夫婦喧嘩をすると妻がいつもと裏返しのことをしてきます。

中編6
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夫婦喧嘩をすると妻がいつもと裏返しのことをしてきます。

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妻と喧嘩をした。

原因は些細なことだったと思う。

アザラシとアシカとオットセイの違いだったか、イモリとヤモリとトカゲとカナヘビの区別だったか――いずれその手のことだったはずだ。よく覚えてはいないが。

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とにかく、小さな火種に端を発した口喧嘩は発展と脱線を繰り返した挙句、いつしかハルマゲドンやらラグナロクやらの様相を呈してしまった。主に妻のテンションが。

結果、完全にへそを曲げた妻は、夕食の後早々に夫婦の寝室に鍵をかけて籠ってしまった。

こうなると、呼べど叫べど完全に天岩戸。

たとえドアの前で裸踊りを踊ろうがカッポレを舞おうが、妻がちらりと顔を覗かせることもなく、その日私はしかたなくリビングのソファで寝ることになった。

これが日曜の夜のことである。

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たとえ夫婦喧嘩をしていようと、月曜の朝になれば私は仕事に行かなければいけない。そこはお互い大人である。

私が目覚めると、リビングのテレビが点いており、キッチンからは妻が作る朝食の匂いが流れていた。

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ソファの横には私の着替えが置かれていた。妻が用意してくれたものだ。

下着に、シャツ、靴下。

ありがたいと思って手を伸ばすと、それらすべてが几帳面に「裏返し」にされていることに気が付く。

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――またか。

そう思って、私は黙って衣類を表返していく。

これは妻が夫婦喧嘩の際によくやることなのだ。

すべてのことがいつもと正反対。裏返し。

着替えが裏返しなことなど序の口だ。私はこれから妻が何を仕掛けてくるのか、内心少し期待してしまった。

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食卓にはご飯に味噌汁、鮭の切り身に納豆という、純和風の朝食が並んでいた。

我が家の朝食は普段、パンにコーヒーというパン食メニューなので、これも地味に裏返しだ。

小皿に卵が入っていた。

私は黄身がトロトロの半熟卵が好みである。

割ってみると白身がトロトロで黄身が固い、温泉卵であった。

手が込んだ上に地味な裏返しだ。

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私の正面には妻が座っている。

ちゃっかり自分の分だけは焼いたパンをほおばりながら、それでも私と目を合わそうとしない。

普段はおしゃべりなくせに、一言も口をきかない。

肩にかかった髪を人差し指でクルクルと巻きながら、リスのように頬を膨らませている。

なにか違和感を抱いたが、すぐに忘れてしまった。

家を出る時間が迫っていたためだ。

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身支度を整え、鞄を持って玄関に向かう。

後から妻が付いてくる。

我が家の普段の出発の儀式。

これは、7年だか8年だか前に同棲を始めた頃からの習慣なのだが。

人様に大っぴらに公言するのははばかられるのだが。

行ってきますのチュウをするのだ。

それも結構濃厚なやつを。

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「――ん」

妻がふくれっ面のまま、唇を前に突き出す。

私は顔を近づけ、唇を触れさせる。

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shake

「っぷ――!!」

驚いた。一瞬顔が膨らんだかと思った。

こいつ、いつも舌を吸ってくるのとは逆に、私の口の中に空気を吹き込んできた。

妻は不機嫌な顔を崩さないまま、それでも少し口元が緩んでいる。

私がびっくりしたことが面白かったのだろう。

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「ん――」

靴箱の上に置いてあった、弁当箱を差し出してくる。

私は少しくやしい思いをしながら、家を出た。

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昼時。

弁当を開けた私は驚いて固まった。

私の様子を不審に思った隣の席の同僚が、私の視線の先を確認し、「うっ――」と小さくうめき声をあげた。

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私の弁当が一面真っ赤だったのだ。

鮮やかな。

紅い。

紅い。

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いや、正確には長方形の弁当箱のほぼ中央に、わずかに白が残っている。

その様子は、紅組が圧倒的大差で勝利した紅白歌合戦のごとし。

「――これ、奥さんの手作り……ですか?」

そう、これが我が妻の恐ろしさである。

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弁当箱を埋め尽くす、大量の梅干し。

そしてごくわずかに盛られた白米。

塩分過剰摂取で殺す気か。

「ええ――、これは『逆日の丸弁当』です」

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夜。

会社で「早く奥さんと仲直りしなさいよ」と多くの人から言われて、ふらふらになりながら帰宅した。

見ると、家の明かりが点いていない。

妻はどこかに出かけているのだろうか。午後も10時過ぎだというのに。

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「ただいま」と呼びかけてから、手探りで玄関の明かりを点け、靴を脱いで上がり込もうとした時だった。

玄関先の床に奇妙なものが転がっていた。

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それは、真っ赤なドーナッツ。

大きさと形状は、椅子の座る際に敷く、穴あきクッションといえば近いだろうか。

そして、紅いのである。

玄関の照明に、表面がてらてら、ぬらぬらと光っている。

どくんどくんと脈打っている。

一目見てわかった。

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これは――妻だった。

ドーナツ状の妻は、床の上に転がったまま、何事かブツブツとつぶやいていた。

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『新しい服を買ったのに、似合ってるって言ってくれない』

『ご飯のメニュー、がんばって増やしてるのに、美味しいって言ってくれない』

『最近エッチの回数が少ないって思ってるのに、気付いてくれない』

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ああ――これは妻の本音だ。

言えずに胸のうちに溜め込んでいた、彼女の本音。

蛙は異物を飲みこむと、口から胃袋を吐き出して、裏返しにして洗うと聞いたことがある。

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妻は、言いたかった本音を吐き出すために――

衣類を裏返し、

朝食メニューを裏返し、

卵を裏返し、

行ってきますのチュウを裏返し、

日の丸弁当を裏返し、

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自分自身を裏返したのだ。

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『髪を切って肩までにしたのに、気づいてくれない。昔は髪型を変えたら、すぐに気付いてくれたのに』

朝食の時に感じた違和感。

あの時、髪をいじっていたのは彼女なりのアピールだったのか。

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『同棲を始めてから、昨日でちょうど9年目だって、はっきり覚えててくれなかった』

ああ――

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『――ねえ、今日は私たちが昔、同棲を始めた記念日ね』

『そうだったっけ。結婚記念日は覚えてるけど……。たしかサークルの飲み会に他大の君が参加して、そこで初めて知り合って……』

『違う!飲み会の前に、皆でバーベキューをした時に少しだけ話してるわ!』

『そうだったっけ。それから付き合いだして、同棲を始めてからもう7年……いや、8年か。

けっこう経ってるなあ』

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shake

『違う違う違う!

私たちが同棲を始めてから今日で9年よ!なんでそんな大切なことしっかり覚えてないの!

あなたって、いつもそういうところボンヤリなんだから!

きっとアザラシとアシカとオットセイの違いもわからないんでしょう!

イモリとヤモリとトカゲとカナヘビの区別もつかないんだわ!』

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ああ――そうか。

妻があれほど怒ったのは、私が初心を忘れていたからか。

売り言葉に買い言葉で夢中になって、口論のきっかけを忘れてしまっていた。

これは全面的に私が悪い。

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「ごめんね」

私は床で丸くなっている妻を拾い上げ、胸に抱きかかえた。温かかった。

彼女はまだブツブツ言っていたが、私は彼女を抱えたまま寝室へ行き、ベッドにもぐりこんだ。

そして、その文句を聞きながら眠りに落ちた。

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翌朝には、彼女は元に戻っていた。

朝食もいつも通りのパン食だ。

私は彼女に平身低頭謝ってから、「それにしても、君の怒り方はすごかったなあ」と、素直な感想を漏らした。

妻は私の顔を見てくすりと笑い、こう云った。

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「愛情の裏返しよ」

私は思わず咳き込んだ。

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