私が小学生の頃の話です。
私達は、当時、2LDKのアパートで、両親と私と弟の四人で暮していました。
父は自営で塗装の仕事をしており、自営とはいえ、決して暮らしは裕福ではなく、父と母は、よく喧嘩をしていました。金銭面でも女性面でも、父はだらしない人だったので、母も相当苦労したのではないかと思います。
そういうこともあり、母はまだ幼い弟を連れて、しょっちゅう実家に帰っていました。
私は、学校があるということで、まだ弟は当時保育園に通っており、母としては止むを得ない選択だったのかもしれませんが、当時、私は置いていかれることに傷ついていました。
そんなことも、もう社会人となってしまえば、遠い昔の話で、私と母は、仲の良い親子でした。
ただ、一つだけ、解せないことがありました。
あれは、小学5年の冬休みのことでした。
母がいつものように、正午前に昼ごはんの支度をするために、台所に立っておりました。
私は、だらだらとこたつに横になって、テレビを見ていたのですが、急に頭が重くなり、頭痛で起き上がれないほどになりました。母に助けを求めようと、台所に這って行くと、どうも妙な臭いがします。母は、ボーっとガスコンロの前に立っており、その臭いはガスの臭いでした。私は重い体をなんとか動かし、コンロのつまみを慌てて元に戻しました。
「お母さん、何しよるん!ガス、開きっぱなしやん!」
すると、母は無表情で私に向き直ると、黙っていました。
まるで、母ではないみたいに。別人のように私をキョトンと見ていました。
私は、慌てて窓を開けて換気をすると、ようやく頭痛がおさまってきました。
母は何をするでもなく、呆然としています。
私は、あの出来事は、もしかしたら、当時思い悩んだ母が、私を道連れに無理心中を図ろうとしたのではないかと、大人になって思いました。
その後、父は67という若さで他界してしまいましたが、その後も私と母は私が嫁いでも、時々遊びにきたりして、良好な関係を保っておりました。
ところが、最近になって母は、痴呆が始まってしまい、まるで別人のようになってしまいました。
あの、ガスを開いて呆然と立ちすくんでいたあの顔と同じ、無表情な顔で、徘徊を始めたので、やむなく弟は母を施設に預けることに。
最初は母を見舞って、時々施設を訪れておりましたが、弟は覚えていても私のことは全く覚えていません。
「おかしいなあ。俺より、姉ちゃんのほうが仲が良かったから、覚えてそうなもんだけどな。」
弟はしきりに、不思議そうに私に話します。
「仕方ないよ、呆けちょるんじゃけ。」
私はそう言いながらも、内心ショックでした。
そして、私は、あの日の核心へと、母の一言で導かれてしまいます。
「なあ、何であんとき、死なんかったん?」
いきなり母が私に、帰り際に言葉を投げかけてきたのです。
私が驚いて、母の顔を見ると、ニタアと笑いました。
母は、あの時と同じ、別人のようでした。
もしかしたら、母は、あの時も、別の何かに支配されていたのではないかと、そんな疑念にかられてならないのです。今、母は、完全に、あの誰かに支配された。
そんな気がしてならないのです。
その日から私は、母には会いに行っていません。
作者よもつひらさか