芹沢慎司は心に決めた──。
妻、紗英の奇行に一生つきあっていくと。
一年前の悪夢。
その日は息子、健太郎の二歳の誕生日を妻、紗英の実家で祝おうと車を走らせた。
前日、徹夜で仕事をした俺に変わってハンドルは紗英が握っていた。
近道の山道を通り、急カーブを右に曲がる直前、対向車がセンターラインを大きく割って入ってきた。そのまま接触。
外側を走行していた俺達の車はガードレールを突き破り数メートル先に落下した──。
その時の事故で、俺達夫婦はひとり息子の健太郎を亡くしていた。
紗英はその日から少し変わってしまった。
事故以来、紗英は言葉を話せなくなってしまったのだ。本で調べたところ心因性失声症だと思われた。
それと同時に、出産前、母親教室で使用していた新生児教材人形を、息子、健太郎だと思うようになってしまった。
食事、排泄、入浴の世話は勿論人と同じように扱い、外に買い物に行く時もベビーカーに乗せ、俺達三人で出かける。
そんな俺達夫婦を世間は白い目で見たり、時には気持ち悪いだとか口にする者もいる。だが、それが何だと言うのだ。
これで、少しでも紗英の傷が癒えるのならば、世の中にどう見られようと俺には関係なかった。
幸い、俺の仕事は自宅でする事が主で、週に一、二回程度、クライアントとの打ち合わせで外出するだけなので、ほとんどの時間、自宅で過ごすことができる。
紗英は健太郎にかかりっきりなので、家事全般は俺がこなしている。
若い頃から長いこと一人暮らしをしていた経験があり、その頃を懐かしんで楽しくやっている。
料理は昔からの趣味のひとつで、週に何度か本格的なディナーを作るのだが、その度に紗英は喜んでくれる。
煮込み料理の火加減を気にしながら、ソファーに座る紗英を見ると、健太郎を膝に座らせ手遊びをしている。
「そうだ、──紗英」
濡れた手をエプロンで拭う。
「誕生日会、舞ちゃん来てくれるって連絡があったよ」
次の土曜日は健太郎の三歳の誕生日。
そこで紗英の妹、舞ちゃんを誕生日会に招待したのだ。
事故当時、舞ちゃんは俺達夫婦を気遣ってよくこの家に来てくれていた。俺も当時はショックで何も手につかず、身の回りの世話を舞ちゃんがやってくれていた。
あの時の御礼もまともに言えてなかったので、それも兼ねてと紗英と決めた誕生日会だった。
「舞ちゃんと会うのも久しぶりだから楽しみだな」
俺は紗英の肩にそっと手をやった。
separator
篠原舞は覚悟を──決めた。
土曜のお誕生日会で話し合ってみよう。
やっぱり、死んだ人をいるものとして扱うということは、故人が浮かばれないのではないかと思う。
何よりも今を生きる者が前に進んでいない──。
最初は私もそれで気持ちが楽になるのであれば、決して悪いことではないと思っていた。
それでもやはり今は、現実を直視し、少しずつでも前に進んで行ってほしいと切に思う。
お誕生日会の当日、舞は義理の兄、慎司の自宅玄関前でゆっくりと深呼吸をしていた。
わたしが余計な事を言って更に傷が深くなるのではないか、安定している心が乱されるのでは、慎司さんにとって最善なのか? そんな思いが覚悟を決めたあの日から、ずっと頭を悩ませた。
だけど──このままではダメだと自分を信じて勇気を出し、チャイムを押した。
すぐにドアが開き、慎司さんが迎えてくれた。
「やあ舞ちゃん、よく来てくれた」
姉に紹介されて初めて会った頃にくらべて大分痩せた。元々スマートな体型だっただけに──今は病人のそれを思わせる。
「慎司さん、お久しぶりです、今日はお招き頂きありがとう」
手土産の白ワインを渡しつつ、軽く挨拶した。
「こちらこそ、来てくれてありがとう。さあ、入って、入って」
玄関で靴を脱ぎ、揃えてる背後で慎司さんが、「おーい、舞ちゃん来てくれたぞぉ」とリビングに向け声をかける。
用意されたスリッパをつっかけ、慎司さんに続きリビングに入った。
部屋の中はいかにも誕生日会といった様子。
折り紙で作った輪っかの装飾品、テーブルの上に様々な料理。湯気のたつ唐揚げや、ちらし寿司、バースデーケーキ。
そして──誕生日席に座らされている赤ちゃんの人形。
その人形と対面するように座らされた女性のマネキン。
「さあ、舞ちゃんも座って、誕生日会を始めよう!」
人形とマネキンを相手に、楽しそうにお喋りを始めた慎司さんを眺めながら、舞は思い出していた。
一年前の事故でお姉ちゃんと健太郎を亡くした慎司さん──それはもう大変な哀しみようだった。
毎日の慟哭、お酒に溺れる日々、目を離すと自殺するのではないかと常に心配だった。
ある日、仕事を終えていつもの様に慎司の様子を見に来た舞が目にしたもの。それは──マネキンを紗英と呼び、それを相手に一人で喋り続ける慎司の姿だった。
服飾のデザインを仕事にしている慎司の部屋に置かれたマネキン。慎司さんはそれをお姉ちゃんにしてしまった。
そうなってからは、俺がしっかりしなくてはと、以前の慎司さんを取り戻していった。
すると、今度はお姉ちゃんの悲しみを癒すために自分の中で現実を書き換え、新生児教材人形──健太郎が出来上がった。
ただ、それで慎司さんの精神が安定して落ち着くのであれば悪いことではないと私は思った。
それでもやはり、人形達を相手に生活をする慎司さんを少し恐いと思ってしまい、家に様子を見に行く回数も減っていった。
先々週頃だろうか、街で偶然、慎司さんを見かけた。
ベビーカーに赤ちゃんの人形を乗せて、脇には女性のマネキン。ひとりで喋りながら楽しそうに笑っていた。
慎司さんの気持ちは痛いほど分かる──でもこれじゃあだめだ。
「ねぇ、慎司さん......もう止めよう」
舞はうつむき、声をだす。掌がしっとりと汗をかいた。
「ん、どうしたの? ──舞ちゃん?」
「もう、止めようよ......、健太郎もお姉ちゃんも、もういないんだよ」
今度は慎司の目を真っ直ぐに見つめた。
「ちょ、ちょっと舞ちゃん──」
慎司さんはマネキンを気にする態度で、人差し指を自分の口にあて私に向ける。
「何を言ってるの、舞ちゃん、ほら紗英も困っているよ、変な冗談はやめ──」
慎司さんが喋るのを遮り、私は続ける。
「一年前の事故でふたりとも亡くなったじゃない......」
過去を思いだし、わたしの目に涙が溢れる。
「これは......お姉ちゃん達じゃない」
「ヤメロ、......紗英が泣いている──」
慎司さんの声は、怒りだろうか? 震えている。
しかし、ここで黙るわけにはいかない、私は意を決して続けた。
「これは! ただのにんぎょ──ごふっ」
言い終わるまえに喉に痛みが走った。泪で霞む目が見たもの──突きだした慎司さんの腕がみるみると赤く染まっていく。
カクンと頭が下がりテーブルに目がいくとケーキカット用のナイフがなくなっていた。
なんとか声を出そうとするが、ナイフが刺さった喉はひゅうひゅうと虚しく鳴るだけだ、やがて、あぶく混じりの血を吐血し、私は崩れ落ちた。
separator
血に染まった顔をタオルで拭い、慎司は席に着いた。
「騒がしくしてすまなかったね、紗英」
血だらけの手でろうそくに火を付ける。
「今日から、舞ちゃんも一緒に暮らすことになったよ、──楽しくなるね」
三本のろうそくに火が点る。
「さあ、誕生日会を続けよう」
作者深山