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中編6
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自殺の代償

   パンプスを脱ぎ、冷たいコンクリートに足をおろした。

   所々、赤錆が浮いた金網のフェンスに指を引っ掛け、足の裏に食い込む痛みに耐えながら少しずつ上がり反対側に回る。

   足が地面に着くと同時に、秋の夜風が強く吹き頬を叩いた。

   五階建てのビルの屋上。時折強く吹く風に注意しながらへりまで進み下を覗いた。

   真夜中のオフィス街に人影は無く、ぽつぽつと立ち並ぶ街灯が、夜の街を寂しそうに照らしている。

   ゆっくりと屋上のふちに両足を揃えて立つと、心臓がうるさいくらいに鳴り始め恐怖心を煽った。

深く呼吸をして、掌を胸の前で組み目を瞑る。顔を少しだけ上げ、天を仰ぐ形で重心を前にかけようとした。──その時。

「もしも、──」

独りきりの屋上から声が聞こえ、慌てて振り返るが誰もいない。

   明かりの無い屋上で、月の光だけを頼りに目を凝らすと、私の左手、数メートル先、フェンスを挟んだ向こう側に人影が揺れた。

「もしも、飛び降りて死ねなかったら、どうなるんだろうね?    凄く痛いんだろうな」

変声していない少年特有の中性的な声が続ける。

「きっと身体は不自由になるだろうし、寝たきりになんかなったら、家族の重荷にもなるよね」

   声のする方へゆっくりと近づく、突然のことに警戒はしているが、優しい声音のせいか、怖いと思う気持ちはなかった。

薄闇の中にうっすらと輪郭が浮かび上がる。

金網にもたれる様に両手を掛け、少年がフェンス越しにこちらを見ていた。

十歳くらいだろうか、私の胸あたりの身長で、長袖の白いTシャツに黒い細身のジーンズ。長めの髪が風にさらさらと揺れている。

「それで、自分で死ぬこともできずに、一生ベッドの上で生きていく──」

少年はわざと体をぶるっと震わせ、

「怖いよね」と、顔をしかめた。

   少年の前に立ち、フェンスを挟んで対面する形になる。

「止めて......くれてるの?」

私の言葉に少年はすまし顔で首をかしげた。

目の前の少年が普通の人ではないことくらい私でも分かる。こんな時間に子供が一人でいる訳がない。

私は腰を落とし、両手を膝に置いて少年の顔に目線を合わせた。長い睫毛や鼻筋がどことなくあの人に似ている。

私とお腹の子を捨てて家庭を選んだ──あの人に。

   目の前の少年。この子は私の子供で、未来から私を止めに来た?    

まさか、そんな事がある訳ないと、自分の都合のよい妄想に呆れて苦笑した。

   この少年はそう、私の罪悪感が産んだ、ただの──幻覚。

   不倫の末、男に捨てられ相談できる友達もいない、アパートに籠りただ泣くだけの毎日。自堕落な生活で日々を過ごし、会社もくびになった。

   なんで私だけがこんな目に合わなければならない?    私が何をした?     私だって幸せになりたかった!

   悪気は無かったが少年に、睨むような目を向けてしまう。

少年と目が合う。その無垢な瞳は私の心の中まで見透かすかの様に感じた。

(また自分のことばかり考えているの?)

そう言われているような気がして、慌てて視線を地面にそらした。

そう......、私はいつも自分のことばかりだった。

   愛は正義と自分に酔っぱらい、相手の家族のことなど、これっぽっちも考えたことはなかった。

自分の父親が不倫していると子供が知ったらどう思うのだろう?

何もない田舎が嫌だと半ば強引に家を出て、数年間ろくに連絡もとらず、自分達の知らないところで勝手に自殺し、娘の訃報をしらされる親の気持ちは?

   少しずつ私の中で何かが変わろうとしていた。

   自分の弱さを人のせいにして、失ったものばかりを数え、大切なことには目を背けた。

   挙げ句、私の身勝手な選択に我が子まで道連れにするなんて──。

   自分、自分、自分、自分、自分、自分のことばかり......私は......最低だ。

   恥ずかしさと、自分の浅はかさに胸が締め付けられた。

しかし、それと同時にさっきまでとは真逆の感情が湧いて来ていることに気付く。

   閉ざしていた心の闇に光が差し込むような感覚を覚えた。

生きたい!    お腹のこの子と一緒に。

   幸せになりたいと願うのではなく、幸せになるんだ! この子と二人で。

   目の前の少年が幽霊だろうと、幻覚だろうと、現れてくれたことで大切なことに気づくことができた。

本物の感情は勝手に口から漏れる。

「ありがとう......ありがとう」頬を涙がつたう。いつ以来だろう?    こんなに暖かい涙を流せたのは──。

「でもさぁ──」

それまで黙っていた少年は屈託のない表情で喋り始めた。

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「でもさぁ、お姉さんは大成功だね、飛び降りて、ちゃんと死ねたんだから」

「えっ......?」

   少年がそう言うのと同時に私のこめかみを冷たいものが流れた。

   自然と右手でそれを拭い、目をやると、手のひらが赤く染まっている。

そっと頭部に手を持っていく。触れた部分が陥没しており、くちゃくちゃの頭皮からとくとくと血が流れていた。

次の瞬間、頭痛と強い耳鳴りに襲われた。

それまで見慣れたていた景色が赤黒い世界へと暗転する。

押さえた掌から手首をつたい、ひじの辺りから鉄臭い液体がちょろちょろと流れている。

動悸が激しくなり息が荒い、足元がおぼつかず地面に膝が着いた。そのまま上半身も傾きコンクリートに両手を着く、顔が真下を見る格好になり、地面にできた血だまりの中に、大人の親指程の胎児が転がっていた。

「嫌ああぁぁ!」

自分が絶叫していると気付くのに暫くかかった。

   頭が回らず、ただ急いで子宮に戻さねばと慌てるが、潰したらいけないと、そっと拾い上げようと両手を寄せる。

すると、顔も形成されていない、勿論、声帯などあるはずもないそれが、私を拒絶するかのような、耳をつんざく程の悲鳴を発した。

   赤子の癇癪とは到底思えないような酷い声にたまらず耳を塞ぐが、声は意思をもった生き物の様に私の耳から侵入して、脳を鷲掴かみにし、激しく揺さぶるような感覚に目眩と吐き気がした。

   頭上で少年の声がする。

「たまにいるんだよね、自分が死んだことに気がつかなくて、お姉さんみたいに何度も、何度も、なーんども、飛び降りてる人がさぁ」

   ふらつき、涙で目も霞むが、力を振り絞り立ち上がって少年と目を交わす。

「......私は、死んでいる?    嫌だ......生きたい、この子と......一緒に」

   両手の中に優しく拾い上げられた胎児の叫び声はなおも続いている。

   今までに感じたことのない絶望と恐怖が物凄い速度で膨らんでいく。

「お姉さんはさぁ、もう何年も前に、とっくに死んでいるんだよ」

「嫌だ、いやだ、イヤダ......」

膨れ上がった感情が私を闇に引き込もうと手招きをする。

「結局、自殺なんて、成功しても、失敗してもいいことなんか無いんだよ」

「やめて、嫌だ、生きたい......死にたい、イキタイ......シニタイ」

もはや私の思考は正常に機能していないようだった。私の口は呪文のように生きたいと死にたいを繰り返す。

やがて少年に背を向け、一歩、一歩と闇に向かって歩みを進める。

全ての感覚が曖昧なまま、ふらふらと歩く。胸のまえで両手につつまれた我が子に、血と涙がぽたぽたと落ちるのを朧気に眺めながら足は宙を踏みぬき、そのままビルの底に頭から落ちていった。

「あーあ、また飛んじゃった。あの調子だと永遠に気付かずに飛び降り続けるかも」

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「怖いよね」

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