この団地は赤ちゃんがよく死ぬことで有名だった。
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◇◇◇
「ふう、やっと寝てくれた」
マチ子はようやく寝かしつけた太郎をベビーベッドに寝かせるとそっとタオルケットをかけた。
この団地に越してきてから、太郎はよくぐずるようになった。それまではあまり手のかからない子で、親思いの良い子だとママ友に自慢するほどだった。
団地は転勤してきた夫へ会社から貸し与えられたものだ。
引っ越してきた時、複数の住人に不躾な視線で見つめられ、マチ子は不愉快な思いをした。
値踏みされていると思い、荷物を運びながら失礼な人々をあからさまに睨んだ。社宅なら上司や同僚、その妻たちに気を遣わねばならないかもしれないがここは社宅ではない。
住人達はマチ子が睨むと視線をそらした。
新住人に対しての一時的なものだとその場は気を静めたが、それからほぼ毎日誰かがこちらを見つめていることにマチ子は気づいていた。
頭に来たマチ子は管理人に抗議しようと考えていたが、太郎がひどくぐずるようになり、住人たちを気にしている場合ではなくなった。
その後も住人たちの態度は変わらなかったが、もうどうでもよくなっていた。
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マチ子は太郎から解放された後、残業で遅くなった夫・太一の夕食を用意した。
「太郎またぐずってたのか」
「そうなのよ。近頃特にひどくなって」
「なんでだろうな。あっちにいた頃は全然そんなことなかったのに。この部屋、ダニでもいるんじゃないか。刺されてかゆいからぐずるとか」
「ううん。そんなことないと思う。痕もないし」
太一は、「じゃ、どうしてだろうなあ」と呟きながら飯を口に入れた。
黙々と夕食を食べた太一は湯呑を差し出した。
マチ子は急須に入れた熱い茶を注ぐ。ついでに自分の湯呑にも注いだ。
「ねえ、あなた、ちょっと変なこと言うんだけど、別に頭がおかしくなったわけじゃないからね」
マチ子が前置きしてから真剣な眼差しで、夫に「太郎ここの人たちに呪いかけられてるんじゃないかな?」とささやいた。
太一はお茶を噴いた。
「おいおい。そんなことあるか。第一、俺ら呪いかけられるほどここの人たちと関わってないぞ」
テーブルに飛ばしたお茶をティッシュペーパーでふき取りながらマチ子を見る。
「そうなんだけど――あの人たちいつも暗い顔でこっちをじっと見ててなんか気味悪くて。
太郎の具合が悪いのはそれが原因のような気がする」
「と言っても、呪いなんてありえないよ。よくそんなこと思いついたな」
太一は笑うと、「ただ物珍しくて見てるだけだよ。他に赤ちゃんいないみたいだしさ。太郎もそのうち治ってくるさ。環境の変化が一番の原因だ、きっと」
「わたしもそう思って様子見てたけど――慣れてくるどころか、だんだんひどくなってくるから――」
「おいおい、そんな気に病むな。だから変な妄想するんだよ。大丈夫、大丈夫」
その時、ベビーベッドのある部屋で物音がしてマチ子は振り向いた。
「なんか音した?」
「そうか? 俺は聞こえなかったけど」
マチ子は太郎の様子を見に行こうと立ち上がりかけた。その手を太一が握る。
「もう寝たんだろ? 泣き声してないから大丈夫だよ。それより久しぶりに――」
「でも――」
「ここんとこあいつずっとぐずってて、お前つきっきりだったろ? 俺のことも構ってくれよう。一緒にお風呂入ろうよう、ママぁ」
「もうやだ、あんたは赤ちゃんか」
マチ子の胸に顔を擦り付け抱きついてくる太一を押し返しながら寝室の気配を窺った。だが何も聞こえず、さっきの音は気のせいだと思った。
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太郎は寝室のベビーベッドですやすやと眠っていた。
誰も触れていないのにかちゃりとドアが開くと、ハイハイする赤ん坊が入ってきた。
赤ん坊は何かを探すようにかわいいお尻を振って徘徊し始めた。
この間からずっとここに来ていたが、目当てのものが見つからず、いつも部屋をぐるぐる回るだけだった。
探しているのは甘いミルクの匂いがするものだ。久しぶりに嗅ぐこの匂いの元は確かにこの部屋にいる。だが、いっこうに見つからない。
赤ん坊の探しているもの、それは赤ちゃんだった――
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ようやくハイハイをし始めた頃、身も心も若すぎた母親に放置され、赤ん坊はこの団地で餓死をした。父親は母親と喧嘩別れしてとうにいなかった。
お腹が空いて動けなかった体は命が尽きた時に自由になった。どこへでも移動できたし、お腹が減ることもなくなったが寂しさは消えず、団地中をハイハイして母親を探した。
ママドコ? ママ? ママ?
だが、母親は赤ん坊の死体をそのままに姿を消していた。
ある日、甘い匂いのする部屋に気付いた。
幸せな気持ちになるその部屋に行くと布団の上に赤ちゃんが寝ていた。清潔そうなうさぎ模様のケットがかけられている。
ママイナイ、ジャ、オトモダチ、ツクル。
赤ん坊は自分の素敵な思いつきにわくわくしながら、赤ちゃんの顔の上に尻を乗せて窒息死させた。
だが、赤ちゃんの純真無垢な魂は天から降りてきたきらきらと輝く光に導かれ、すぐ昇っていってしまった。捉まえようとしても捉まえることができない。
なら自分もその光についていこうとしたが、赤ん坊の体は決して天に向かって浮きあがることはなかった。
その後も赤ちゃんを見つける度に友達にしようとしたが、どうしてもできなかった。
やがて団地から赤ちゃんがいなくなってしまい、新しく来ることもなくなってしまってから長い年月が経った――
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ココゼッタイ、オトモダチイル。ナノニ、ミツカラナイ。
赤ちゃんがぐずぐずと鼻を鳴らし始めた。
ハヤクシナイト、ナイチャウ。
自分が近づくと赤ちゃんが何かを感じてぐずり始めることを赤ん坊は知っていた。泣くと母親が部屋に飛んでくることも知っている。
だから赤ちゃんを見つけると真っ先に顔に座る。
赤ん坊は必死で探した。
そのせいで目の前の柵をよけられなかった。ぶつかったのはベビーベッドだが赤ん坊はそれを知らない。
ぶうと唇を尖らせながら忌々しそうに柵を見上げると甘くて幸せな匂いが上から漂ってくることに気付いた。
この上に赤ちゃんがいるのだと頬を緩め、ベッドの柵をよじ登る。
寝ている赤ちゃんを見つけ、きゃっきゃと声を立てて笑った。
赤ちゃんが今にも泣き出しそうに顔を歪めたので、素早くその上に座る。鼻と口を塞がれた赤ちゃんのむぐぐと呻く声が尻の下から聞こえた。
オトモダチデキル。
そう思うと嬉しくてたまらず、お馬ごっこのように体を前後に揺らす。
太郎の両手が持ち上がり、苦しそうに空をかいていたが、パタンと落ちたあとは動かなくなった。
赤ん坊は尻を上げ、紫色になった太郎を見て嬉しそうに笑った。わくわくして待っていたが、いっこうに友達になれる気配がない。
そうこうしているうちに天から神々しい光が降りてきた。太郎の体から白く輝く丸い魂が出てくるとふわふわと光に導かれ天に昇っていった。
赤ん坊はそれをただ見ていることしかできず、光が消えるとがっくり項垂れた。
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後片付けを済ませたマチ子は音を立てないようそっと寝室に入った。
豆電球の光の下、先に風呂から上がった太一がすでにいびきをかいて眠っている。
太郎はタオルケットから両手を放り出して眠っていた。
今晩はよく眠っているとマチ子はほっとした。
夫の言う通り、環境の変化のせいだったに違いない。もう、ピークは去ったのだ。
心から安堵の微笑みを浮かべ、太郎の頬にそっと手を触れる。だが、異常な冷たさを感じ、思わず手を引っ込めた。
「太郎? 太郎?」
マチ子は名を呼んで息子を抱いた。小さな頭が力なくぐらぐらと揺れる。
「いやああ、太郎」
マチ子の悲鳴に太一が目を覚まし、「どうしたんだ」と目を擦って明かりを点けた。
「あなた、太郎が。太郎がっ」
太一が息子の様子に血相を変え、慌てて一一九番に電話をした。
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医師からは太郎の死は窒息が原因だと伝えられた。
顔のそばにぬいぐるみなど置いてなかったか、掛物が顔に掛かっていなかったか、頻繁に様子を見ていたかなど、我が子を放ったらかしにしているダメな母親かどうかを問われているようにマチ子には聞こえた。
寝返りの際にタオルケットが鼻を塞いだのだろう、医師はそう言ったが、太郎の顔には何も掛かってなどいなかった。
それを一生懸命伝えたが、医師や看護師の視線が痛かった。無責任な母親が子供を見殺しにしたと思っているに違いない。
マチ子は隣に座る夫にゆっくり顔を向けた。
太一は項垂れて医師の話を聞いている。
風呂から上がって寝室に入ったのはこの人が先だ。その時、太郎の異常に気付いてくれていたならあの子は助かっていたかもしれないのに。
そうよ。あの物音がしたと思った時もわたしは様子を見に行こうとしてた。なのにこの人が止めたんだ。
わたしだけが悪いんじゃない。
わたしだけが悪いんじゃない。
わたしだけが悪いんじゃないっ。
憎しみを込めてマチ子は夫を睨んだ。
視線を感じたのか太一が顔を上げる。
マチ子にはその目が自分を非難しているように見えた。
「わたしが悪いの?」
「マチ子?」
「わたしだけが悪いって言ってんの? わたしが太郎を見殺しにしたって思ってんの? どれだけわたしがあの子を大切にしていたか、あんたにはわからないの?」
「よさないか。誰もそんなこと言ってないだろ」
太一は医師たちの視線を気にしながら、つかみ掛かってきた妻の手を押さえた。
だが、マチ子は止まらなかった。太一の手を払いのけ、両腕を振り回し殴りかかってきた。
「わたしはちゃんと太郎を見てた。見てた。見てたあああぁぁぁっ」
ヒステリーを起こしたマチ子は押さえつけようとする医師の眼鏡を飛ばし、看護師のきれいにまとまった髪を乱した。
医師が鎮静剤の投与を看護師に指示する。
「マチ子、マチ子」
太一は妻を抱き締めた。だが、マチ子は悪魔に憑りつかれた者のように激しく身を捩り暴れるのを止めなかった。
看護師がマチ子の腕に注射する。
「だんなさん。事件性がないとは思ってますが、赤ちゃんの不審死は一応警察に届けないといけないので――」
医師は眼鏡を拾って額に落ちた髪をかき上げながら机に戻った。
「はい。わかりました」
妻を抱えた太一は床に座り込んだまま頷く。頬に一筋の涙が流れていた。
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静かになったマチ子を空いた病室で休ませてもらい、太一は缶コーヒーを片手に待合室で項垂れていた。
そこに名を呼びながら看護師が駆けつけてくる。
奥さんが病院の屋上から飛び降りたと叫んでいたが、太一には看護師が何を言っているのかしばらく理解できなかった。
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◇◇◇
この団地は赤ちゃんがよく死ぬことで有名だった。
だが、きょう引っ越してきた赤ちゃん連れの若い夫婦はそのことを知らなかった。
団地のあちらこちらで住人たちが暗い目で引っ越し作業を見つめている。
赤ちゃんを抱いたひっつめ髪の妻が会釈した。だが、誰も会釈を返す者はいなかった。
「なんかやな感じだわぁ。ここの人たち」
妻が引っ越し業者に混じって作業している夫に耳打ちする。
「気にすんなよ。そういうのどこにでもいるもんさ」
首にかけたタオルで汗を拭きながら夫が妻の肩をぽんと叩いた。
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夕方、引越しも無事終わり、
「さ、お隣さんに挨拶に行こうか」
「オッケー。あっ、ちょっとこれ持って」
妻は挨拶品の入った紙袋を夫に渡した。
「あれ加奈は?」
「ちょうど今眠ったから置いていくわ」
「大丈夫か?」
「だいじょぶ。だいじょぶ。ちょいちょいと行って、早く帰ってこよ」
二人は慌ただしく玄関を出た。
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加奈は閉めきった暗い部屋ですやすやと眠っていた。
ベビーベッドはまだ組み立てられておらず、畳の上に布団を敷いて寝かされている。
かちゃりとドアが開き赤ん坊が顔をのぞかせた。
オトモダチミツケタ。
久しぶりの赤ちゃんを見てにんまり微笑むとハイハイで近寄り、加奈の顔を覗き込んだ。
不穏な空気を感じ取ったのか、加奈が今までの赤ちゃん同様むずかり始める。
すかさず赤ん坊が顔の上に尻を乗せた。
廊下からどすどすと荒っぽい足音が近づいてきた。母親がもう感づいてやって来たのかと思ったその時、いきなり襖が開いた。
そこに立っていたのは髪を振り乱した女だった。明かりを点けず赤ちゃんをあやそうともせず、黄色く濁った目を吊り上げてじっと睨んでいる。
今までそんな母親を見たことがなかった赤ん坊はびっくりして動けなかった。
赤ちゃんの母親たちはみな、優しくふんわりといいにおいがして、すぐ我が子を抱き上げる。
だが、この女は黒くて禍々しく、赤ちゃんを見ようともしない。
自分を睨んでいるのだと気付いた赤ん坊は急いで赤ちゃんの顔から降りた。
「お前だったんだな」
地の底から響いてくるような恐ろしい声がした。
「太郎を殺したのはお前だったんだな」
女の髪がぶわりと逆立つ。
コワイ、コワイヨォ。
赤ん坊はハイハイして逃げた。
女が追いかけてくる。
赤ん坊は泣きながら逃げ続け、女はそれをいつまでも追い続けた。
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◇◇◇
加奈が何事もなくすくすくと育っていくと住人たちの表情に笑顔が浮かび始め、加奈一家はすっかり団地の一員になった。
その後、赤ん坊連れの家族がだんだんと増えていき、赤ちゃんがよく死ぬという悪評は消えた。
だが、たまに勘の鋭い人が入居すると、部屋を逃げ回る小さな何かの気配とそれを追うどす黒い何かの気配を感じることがあるという――
作者shibro
誤字脱字等ありましたら教えてくださいm(_ _)m