのまま。草木も全く手入れされず、建物同様荒れ果てていた。
実はこの忍冬神社には、色々と因縁があるというか、思い出したくない記憶が残っているせいもあり、普段は絶対に立ち入らないようにしているのだが____
「ちょっと待てよ。祭りって……あそこの神社って関係者以外立ち入り禁止だろ。そもそも、管理者がいない無人の神社で祭りなんかやるわけなくねえ?」
「祭りって言っても、秘祭みたいな感じらしいよ。屋台とかは出ないし、ただ集まって神様に参拝して、あとはちょっとした儀式に参加出来るみたい。毎年恒例のお祭りじゃなくて、4年に1回のペースで行われる、知る人ぞ知る秘祭なんだって」
「4年に1回?いやでも、俺は小さい頃からこの町に住んでるけど、忍冬神社で祭りなんて聞いたことないな」
「だからこその秘祭なんでしょうが。知る人ぞ知る秘祭なんだから、町内に知れ渡ってるはずないじゃん。もう、欧ちゃんたら頭悪いなあ。脳味噌の代わりに蟹味噌でも詰まってんじゃないの?」
「美味しそうだけど、実際にそうだったら地味に厭だな……。いや、味噌の話はどうだっていい」
秘祭って……何だそりゃ。隠れ里の祭りじゃあるまいし。寂れた田舎町の古びた神社で、秘祭も何もあったもんじゃないと思うが。
「大体、儀式に参加出来るって話だけど。何の儀式なんだ?」
ショコラは肩を竦め、ペロリと舌を出し、おどけたポーズをする。
「さあ、そこまでは……。ただ、昔から伝わる呪術らしいけど。村の繁栄を祈ってのものらしいから、豊作を願うとか、子宝祈願とか、そんな趣旨じゃないの」
「ふうん……」
秘祭というから、何かもっと怪しげなものを想像したけれど。以前、姉さんから聞いたことがあるのだが、今尚、古くから伝わる秘祭を行う地域があるようだ。祭りの際に猿の肉を食らったり、鶏を殺して贄として祭壇に飾ったりと、端から見れば狂気の沙汰としか思えない。
その土地の信仰によるもので、外部の人間からしたら、突拍子のないことに思えるけれども。その土地に根付いて長い人達にとっては、それこそが信仰の表れなのだと_____姉さんはそう言っていた。
「……よし!」
今まで腕組みをし、熟考していた岩下が突如として叫んだ。
「その秘祭とやらに参加しようじゃないか!」
◎◎◎
ショコラによれば、その秘祭が行われる日は、来月の1日____朔の日だという。朔の日とは新月のことであり、分かりやすく言えば、月が全く見えない日のことである。
その日は平日で、普通に授業のある日だった。ショコラと岩下は揃って日直であったため、俺は先に学校を出た。午後6時に現地集合であったため、俺はいったん家に戻り、制服から私服に着替えた。
忍冬神社に着くと、祭りらしい雰囲気は微塵もなかった。電灯はほつりほつりと、申し訳ない程度に均等な間隔で吊されているけれど。露店や出店などはなく、人影も少ない。夏祭りや秋祭りといった、人々の界隈やさざめきは感じられない。
ついでに言うなら、浴衣姿の美人もいないしな。まあ、浴衣を着るには肌寒い季節なのだから当然か。
「おーい、おーい、お待たせ~」
声のするほうに目を向ければ。紺地にピンクや水色の朝顔模様の浴衣に身を包んだショコラが、カランコロンと下駄を鳴らして歩いてきた。頭には、キツネのお面を被っている。
「ども。ショコラちゃんでーすっ!」
「…、いや、ショコラ。どうしたの、その格好は」
「おばあちゃんが仕立ててくれた浴衣だよ。お祭りと言えば浴衣でしょう」
「いやいや、その考えは正しいけれどさ。寒くないの?」
「別に。オシャレのためなら、幾らでも我慢が利くってもんよ。さ、早く行こう。お祭り始まってるよ」
「まだ岩下が来てないんだよ」
携帯で時間を確認すると、既に集合時間を過ぎている。岩下は割と時間にきっちりしている奴なので、遅刻とは珍しい。
ショコラは浴衣の袖を口元に当てて、ニヤリとした。
「岩下君なら来ないよー。先日、無断で第2理科室を部室代わりに使ったことが教頭先生にバレてさ。今、お説教くらってるよ。当分、来られないんじゃないかね」
哀れな……。
岩下に同情している俺のことなど露知らず。ショコラは早く行こうよと、袖を引っ張ってくる。普段から話の長い教頭先生に捕まったのだから、しばらくは解放されまい。心霊研究部初のルーチンワークは、部長である岩下不在で行われたのだった。
◎◎◎
忍冬神社の秘祭に来ている客層は、年齢も性別もバラバラだった。流石に子どもはいなかったが、20代くらいの人から、60代くらいの人もいる。
皆さん無言で、ぞろぞろと参道を進んでいく。俺とショコラも、その後に続いた。
年齢や性別はバラバラだと先述したが。秘祭に来ている人達には、妙な共通点があった。
怪我をしているのである。全員が、全員共にだ。
片目に眼帯をしている人、腕に包帯を巻いている人、首にガーゼを貼っている人、片足を引き摺って歩いている人____場所は様々だが、誰しもが怪我をしているという事実は、何だか不気味だ。
ショコラにそのことを話してみると、彼女もそれは感じていたらしい。俺達の横を通り過ぎていく、頭に包帯を巻いている男性に視線を走らせつつ。「何か気持ち悪いよね」と呟く。
「偶然……にしちゃ出来過ぎだよねえ。怪我してないのって、私達くらいじゃない?」
「いや、俺は一応怪我人なんだよな」
実は先ほどまで、ショコラと早口言葉合戦なるものをしていた。歩きながら、順番に早口言葉を言っていくという単純なゲーム。ショコラがやろうやろうと煩くせがむので、しばらく続けてみたが……うっかり舌先を噛んでしまった。
「そういえば、舌先が痛いって騒いでたもんねえ。そんな掠り傷で騒ぐだなんて、肝っ玉も器も小さいんだね」
「別にそこまで騒いでないだろ。ただ、ちょっと血が出たから滲みただけだ。だけど、口の中の傷って、意外と痛むもんだから____」
「しっ!」
ショコラが唇に人差し指を当てて言った。ふと前方を見やれば、社の門扉が開いていた。中には祭壇と、その左右に大きな篝火が焚かれている。祭壇の前には、異様な格好をした人物が立っていた。
まるで、黒子のような黒ずくめの衣装。目の部分だけ布が丸く空けられており、そこから両の目を覗かせている。長身で細身だが、両目以外は全て隠れているため、男女の区別はつかない。
その人が恭しく一礼すると、秘祭の参加者達も倣って頭を下げる。俺達も慌てて頭を下げた。頭を下げたまま、黒ずくめが祝詞(?)を読み上げた。
祝詞が終わると、皆一例に並び始めた。そして順番に、黒ずくめから何かを受け取っているようだった。距離的に、それが何であるかはよく分からない。だが、受け取ったほうは、恭しく頭を下げてお礼を述べていた。
「なあ、ショコラ。皆、何を貰ってるんだ?」
隣にいるショコラに顔を向ければ、彼女は頭に付けていた狐のお面を顔に被り直していた。薄闇にぼんやり浮かび上がる白い面と、目の縁に施された隈取りがいやにくっきり見える。
「さあ、何だろう。秘祭に参加した人達にお土産でも配ってるんじゃない」
「お土産……って感じじゃなさそうだけどな」
列はどんどん進み、黒ずくめとの距離も近付く。俺達の前にいた若い女性が、黒ずくめから何かを受け取り、列から外れた。次はいよいよ俺達の番だ。一体、何を渡されるのだろう。そんなことを考えていた時だった。
____パン。
耳をつんざくような大きな音に、一瞬身を竦める。何かが破裂したような、そんなニュアンスの音だった。と、同時にボタボタボタッと雨が降ってきた。
天を仰ぐ。それは____雨は雨だけれど、普通の雨ではない。生温かく、生臭い血の雨だ。雨と一緒に小さな小間切れのような物がちらちらと降り注ぐ。
俺は呆気に取られ、地面に降り注ぐ血の雨と小間切れのような物を見つめた。怪奇現象の一環として、空から蛙や魚が降ってきたという話を聞いたことがあるが、これもそのテのものなのか。
ふわり。片口に何か白い物が落ちてきた。よく見れば、それは眼帯だった。そういえば、俺達の前に並んでいた女性も、左目に眼帯をしていなかったか?
「…、っ」
まさか、まさか。まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか。
嫌な予感を払拭するように。縋るような気持ちであの人を探す。いない。見当たらない。ついさっきまで目の前にいたのだから、その辺にいるはずなのに。叫び出したくなる気持ちを堪え、右へ左へと視線を移すが、やはりいない。
事件……なのか?さっき聞こえた暴発音のようなものは、銃声なのかと背筋が凍る。だが、音は1回しかしなかったし、幾ら何でも1撃で大人が木端微塵になるとは考えにくい。
何が、起きた?
脳に酸素が行き届いていないのか、まともに思考回路が働かない。四方八方に散らばる、さっきまで生きていた人間の肉片。周囲はむせかえるような血の臭いと、内容物の酸っぱい臭いがミックスされ、卒倒しそうになる。
「……あ、あああ。け、けいさつ、よばなきゃ……」
混乱し、パニックになりながらも、警察を呼ばなくてはと思った。携帯、携帯はどこだ。どこにしまったっけ。ズボンやコートのポケットを弄るが、手が震えしまう。確かに持ってはいるのだが、どこにしまったのか思い出せない。
「次の方。前へ」
黒ずくめが俺を見た。声の感じからして、女の人だろう。彼女は俺に手招きをする。
「あなたの番です」
「け、けいさつ……警察呼ばないと。今、人が、死んで……、」
「気の毒でしたね」
黒ずくめは何の感情も含まない、淡々とした声で答える。そういえば、俺の後ろに並んでいる人達も至って静かだ。誰も悲鳴を上げないし、騒いでもない。その冷静さが、かえって気持ち悪い。
「苗どころとして、体質的に合わなかったのでしょうね。中にはそういう方もいらっしゃるのです。彼女は左目でしたし、眼球は失敗例が多いとされていますから」
「な、苗どころ……?」
「隠語ですよ。傷口のことです。傷を負っている箇所のことを苗どころと呼びます。彼女、左目に眼帯をしていたでしょう。あなたは見たところ、傷らしい傷は見当たりませんが……服で隠れているのですか?」
「傷って……いや、そんなことよりも!人が1人死んでるんですよ!?」
「存じています。私も彼女が死ぬ瞬間を目の当たりにしています。確かに気の毒ではありますが、元より死は覚悟の上でしょう」
そのためにここにいらしたのだから、と。黒ずくめは言う。
「あなたが気に病むことも、気になさる必要性もありません。あの女性は求め、私は与えた。あとはもう彼女の責任です。あなたも求めているのならば、心を乱したりしないように。もう1度聞きますが、あなたの苗どころはどこですか」
黒ずくめの口調は、有無を言わせない迫力があった。その雰囲気に呑まれるように、返答する。
「苗どころっていうか……舌先なら、さっき噛んで怪我してますけど」
「舌先、ですか」
では、と。黒ずくめが懐から懐紙を取り出した。それを丁寧に開け、中から小さな白い何かを取り出して掲げた。ふ
「名前と生年月日をお願い致します」
「え…、名前と生年月日?俺のですか?」
「違います」
「…、じゃあ、誰の____?」
「お姉さんのだよ、欧ちゃん」
耳元で誰かが囁く。その声に反射的に反応してしまい、口を開く。
「玖埜霧御影。生年月日は___、___、___」
「では、これを」
黒ずくめから差し出された、小さな何かを受け取った、まさにその瞬間。
「ふざけるなこの雌豚がああああああああああああああっ!!!!!!」
罵声が轟き、黒ずくめの体が後方に吹っ飛ぶ。彼女は左頬を拳で力一杯殴られたのだ。二転三転ともんどりうって仰向けに倒れ込んだ。あまりといえばあまりの出来事に、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をしていると。
「お前もお前だこのクソガキがあ!!!」
憤怒の表情を浮かべた姉さんに、思い切り平手打ちをかまされた。
◎◎◎
平手打ちをかまされ、一瞬気を失いかけるも、姉さんは俺が失神することを許してはくれなかった。目の前には殴られた衝撃で星がチカチカしていたが、そんな俺の腕を鷲掴みにし、姉さんは今来た道を戻る。
人が1人木端微塵になった時は誰も騒がなかったのに、今は津波が来た時のように騒がしい。だが、そんなことは聞く耳もたずの姉さんは、大股で歩き、忍冬神社の鳥居をくぐる。
鳥居の上に、人影が見えた。狐の面を被り、紺地に朝顔の模様が入った浴衣姿の女の子が鳥居に腰掛けている。
……いや、でも見間違いだろう。あんな高い所に腰掛けるなんて、不可能だ。
姉さんに腕を引かれるがまま、やってきたのは小倉第一高等学校のグラウンド。姉さんが通っている高校だ。ただっ広いグラウンドには、四方を注連縄によって囲われているスペースが出来ていた。その中央には、御神酒____だろうか。同じく注連縄で施された一升瓶が置かれてある。
「入れこの単細胞!」
腰の辺りを後ろから蹴られ、つんのめるようにして注連縄で囲われたスペースに顔から落ちる。何だかいつもより俺に対する扱いが乱暴な気がするが……。痛む顔をさすっていると、姉さんはギロリとこちらを睨む。
「この中は結界だからな。一歩でも外に出やがったら、平手打ちじゃ済まさないから」
「………」
要は出るなということらしい。こくこくと首を縦に振り、合意を示した。姉さんは俺のことを睨み付けたまま、一升瓶を掴むと。少々行儀が悪いが、喇叭飲みして少量を口に含み、ブッと俺の顔に吹きかけた。
「ぶっ!冷たい!」
顔を拭うが、すかさずもう1発。気管に入り、げほげほと咽せたが、攻撃の手は緩まない。更に4発ほど、顔や体に御神酒のシャワーを浴びた俺は、全身濡れ鼠のようだった。
続いて足払いされ、バランスを崩して地面にしこたま顎を打った。痛いと言う間も許されず、姉さんは俺を乱暴に仰向けにすると、その上に馬乗りになる。
「どこに怪我したんだ」
完全に据わった目で上から睨まれ、心臓が凍る。地表に放り出された魚のように口をパクパクさせていると、姉さんは無言で俺のコートのボタンを外す。それも1つ1つ外すのではなく、強引に引っ張るので、ブチブチッとボタンが幾つか弾け飛んだ。
「わっ、ちょっと……。何す、」
「どこを怪我したかって聞いてるんだよ!!」
セーターを脱がされ、その下に着ていたチェックシャツやランニングも強引に剥ぎ取られた。上半身裸である。へっくしゅんとくしゃみが出たが、今度はジーンズに手を掛けられる。
「わあああああ!やめてよしてそこはやめて!」
「黙ってないとぶっ殺すよ!」
抵抗も虚しく、ジーンズまで脱がされた。これ、まさに強姦という名の性犯罪ではないか。今や俺の最後の砦は、パンツだけだ。流石にこれだけは許すわけにはいかないので、脱がされまいと両手で裾を掴む。
「ちっ!」
姉さんは舌打ちすると、俺の体を隅から隅を調べ出した。頭の中から髪の毛の生え際、額、眉、目、鼻、唇、首筋、腕、胸、腹、足、背中……矯めつ眇めつ、少しの異常も見逃すまいといった様子だ。顔をギリギリまで近付けてくるので、肌に触れる吐息を感じ、くすぐったいやら恥ずかしいやら。目を瞑って堪えていたが、多分、耳真っ赤だ。
「……どこを怪我したの」
姉さんが俺に覆い被さるような体勢になって聞いてきた。怒っている様子は相変わらずだったが、先ほどよりは落ち着いて見えた。俺は無言で口を大きく開き、舌先を指先で示す。
すると、問答無用だとばかりに姉さんの右手が口の中に押し込まれた。きゅうっと舌先を抓られ、びくりと体を震わすが、容赦ない。姉さんは俺の口から手を引き抜くと。ほら、とばかりに摘まんでいる何かを見せてきた。
「蟲だよ」
_____それは。黒ずくめから差し出された物だった。白く細長い、うねうねと蠢く、幼虫だ。確かに手渡された物ではあるが、誓ってそれを口の中に含んだ覚えなどない。
「こいつが自らの意志で欧介の口の中に入り込んだんだよ。こいつは人間の傷口から体内に侵入し、その体を苗どころとして成長する。人の血を吸い尽くし、肉を貪り、巨大化する。体中を駆け巡り、ありとあらゆる臓器を食い尽くす」
「……気持ち悪い」
「眼球の中に寄生したり、腸壁や粘膜にへばりついていることもある。厄介なやつは、脳や心臓、或いは血管の中に潜んでいたりする。こいつはすぐには人間を殺さない。人体は栄養価が高いから、養分を絞れるだけ絞り、吸い尽くしてから出て行く。でも、」
たまに体質的に合わない人間は、こいつが体内に入った途端、ショック症状を引き起こすんだよ。
姉さんは眉間に深い皺を寄せる。
「蜂に刺されてショック死する人間がいる。それと原理は同じだ。ショック症状には色々なパターンがあって、一概にどんなことが起きるかは名言出来ない。だけども、共通点はある。ショック症状を起こした人間は、一瞬で死ぬ。これは全てに当てはまる」
一瞬で死ぬ_____その言葉にはっとなる。俺の目の前で亡くなった若い女性は、確かに一瞬だった。一瞬で肉体がバラバラになり、細かな肉片となってしまったのだから。走行している電車に飛び込んだとしても、ああはなるまい。
あれが_____蟲によるショック症状、なのか。
「……それ、何なの」
姉さんが指先で摘まんでいる幼虫を見やる。元々、虫系統はあまり得意ではないが。それに増して大の大人を一瞬で粉砕してしまう威力を持つ虫だ。気持ち悪い上、恐ろしいことこの上ない。
「だから、蟲(ムシ)だよ」
姉さんは顔をしかめた。
呪術に遣われる、蟲。
◎◎◎
古来より中国では、蟲毒という呪術があった。蟷螂、飛蝗、蜥蜴、家守、蛞蝓、蛙などを密閉した容器の中に入れて、3日3晩放置する。すると、密閉された空間の中で、凄まじい乱闘が幕を開ける。逃げ出すことも出来ず、闘うことを強いられ、勝ったものは喰い、負けたものは喰われる。喰うか喰われるかだけの地獄_____それが蟲毒だ。
最終的に残った1匹が「蟲」となる。これを呪術に用いて、相手を呪い殺すことが出来ると言われている。
お前が黒ずくめから渡された蟲_____正確には、蟲の幼虫だ。雄のみ爬虫類を集めて蟲を創り、雌のみ爬虫類を集めて蟲を創る。そうして残った1匹ずつ_____雄の蟲と雌の蟲で交配させて幼虫を創る。これを自らの体内に仕込み、時間を掛けて成長させる。そして成長した蟲は苗どころとなった体を離れ、別の人間の体内に入り込む。
苗どころとなった人間が呪い殺したい相手の元へと行くんだ。苗どころとなった人間は当然だが、死ぬ。自分の命を棄ててまで相手を呪い殺すことを願う人間のみが行う、最も胸糞悪い呪術だよ。
呪われた人間は確実に命を落とす。しかも、ただ死なせてくれるほど甘いわけじゃない。体から成長した蟲が皮膚を食い破って出てきたり、脳髄を乗っ取られて発狂したり、中には臓器全てが幼虫の体液で溶かされたりもする。そんな死に方、来世でも御免だね。
黒ずくめに名前と生年月日を聞かれだろう。あれは自分の名前や生年月日じゃない。蟲を遣って呪い殺したい相手の名前や生年月日を聞いたんだ。だから、ヘタしたら、お前も私も蟲の餌食になって死んでたよ。共倒れもいいところだ。
「………」
姉さんの話をぼんやり聞いてきたが、パンツ1丁の俺は寒くて寒くて仕方がない。歯はガチガチ鳴るし、体の震えが半端ない。とにかく今は服を着させて下さいと言おうとしたら。
「……うあああああああん!」
姉さんが堰を切ったように泣き出した。ボロボロ涙は流れるし、大きな声は出すし。ガチ泣きだった。人気のない夜のグラウンドで、パンツ1丁の少年に跨がって泣く少女。画的にはかなり危ないものがある。
「もおっ……、欧ちゃんの莫迦。莫迦っ、莫迦っ、莫迦っ……何でいつもっ、いつもそうなのっ……。あぶっ、危ないことばっかして、心配ばっか掛けて……、死んじゃったら、っ、どうするの……」
泣きながら、ぽかぽかと胸元を叩かれる。時節、しゃっくりしながら姉さんは泣き続けた。小さな子どもがだだを捏ねる時みたいな、むちゃくちゃな泣き方。とても高校生とは思えない、幼いものだった。
「ご、ごめんなさい」
済まないことをしたとか、申し訳なかったという気持ちよりも先に、こんな風に泣く姉さんの姿を見るのは一体いつ振りだろう、とか。レアな姉さんの姿が見られた喜びとか。そんなどうしようもないことを考えていた。
◎◎◎
後日談。あれから姉さんの怒りはしばらく治まらなかった。事が事だけに分からないではなかったが、登下校の際には、必ず姉さんの付き添いが約束されたし、土日は外出禁止だと言われた。
「私の目の届く場所にいて。いなくならないで」
姉さんは口癖のように言う。まあ、いつものことだ。いつも通りの____愛しき日常に戻れたということなのだろう。
ちなみに。岩下はやはり教頭先生から長い長いお説教をくらったそうだ。しかし、岩下の奴も負けてはいなかった。部室がない→勝手に他の教室を部室代わりにする→怒られる→でも、部室がない。この鼬ごっこを続けるくらいなら、部室を下さいと土下座したそうだ。
「その甲斐あってだな、今はもう使われていない空き教室を部室代わりに使っていいそうだ。努力は報われるものなのだな!」
岩下は得意気にそう言った。心霊研究部も、ようやく日の出が拝めそうだということだろうか。
あれからショコラには会っていない。あの無遅刻無欠勤である彼女にしては珍しいことなのだが、体調不良のため欠席している。担任の話によれば、重い皮膚炎に掛かってしまったとのこと。皮膚の下を、無数の虫が這いずり回っているような感覚があり、結構重症らしい。
……そういえば、姉さんがショコラの本名と生年月日を教えてと言ってきたので、教えたけれど。どうかショコラの病気とは無関係であってほしいと望むばかりである。
◎◎◎
「欧ちゃん、あれ誰?」
「お姉ちゃんだよ」
僕の、お姉ちゃん。
あの子は確かにそう言った。そのナチュラルな物言いに、呆気に取られた。
同情したわけでもない。気を使ったわけでもない。ごくごく普通に、何の企みも考えもなく、聞かれたことに対して答えた。あの子はまさにそういう感じだった。
お姉ちゃんだと言った。私のことを。確かにお姉ちゃんだとそう言ったのだ。
血が繋がらないのに。得体が知れないのに。忌まわしい家の出身なのに。
玖埜霧家に養子として迎えられても、ろくに話そうともせず、馴染もうともせず、視線すら合わせない私のことを。
私なんかを____お姉ちゃんと呼んだ。
あの子がお姉ちゃんと呼んでくれた。それだけで充分だ。充分過ぎるほど充分だ。生まれてきて初めて、生まれてきて良かったと、そう思った。
私はあの子のお姉ちゃんだから。だから、何があっても絶対に守る。守り抜いてみせる。何があっても、命に代えても、どんな時だって。
「姉さん、そろそろ学校行かないと遅刻するよ。早く行こうよ」
今日もあの子が私を呼ぶ。
私はいつまでも、あの子のお姉ちゃんなのだ。
作者まめのすけ。