「何も追っ掛けて来ねえかい――?」
町内の若い衆が集まって馬鹿話に花を咲かせている最中、悲鳴を上げて長屋に駆け込んできたのは、お調子者で通っているトメ公である。
その場にへたり込むと、頭を抱えて尻を突き出し、ガタガタと震えている。
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「何だい何だい?誰かに追われてるのかい?」
戸の外を確認し、「大丈夫だ、何も来ないよ」と告げると、トメはようやく顔を上げ、はあと一息ついてから、おっかない目に遭ったと云った。
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「いや、ここへ来るのに近道をしようとな、松の湯の横の薄っ暗い路地、あそこを通ったんだ。そうしたらさ、目の前にあの野郎がいやがったんだよ。とぐろ巻いて、首をひょいと持ち上げて、口をぱくり、舌をぺろぺろ――」
「なんだいそりゃ?」
「蛇」
蛇だよ、こんな――。そう云って顔の幅に両手を広げる。
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「へえ、そりゃ随分と太いねえ。お前が怖がるのも無理はねえ。ウワバミってやつだな」
「いや、長さが」
「長さかよ!それじゃミミズじゃねえか。情けねえなあ」
トメは照れくさそうに「へへへ」と笑った。
「俺は餓鬼の時分から、どうにも長虫は駄目なんだ。蛇だけじゃねえ、長くて細せえもんが無性に怖え。ミミズも厭だし、そばも食わねえ。実を云うとふんどしも締めてねえ」
だらしのない話もあったものだ。
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「まあ人間、虫の好かねえってのはあるもんだ。そういや聞いたことがある。胞(えな)――へその緒な、あれを生まれた後にこう、切るだろう?そいつを土の下に埋めるんだが、その上を初めに通ったものを、生涯嫌いになるそうだよ」
トメ公の胞の上は、きっと蛇が通ったのだろう。
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「面白れえもんだな。ここにいる連中は昔からの馴染みだが、そういや聞いたことがねえな。どうだい?ひとつ怖えものを言い合わねえか?おい、そっちはどうだい?」
「俺はね、なめくじ」
「ああ、なめくじな。あれは気味が悪いな」
雨の日に厠を這っているところなぞ、見ていて気持ちのよいものではない。
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「お前は?」
「蛙。びょこびょこ跳ねやがる。気味の悪い声で鳴くよ?怖えじゃねえか」
蛇に蛙になめくじで、こりゃ見事に三竦みだ――皆が笑った。
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「俺は馬が怖え」
「馬なんぞ怖いかね?」
「怖えよ。何と云っても面が長いよ?ほっかむりする時に手ぬぐいが何本要るよ?」
おかしな怖がり方だ。
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俺は蟻。黒い小せえのが、行列作ってるのを見るとぞっとする――。
俺は蜘蛛だ。あの足がいけねえ――。
「皆怖えもんがあるもんだな。――おい、辰(たっ)ちゃん。お前、そんな処で煙草吹かしてねえで、こっちへ来て話に加われよ」
辰は、怒ったようにふんと鼻を鳴らす。
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「どいつもこいつも云うことがくだらねえ。さっきから聞いてりゃ、いい若けえ者が、あれが怖え、これが怖え。情けねえじゃねえか。いいか?人間は万物の霊長って云うんだ。何を怖がるもんがあるってんだ」
「小難しいこと云いやがって。どうせ意味なんぞわかってねえんだろうが。じゃあ何かい?お前は怖えもんなんてないって云うのかい?」
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「ああないね。だいたいトメ公、てめえ蛇が怖えなんぞとぬかしやがって。いいか?蛇なんて、あんなに重宝なもんはねえんだぞ?」
「蛇は重宝かい?」
重宝だろうがよ――。辰が煙を吐き出す。
「風邪をひいた時によ、はちまきを締めるだろ?代わりに蛇でもってやってごらんよ?締めなくたってひとりでに締めてくれるぜ?ひんやりしてさ、心持ちがいいや」
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「おい、豪傑だねこいつは。どうだい馬なんてのは?」
「馬なんぞ、あれほど役に立ってくれるもんもねえじゃねえか。食ったって旨えしさ」
「確かに旨えな」
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「当たり前だい。何だい、蟻?蟻なんてものは怖くもなんともねえ、あんな小せえもの。俺はなんだぜ?おこわ食うのに胡麻が足りねえなって時にはよ、蟻を十匹ばかり捕まえてぱらぱらっとかけるんだよ」
「胡麻の代わりにすんのかい?」
「そうだよ、胡麻が動いて食いにくいがな?蜘蛛なんてものもな、納豆食う時に糸の引きが足りねえと思ったら、二三匹ぶち込んでごらんよ、あっという間に糸引くぜ」
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「へえ、お前はなんでも食っちまうんだね?」
「なんだって食うよ。殊の他四つ足はなんでも食うよ。それが証拠にどうでえ、近頃この辺りに」
――猫がいねえだろ?
辰がにやりと笑う。
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「やってんのかい?」
「やってんのよ当たり前じゃねえか。実はな、この間もこういう話をしたんだよ、脇でもって。そうしたら聞いてた野郎がな、本当かい?四つ足だったらなんでも食うかいって、こう云うからさ、当たり前だ、なんでも食うから持ってこいって云ったらな、持ってきやがったよ――こたつ」
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「こたつ櫓(やぐら)ね。確かにあれは四つ足だな。そりゃいけねえ、謝ったかい?」
「謝るもんかい、云ってやったよ。確かにこたつ櫓は四つ足だけどよ、俺はこういう」
――あたるもんは食わねえ。
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「上手いこと云いやがる。なるほど、それじゃあお前には怖いものなんかねえな?」
「当たり前だ、冗談言っちゃいけねえ。俺に怖えもんなんて――」
とたんにガタガタ震え出す。
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「おい、様子が変わってきたよ?なんだい、怖えもんがあんのかい?」
「勘弁してくれよ。実のことを云うとよ、思い出したくなかったから、こうして強がり云ってたんじゃねえか。え?云わなきゃ駄目かい?しょうがねえ、わかったよ、俺が怖いものはあれだよ――饅頭だよ」
「饅頭?饅頭って食う饅頭かい?お前、饅頭が怖いのかい?」
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「怖えよ。俺は餓鬼の時分から、嫌いってんだじゃねえ――怖いんだよ」
「へえそうかね?
どれも怖えってえのか?」
「怖ええよ。ああ駄目だ。俺、なんか気分が悪くなってきやがったよ。
ちょいと隣で休ませてもらうぜ?」
「ああそうかい。わかった、悪かったな。布団使っていいからな」
辰が隣の部屋に引っ込んだのを見ると、皆が示し合わせたように声を潜めて集まる。
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「おい、聞いたかよ?辰の野郎、饅頭が怖えんだとよ」
「聞いた」「聞いた」「聞いたよ」
「どうだい、話だけであの態度だよ?皆でもって饅頭買ってきて、奴の寝込んでる枕元に置いたら……どうなるかね?」
「よせよ、死んじまうぜ?」
「いいよお死んでも。どうせ世の中の役に立ってるわけじゃねえんだから」
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「そんなこと云ってもよ、饅頭でもって殺しちまうなんてお前――餡殺ってえんだよ?」
「うまいこと云うねお前も……。いいよいいよ、皆して買ってこいよ」
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………
………
………
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「蕎麦饅頭、腰高饅頭、栗饅頭、葛饅頭、酒饅頭、いろいろ集まったな。
ほら、盆に乗せろ。いいか、俺がこっそり奴の枕元に置いてくるからな。静かにしてろよ?
――これでよし。奴めうまいこと寝入ってやがったよ。それじゃあ始めるぜ?
おう、辰ちゃん!まだ具合はよくならねえか?よくなったらこっち来てまた話さねえか!」
「うるせえなあ。まだ気分が悪いんだよ。
お前らがあんまり饅頭饅頭云うもんだから、夢となくうつつとなく、なんだか目の前に饅頭があるように思えてくるぜ」
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「そうかい?目の前に饅頭があるように見えるかい?じゃあさ、枕元見てごらんよ」
「枕元?枕元になにがあるって――
shake
あああああああああああああああああああああああああああ!」
響き渡る辰の悲鳴。
「おお、あれだけ怖がってくれると、やったかいがあるってもんだ。
どうしたい辰ちゃん、なんかあったかい?」
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「なんかあったかい、じゃねえよ。どうしてこういうことするんだお前らはよう。
怖えよ、怖え、恐ろしいよおー……。
怖えならどうすりゃいいんだ?
……食べちまえばいいんだ」
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襖の向こうからなにかをほおばる音。
shake
「うわあああ、怖えよおー!……旨い、旨い。
shake
怖えよ怖えよー!……旨い、旨い」
「……おい、様子がおかしいぜ?食ってる音しねえか?」
たん、と襖を開けてみる。
盆の上の饅頭を、あらかた食いつくした辰の姿。
「あ、この野郎!本当は饅頭が好きなんじゃねえか!くそ、こっちが一杯食っちまった。
おいお前!本当ななにが怖いんでえ?」
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「へへ、ここらで一杯、濃いお茶が――
shake
sound:18
ぐ、ぐえええええええ………」
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泡を吹き、喉をかきむしり、畳の上でびくりびくりと身体を震わせている辰。
「辰ちゃん?辰、どうしたい?
おい、この野郎、返事をしなくなっちまったぞ?饅頭でも喉に詰まらせたかな?おい、辰ちゃん!」
やがて、ぴくりとも動かなくなる。
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「死んでるよ……?この野郎、死んでやがる……」
残った饅頭を調べていた者から、声が上がる。
「見ねえ、これはお前……石見銀山だよ」
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「ねずみ捕りかい?それじゃあ何か、饅頭の中に毒を入れた奴がいるってのかい?
誰がそんなひでえことを。辰はおめえ、ちょいといけ好かねえこともあったが、同じ町内の仲間じゃねえか。それを誰がこんな……てめえかい?」
違う、お前こそ。
いや違う、お前だろう。
わいわい云い争う、そのうちに。
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「――だがよ。こんな野郎は、死んでよかったんじゃねえのかい?」
誰かがぽつりと云い出した。
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「てめえ、なにを云いやがる」
「でもよ、熊。お前は若けえ時分、惚れた女をこいつにかっさらわれたと、随分恨み言を吐いてたじゃねえか。
そうだ、小間物屋のみぃ坊だ。かわいい娘だったな。お前、ずいぶん入れあげてたじゃねえか」
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「それはお前……昔のことよ。
昔のことだが、ただな……。
この野郎、まだ初(うぶ)な娘をいいだけ弄んで、あっさり捨てやがった。
あいつは娘に惚れて近づいたんじゃねえんだ。俺が熱を上げてるのを見て、からかうためだけに、娘を誑かしやがった。
娘はその後、気を病んで、体崩して死んじまった。
当の辰の野郎はどこ風ってなもんだった。
それはお前――許されていいことじゃねえだろう」
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「甚兵衛さん、お前さんだって、辰のことは――」
「なにを云うんでえ、過ぎたことだ……」
「そうは云うがな、昔、お前さんの子供が、赤犬に噛まれたその怪我が元で死んじまったじゃねえか。
犬は打ち殺されたが、元はといえば、あれは辰が酔ってどこからか連れてきた奴だ。
ろくに世話もしねえで、放してあったもんだから、犬の方も飢えて噛みついたんじゃねえか」
「ああ、それでもこいつは詫びもしなかった。そんな奴は」
――許せねえ。
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許せねえ。
許せねえな。
ああ、許せねえ。
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「こいつは饅頭が好きだったな」
「ああ、好きだった。なにしろ盆の上に山と積んだ饅頭を一息に食って、『喉に詰まらせて死んじまう』くらいだものなあ――」
皆が床に転がった辰を見下ろす。
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「葬式饅頭を頼まなきゃなあ――」
「当のこいつは、もう食えねえがな」
違えねえ。
違えねえ。
作者綿貫一
こんな噺を。
【落語】蛇含草 ―外―
http://kowabana.jp/stories/25080