俺には4つ年上の姉がいるーーー。そんな風に語ることは、一体いつぶりだろう。
ここのところ、長い間勤めてきた語り部役を違う人間に奪われ、少々暇を持て余していたところだ。前回、いや前々回か。いつもは通り名しか登場しないはずの母親が、語り部役を買って出た時は驚いた。その前の語り部は、何と姉さん本人だったし。今回は父親かと思ってヒヤヒヤしていた。もし父親だったとすれば、玖埜霧ファミリー勢揃いだ。
まあ、多忙な父親のこと。語り部役を引き受けたりはしないだろうとは思っていたけれど。多忙も理由の1つだが、あの人は寡黙で口下手なので、語り部役を任せてもずっと黙ったままだろう。それでは流石に読者の皆様に申し訳ないので、良かったと思おう。
……しかし、納得がいかない。長い間、ずっと語り部役を勤めてきた人間にしてみれば、複雑である。セカンドシーズンを迎えるにあたり、今回が初めて俺が語り部役を勤めるのだ。前シリーズでは、全て俺が語り部役を担当していたというのに。玖埜霧欧介(クノギリオウスケ)は語り部役を下ろされたのではないかと本気で心配になったものだ。
だが、安心してほしい。或いはガッカリされたかもしれないがーーー今回の語り部役は、久し振りに玖埜霧欧介である。これでも、語り部の勤めは誰よりも長いのだ。古株である。ポンと現れた新人枠に、今いるポジションを易々と乗っ取られるわけにもいくまい。
とはいえ。ストーリーの都合上、次回の語り部役が誰に回るかは分からない。出来たら、セカンドシーズン中も最後まで語り部役を勤めあげたいものだが……。玖埜霧欧介14歳。姉さんシリーズの語り部役を死守したいと願う中学2年生がお送り致します。
どうかご静聴下さいませ。
◎◎◎
「高校を卒業したら、玖埜霧家を出たい」
姉さんがそう言い出したのは、つい最近のことではない。小倉第一高校に入学した当初から、姉さんはそう言っていた。
姉さんは「外観は整っているけれど、中身が壊れている人間」だということは、これまでもシリーズで散々暴露してきたが、意外にも成績はいい。偏差値も高いし、それなりの大学に進めそうだと担任からお墨付きを頂けるほどだ。
学校生活においては、素行の悪さ(他人とはほとんど口を利かない)はあるものの、目立ったトラブルはない。髪の毛を染めたりピアスを開けたりと、校則違反をしているわけでもない。なので、推薦は確実に貰えるのだという。
だが。それなりの大学に進学するとは言い出さず、民俗学を専門としている大学に入りたいのだと姉さんは言った。姉さんが目指すその大学は、我が田舎町より更に田舎である。我が田舎町には、田舎ながらもコンビニだったり遊園地だったりと、小さな町ながらも頑張っているのだが。大学がある正真正銘の田舎には、コンビニや遊園地などはない。豊かな田園地帯と、山の裾野に広がる山や森。正直、電気やガスが通っているかさえ怪しい場所なのである。
普段は仕事人間である両親も、流石に驚いたようだ。出張だと言って海外に出向いていた2人が、僅か2日で帰ってきたのだから。いつもなら、1ヶ月ほど留守にするはずなのに。
学校から帰ってきてみれば、両親が揃って家にいたことには嬉しかったが。珍しく両親と姉さんが真剣な、かつ緊迫した空気で話し合いをしているので、何事かと心配になった。自室に引っ込もうと思ったが、姉さんに捕まり、何故だかリビングのソファーに座らされた。姉さんはその隣に座る。
「私は、家を、出たいです」
両親に対しては敬語を使う姉さんの声は硬い。緊張しているのか、そう話す姉さんは俺の右手を握り締めている。握られた手は僅かにだが震えていた。
「お父さん。お母さん。私が家を出ることを許して下さい」
「お父さん、お母さん、欧介から受けた恩義は絶対に忘れません。忘れるなんて出来ません。私は玖埜霧家の娘で良かったと思っています。これからもずっと、玖埜霧家の娘でいたいです」
「思えば、私はずっと甘えてきました。お父さんにもお母さんにも、欧介にも。温かい羽の下に潜り込み、外敵から身を隠す雛のように。大切に守られ、苦労をせず、痛みを知らず、巣から飛び立つことが怖くて出来ませんでした」
一言一言を噛み締めるように。或いは噛んで含めるように、姉さんは続けた。俺の右手を握り締めたまま。
「人間はーーー無機質で恐怖の対象でしかなかったけれど。玖埜霧家の人達は違いました。穢れた血筋の私を、赤の他人である私を、そのまま受け入れてくれた。玖埜霧という苗字を、御影という新しい名前を与え、家族として温かく迎え入れてくれました」
ーーー欧ちゃん、あれ誰?
ーーーお姉ちゃんだよ。僕の、お姉ちゃん。
「あの時の欧介の言葉ーーー私をお姉ちゃんと呼んだこと。絶対に忘れません」
「私の生まれや生い立ちは奇異なもので、決して望まれたものではなかったけれどーーー」
「それがあなた達に巡り会うために必要なものだったのなら、奇異な人生も愛おしく思える」
「だからこそ、」
「私は家を出たい」
「強くならなければいけないんです。私は家族にたくさん守られてきた。今度は私が家族を守りたい」
姉さんの言う「家を出たい」という発言。この時の俺は、大学に進学するために1人暮らしをするのだという意味だと思っていたが、それだけではなかった。姉さんの言う「家を出たい」発言は、もっと深い意味があったのだ。
「私はーーー高校を卒業したら、元の苗字に戻ります」
それは。玖埜霧家から養子縁組を解くという意味合いを持つのだった。
◎◎◎
姉さんの「家を出たい」発言は、平穏な玖埜霧家に一石投じた。一石どころではない、石礫の雨が連日連夜降り注いだ。両親も俺も、流石に養子縁組を解きたいと言われたことはショックだった。後で聞いた話だが、父親は養子縁組を解きたいと言われた時、対面のソファーに座りながら、気絶したのだそう。全く気付かなかったが。
いつもは穏やかで、あまり口煩くない母親が、声を荒げそうになるのを必死に堪えている姿も珍しかった。俺ですら、少し涙目になってしまったほどだ。
ただ、姉さんとしては、決意は固いらしい。家を出たいと言ったことも、前々から考えていたことだそうだ。養子縁組を解くことも、別に嫌気が差したとかそんな理由からではないという。では、どんな理由があるのかと聞いたら、はぐらかされた。それでもしつこく聞いたら、キスで黙らされた。両親の目の前で。
「条件があります。あなたの言い分ばかり通すのは、母親として面白くありません」
そう切り出したのは、母親だった。父親は寡黙を守ったままである。恐らくだが、まだ気絶しているのだろう。
「養子縁組を解くという話はともかく。あなたの人生なのだから、あなたの思うままにしていいと言えるほど、私は出来た母親ではありません。大学で民俗学を学びたいと言うのなら、学費は出しましょう。ただし、1人暮らしは許しません」
母親は難しい顔をして姉さんを見やる。姉さんは少し困ったような顔をしていたが、それでも反論はひなかった。
母親は1人暮らしを許さないと言ったがーーーまさか、寮に入れとかそういうことだろうか。しかし、姉さんが進学したいと言っている大学が、必ずしも寮付きとは限らない。それに寮とはいえ、集団生活だ。姉さんが赤の他人と集団で生活を共に出来るとは思えないが……。
だが、そうではなかった。母親は意外なことを口にした。
「祖父母宅から大学に通いなさいーーー少なくとも1年間は」
◎◎◎
母親の両親、つまり俺や姉さんからしたら祖父母にあたる人達は、遠い田舎に住んでいる。偶然にも、祖父母宅から姉さんが目指す大学は、バスを使って1時間ほどの距離だ。どうしても心配な母親は、姉さんを1人暮らしさせたくはないらしい。
とはいえ。大学生活が終わるまで祖父母宅にいろとは言わないが、1年間は祖父母宅で生活すること。大学生活に慣れてきて、1人暮らしが出来そうだと思ったら、してもいいとは言っていた。
「それが守れないと言うのなら、学費は出しません」
母親はそう言い切った。姉さんは少しの間、躊躇ったようだが。「分かりました。お母さん、ありがとうございます」と言って、会釈していた。
母親は手回しがいいようで、その日のうちに祖父母に連絡を取ったようだ。年に数回会うだけの祖父母は、どちらかといえば、取っつきにくいタイプの人達だ。孫を猫可愛がりする人達では断じてないし、割と厳格である。
祖父母は、母親からの突然の申し入れにも関わらず、すんなり承諾したようだ。ただ、1度挨拶に来なさいと言っていたそうな。自宅から祖父母宅に行くには、まず新幹線に乗り、電車とバスを乗り継いで半日掛かる。必然的に泊まりとなりそうだ。
そんなわけで。姉さんは週末、祖父母宅へと出向いていった。案の定、俺も引き連れて。
◎◎◎
「おじいちゃんとおばあちゃん、まさか2人で来るとは思わないんじゃないの」
「欧介が半径3センチ以内にいないと、私は呼吸困難起こす。姉を殺す気か」
3センチって。ほぼ密着しているに等しい。
山道とも獣道とも呼べそうな、道なき道を歩きながら、俺は前を歩く姉さんの背中に問い掛ける。朝早く出発し、新幹線、電車とバスを乗り継ぎ、出歩くこと半日。小高い山の麓に祖父母宅はある。日は傾き始め、辺りは薄紫色に染まりつつあった。
既に脹ら脛辺りが悲鳴を上げており、歩く度にビーンと糸が張ったような痛みが襲う。堪らずしゃがむと、姉さんがやれやれと言いながら、俺をお姫様抱っこした。
「や、あの。こういう場合はおんぶじゃないの?」
「おんぶより横抱きのほうが抱きやすい。横抱きが嫌なら、担ごうか」
「……いえ、このままでいいです」
「はー、それにしても疲れた。疲れているのに、欧介を抱えているから、余計に疲れる。どこかで休憩していくか」
「ごめん……。その辺の道端で休んでく?」
「出来たらその辺の道端よりも、ラブホでご休そ……」
「しないー‼」
この山の中に、そんな娯楽施設があるわけないよ。
そんなやり取りも挟みつつ。日が暮れる頃になり、ようやく俺達は祖父母宅に着いた。
俺達を迎え入れてくれたのは、祖母のほうだった。こじんまりとした囲炉裏を囲み、出して貰った熱いお茶を啜る。祖母は頻りに外の様子を気にし出した。
「おじいちゃん、まだ帰って来ないのよねえ」
田舎に暮らしているにも関わらず、訛りがない。着ている服も、地味ではあるが、野良着ではなく、普通のものだ。久し振りに会ったが、そんなに変わった様子はなくて安心した。聞けば、祖父は用があって、出掛けているという。俺達が来る頃には帰ってくると言っていたそうだ。
だが、夕食の時間になっても戻る気配がない。おばあちゃんと姉さんが夕食の準備をしている間、俺は暇だったので、おじいちゃんを探しに行った。懐中電灯を拝借し、家を出る。ひんやりとした山の空気が体を包んだ。
と。
「君……この辺の人?」
背後から声がした。振り替えると、人の良さそうな顔をした男が立っていた。細面で髪が長く、うなじの辺りで括ってある。背中にはリュックサックを背負っていた。男ははにかむように頬をかいた。
「驚かせてごめん。俺は地元の大学で民俗学を学んでるんだ。篠山と言います。宜しく」
「地元の大学……、まさか九十九大学ですか?」
「そうだけど……よく分かったね」
篠山さんは目を丸くした。俺は適当な笑みを浮かべ、簡単に説明する。
「ええ、まあ。うちの姉がそこを目指してまして。祖父母宅が近くにあるので、遊びがてら来てみたんです」
「ふうん、そう。で、君はどうして夜なのに外に出てるんだい。散歩かな」
「いえ、祖父を迎えに行こうと思ってて。まだ帰ってこないから」
「なら、好都合だ。俺もお供させて貰おう。旅は道連れ、夜は情けーーーってね。それに君は運がいい。この時間帯なら、見られるはずだよ」
興奮気味に話す篠山さんの目は、ギラついている。山に住む野生動物でも見られるのかと思ったが、そうではなかった。
「【袋吊し】が見られるんだよ」
◎◎◎
篠山さんは俺を連れて、小高い山を上り出した。祖父を迎えに行くと最初に言ったはずだが、彼はすっかりそのことを忘れているようだ。
「袋吊しって何ですか」
折れた枝をペキペキ踏み鳴らしながら、篠山さんに聞いてみた。彼は好きなアイドルのコンサートにでも行くような、ニコニコと楽しそうな笑顔を浮かべており、懐中電灯の光超しに見ると、何だか薄気味悪く感じた。
「この辺に伝わる言い伝えだよ。夜、暗くなると山の木に小さな巾着袋みたいなやつがぶら下がっているらしい」
「それ、もしかして人の生気を吸う化け物じゃないですよね?姉に聞いたことありますよ」
「人の生気を?嗚呼、そういう妖怪もいるらしいね。だけど、それは天からぶら下がっているはずだ。袋吊しはそうじゃない。普通に木の枝にぶら下がってる巾着袋だよ」
「巾着袋、ですか。誰かが悪戯でぶら下げていったんじゃないんですか?」
「そうかもしれない。でも、昼間は何故だか見つけることが出来ないらしい。夜になると、見つかるらしいよ。僕も教授に聞いただけだから、確信はないんだけどね」
「……つまり、その巾着袋も妖怪や何かだと?」
「妖怪っていうよりは、この辺りに伝わる風習から来てるものらしいけど。でね、その袋の中身なんだが……」
篠山さんがピタリと歩みを止めた。忙しなく辺りを窺うようにキョロキョロする。そして。
「スゥゥゥー、ハァァァーッ……スゥゥゥー、ハァァァーッ……スゥゥゥー、ハァァァーッ……スゥゥゥー、ハァァァーッ……」
何をしているのかと思えば、深呼吸だ。深く息を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返す。
「さ、篠山さん?どうしたんですか」
「スゥゥゥー、ハァァァーッ……、スゥゥゥー、ハァァァーッ」
ひとしきり深呼吸をした篠山さんの目は、とろんとしていた。いや、とろんとしていたというより、焦点が合っていない。黒目だけが小刻みに動き、どこを見ているか定かではない。
「こっち」
ふいに篠山さんが動いた。彼の右手から、ボトリと懐中電灯が落ちる。落としたことに気付かないのか、そのまま歩いていく。視点は定まっていないようだが、足取りは意外とちゃんとしている。だが、異様なほど猫背だった。
「こっちこっち」
篠山さんが首をカクンとさせて俺を見た。ほっておくわけにもいかず、ついていく。明らかに先程とは様子が違う。だが、何を話し掛けても「こっち」としか言わない。
30分ほど歩いただろうか。篠山さんは再び立ち止まり、乾いた笑い声を上げた。新しい玩具を貰った子どもがはしゃぐかのように、ぴょんぴょんとジャンプをしている。
「篠山さん……、大丈夫?」
「あれっ、見て。あれ、見て。あったぁ~」
彼が指差すほうに目をやる。懐中電灯で照らすと、生い茂る暗い木立の枝から何かがぶら下がっているのが見えた。警戒しながらも、そっと近付く。それは茶色く汚ならしい麻袋だ。それが幾つもぶら下がっている。
「こ、これが袋吊し……?」
だが、どう見てもただの麻袋だ。人の手で作られたと分かる物だし、触ってみても別に何ともない。妖怪や魑魅魍魎の類とは思えない。
それでも何か1つ挙げるとするならばーーー臭いだ。鼻をつく腐敗臭や刺激臭がするわけではない。むしろ、いい臭いがする。お香を焚いたような、落ち着ける香りだ。キュッと閉めてある袋を開けてみると、お茶葉のような、茶色い干からびた滓のような物が入っていた。
「な、何これ……」
どう見ても、お茶葉にしか見えない。だが、臭いが違う。お茶というよりは、お香だ。独特の臭いがするお香……。
「あ~、いーいにおいだなあ~」
篠山さんがギュッと巾着袋を掴む。唇の端からは、ブクブクと黄色い泡を吐いていた。
「あ~、いーいにおいだなあ~」
嬉しそうにそう言うと、彼は袋を開けた。辺りにはお香のような臭いが立ち込める。篠山さんは、袋の中に鼻を突っ込むようにして、何度も深呼吸をした。
「あ~、いーいにおいだなあ~」
鼻先では足りないと思ったのか、篠山さんは頭ごと袋に突っ込んだ。小さな袋は、彼の顔の体積ではち切れんばかりに膨らんでいる。俺は篠山さんの肩に手を掛け、叫んだ。
「篠山さん‼篠山さん‼もう帰りましょう‼」
「あ″~、い″~い″に″お″い″だな″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″あ″
」
袋超しにくぐもった声。まるで、今度は体ごと袋の中に入りたいとするかのように、彼はゴソゴソと手を袋に突っ込む。食虫花の香りに誘われた昆虫のようだ。
「篠山さんっ‼篠山さん‼窒息しちゃいますよ‼」
「いー……、いに、お、いだ、な、あ~……、」
呼吸が苦しくなってきたのだろう。篠山さんはバタバタと暴れ出した。袋を引っ張るのだが、全く外せない。破いてみようと力任せに引っ張るが、ほつれもしない。
携帯で助けを呼ぼうにも、ここは圏外だ。山を下りて直接人を呼ぶべきだろうが、慣れない山道を1人で戻れるかは自信がない。最悪、遭難してしまうか野生動物の餌だ。
だが、そんなことも言ってられない。元来た道を引き換えそうと踵を返す。すると、名を呼ばれた。
「欧介!欧介か⁉」
おじいちゃんだ。俺は駆け出し、おじいちゃんにしがみつく。
「おじいちゃん‼篠山さんが……」
「あっ、袋吊しか‼」
俺の肩越しに篠山さんを見たのだろう。おじいちゃんは俺にそこにいろと言い、篠山さんの元に駆け付けた。篠山さんは袋に顔を突っ込んだまま、ダランと力なく揺れていた。
「……間に合わんかったか。手遅れだ」
おじいちゃんは苦々しく呟く。そして両手の人差指を組んで印を結ぶ。すると、袋から弾き出されるかのように、篠山さんの頭が出た。
「…ひっ、」
「見ちゃあいかん‼」
時既に遅し。篠山さんの顔を見て、ぞっとする。顔の筋肉が全て緩んでしまったかのようだ。穏やかと言えば聞こえがいいかもしれない。篠山さんの死顔は、酷く満ち足りた表情だった。目は半開きであり、口元は笑っていた。歯を見せて嬉しそうに笑っていたのだ。
◎◎◎
おじいちゃんと家に戻ると、おばあちゃんと姉さんが待っていた。おじいちゃんはおばあちゃんと短い会話を交わすと、村の集会があるからと出掛けていった。また、朝になったら即効帰宅するように命じられた。
布団の中で姉さんに先程の話をすると、ボソリと言われた。
「欧介がおじいさんを探しに行っている間、おばあさんが話してくれた。【首を吊るすぞ吊り上げろ、見せしめ懲らしめ袋吊し】ーーーってね」
以下は姉さんから聞いた話である。
この辺りでは、昔から泥棒が多かったそうだ。泥棒といっても、村の若い連中によるものだったらしい。田畑を荒らし、留守の家に忍び込み、金や着物を盗む。更には、村の若い娘を数人がかりで強姦し、川に棄てたりもした。また、胎児は薬として高値で売れるからと、妊婦を殺して腹を捌き、子宮ごと胎児を盗むなど、悪逆非道の限りを尽くしていた。
村の人達は、身内の犯行だからと最初は多目に見ていた。というより、報復が恐ろしかったのである。村にはお年寄りの比率が高く、大柄で力もある若者達に挑んでも、負けるのが関の山だ。下手に注意を促せば、殺されてしまいかねない。
だが、彼らの悪行は留まることを知らなかった。若い娘が立て続けに強姦される事件が発生し、目を瞑っていられなくなったのだ。
そしてある晩のこと。村人は若者達にしこたま酒を飲ませた。いい気分で酔い潰れているところを見計らい、家の中に押し入った。手にした鋤や鍬で殴り、あらかた抵抗しなくなっても、村人達の怒りは治まらなかった。若者達を引摺り、大岩に縛り付け、山の頂上から突き落としたのだ。
こうなっては一溜りもない。岩はゴロゴロと荒く削りだった山肌を転がり落ち、若者達は頭や手足などがもぎ取られた。山の中には点々と、彼らの一部が転がっていたそうだ。
そしてその首を見せしめとして、麻袋に詰めると、木の枝に括り付けた。雨風に晒され、肉や眼球がどろどろに溶け、山鳥の餌になってもそのままだった。やがて風化し、残った骨すら朽ちて茶色い滓となっても、何年も吊し続けていたそうだ。
「その茶色い滓なんだけど、凄くいい臭いがするらしい。中にはその臭いに取り込まれ、窒息するまで臭いを嗅ぎ続ける人もいたってさ」
姉さんはニヤリと笑って、囁いた。
「どんな臭いがした?」
俺はぶるるっと肩を震わせ、布団の奥に潜り込んだ。あの芳しいお香のような香りを思い出し、ひたすら目を瞑って丸くなった。当然だが、一睡も出来ないまま夜は明けた。
結局、久し振りに会えたおじいちゃんとおばあちゃんとはろくに話せないまま、俺達は帰路に着いた。姉さんに、さりげなく「本当に4月からあの家に住むの?」と聞いてみたが、結果は「勿論」だそう。
「あそこら一帯は、昔から伝わる風習が色濃く残っているしね。民俗学を学ぶには、最適の場所だよ」
また日を改めて訪ねようと言われたが、正直、迷っている。篠山さんのことを思うと、軽はずみに遊びに行ってはいけないと思うのだ。
ところで。帰りの新幹線の中で姉さんに聞いてみたことがある。それはどうしても気になっていたことだ。あの時ははぐらかされてしまったが、あれから気になって仕方なかったのだ。
「姉さんはどうして養子縁組を解くの?」
姉さんはプリッツをかじりながら俺を見た。だが、俺が拗ねたような顔をしていたからだろう。かじりかけのプリッツを俺に渡しながら言った。
「結婚したいから」
「………はい?」
「結婚して、【玖埜霧】の苗字になりたいから」
ーーーそうすれば、本当の【家族】になれるじゃん?
姉さんはそう言って、快活に笑うのだった。
作者まめのすけ。