去年、妻の秋枝が自殺した。
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60歳だった。
もともと情緒不安定なところがあったのだが、3年くらい前から家事一切をしなくなり、酒に溺れるようになり、顔に表情というものが無くなっていった。
そして去年の冬、私がマンションに帰ったら、和室の鴨居に赤い帯紐で首を吊っていた。
遺書はなかった。
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私は現在、66歳。勤めていた銀行も早期に退職して、今は独り身の年金生活者である。
仕事人間だったから、これという趣味もない。
子供もいないので、秋枝は自分が死んだら、あなたは本当に退屈になるでしょうね、と、いつも言っていたのだが、そのとおりだった。
秋枝があんな風にして亡くなった後の喪失感は半端なくて、一日中マンションに閉じこもり、じーっとしているだけの日々が、かなり続いた。
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ただ最近は、あるものに嵌まっている。
それは映画だ。まあ映画といっても、ちゃんとした劇場で観るやつではなくて、自宅近くの店で、DVDをレンタルしてきて、家で観るだけなのだが。
ジャンルは、なぜか、ホラーもの。
若い頃は、そういう類いの映画はあまり観なかったのだが、ビデオ屋の店主の薦めで借りたものが『セブン』とかいう外国もので、これが残酷だったが、とても面白くて、それ以来、その類いのものばかり借りている。
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私が借りに行くビデオ屋は、商店街にある小さな個人経営のお店で、まだ、40そこそこの男が一人でやっている。
ボサボサの髪に丸めがねをかけていて、いつも赤いエプロンをしており、妙に陽気だ。
この人がまた映画に詳しくて、特にホラーものに関しては、和ものから洋もの、時代も関係なく、よく知っている。
私は、この人の薦めで、かなりの本数のホラー映画を観た。100本はくだらないだろう。
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その日も私は、商店街の定食屋で昼ごはんを食べた後、いつものビデオ屋に行った。
店内は狭くて、10坪くらいだろうか。
入口のドアを開けると、ズラリとDVDの棚が並んでおり、一番奥に、レジカウンターがある。
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「はい、いらっしゃい」
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奥から店主の声が聞こえる。
迷わず、右手奥のホラー映画のコーナーに行く。
パッケージを手にとって見ていると、店主がいつの間にか、横に立っていた。
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「この間の、いかがでした?」
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ニヤニヤしながら、話しかけてくる。
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「いやあ、よかったよ。やはり、日本のホラーは独特の雰囲気があるね。」
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お世辞ではなく、本心で言った。
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「でしょー」
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店主はいかにも満足げに微笑んでいる。
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「お客さんも、これまでかなり観たでしょう」
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丸めがねをかけ直しながら、店主が尋ねる。
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「ああ、お蔭様でたくさん、いいやつを観させてもらったよ」
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確かに、相当な本数のホラーを観てきた。
そのせいか、最近この店に来ても、目に入るのは以前観たものばかりで、少々戸惑っている。
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「実はね今日は、そんなお客さんのために、特別なものを用意してるんですよ」
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店主の突然の言葉に、私は思わず、彼の横顔を見て、言った。
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「特別なもの?」
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店主は大きく頷くと、奥のレジカウンターの方に歩き出す。後に続いた。
店主はカウンターの後ろにあるカーテンを開けると、どこからともなく、一枚のDVDパッケージを出してきた。
タイトルもなにもなく、真っ白だ。
彼は素早くそれを袋に入れると、危ないドラッグの売人のように、こっそりと私に、カウンターの横から手渡した。
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「これはね、お客さんが今までたくさん借りてくれた、私からのお礼です」
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店主は不気味に微笑んだ。
私はわけも分からず、とりあえず礼をすると、
ビデオ屋をあとにした。
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マンションに帰ると風呂に入り、コンビニで買った420円の弁当を食べた後、以前借りていてまだ見終わっていないDVDを2本立て続けに観た。
両方ともかなり深刻な筋立てのホラーで、全て見終わった後、ぐったりと、カーペットの上で横になった。
時間は9時……。
ガラステーブルの上には、今日ビデオ屋の店主が、
お礼に、と貸してくれたDVDがある。
冷蔵庫から缶ビールを出してきて開けると、一気に飲み干し、意を決したようにその白いパッケージを開けDVDを取り出して、プレーヤーにセットした。
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再生ボタンを押す。
32インチの液晶画面は、しばらく暗闇を映し出していた。それは結構長くて、首を傾げていると、画面が乱れだし、忽然となにかの景色が現れてきた。
それは、どこかの街並みや、彼方で連なっている山々の様子を、高いところから撮っているようなのだが、ハンディカメラなのか、画面が小刻みにぶれている。
画面はゆっくりと手前に移動すると、今度は、鬱蒼と生い茂る木立や公園、そこから連なる高層マンション群を映し出す。
それを見た瞬間、私は、この光景をどこかで見たような気がした。いや、それどころか、これは、私が今暮らしている街の様子ではないのか?
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画面を凝視する。
画面はマンション敷地内の駐車場や植え込みを、かなり上の方から映し出していた。
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―間違いない、これは、私が住んでいるマンションの敷地だ!
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すると、突然ガクンと画面が不自然に揺れると、駐車場や植え込みがゆっくりと回転しながら、近づいてきた。
そして、灰色のアスファルトの白線がはっきり見えたかと思ったら、プツンと画面は真っ暗になった。
それからは再び、暗闇が続いた。
5分くらい見続けたが、何も映ってこない。
どうやら、これで終わりのようだった。
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―何だ、これは……。
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店主はいかにも勿体ぶって、このDVDを私に貸してくれた。私もかなり期待して、観た。
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―だがこれは、何なんだ?
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もしかしたら、本来渡すべきものと間違えて、違うものを貸してしまったのではないだろうか。
私はそのDVDをプレーヤーから取り出すと、白いパッケージに入れた。
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翌日、ビデオ屋に行った。
一直線にレジカウンターまで歩き、店主に、昨日借りたDVDと以前の分をまとめて返した。
店主はいつものにやけた顔で、「どうでした、昨日のは?」と聞いてきた。
私はニコリともせずに、「別に……」と答える。
「あれ?喜んでくれると、思ったんだけどなあ」
と、いかにも残念そうにしていたので、
「あんなのは、ホラーでもなんでもないよ」
と言ってやった。
「そうですか……これはダメでしたか」
と寂しそうに白いパッケージをじっと見ている。
すると、何かを思い出したように顔を上げ、カウンター奥のカーテンを開けると、また、真っ白いパッケージを持ってきた。
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「昨日のがダメだったら、これだったら絶対に
気に入ってくれる、と思いますよ」
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そう言いながら袋に入れ、今度は押し付けるように、私に手渡した。
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その夜、いつものように、缶ビール片手にテレビの前に座っていた。
ガラステーブルの上には今日、ビデオ屋の店主が貸してくれたDVDがある。
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─まあ、どうせ、ただで借りたものだし
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そう呟くと私は、白いパッケージを開け、DVDを取り出すと、テレビの下のプレーヤーにセットし、再生ボタンを押した。
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画面はやはりしばらく暗闇を映し出していた。
するといきなり、どこかの部屋の白い襖が映った。
前と同じく、ハンディカメラで撮っているように画面は粗く、微妙に揺れている。
襖はゆっくりと左右に開いていく。
いつの間にか私は画面を凝視していた。
その先には6畳くらいの畳部屋が見える。
隅っこに三面鏡、中央には古い和箪笥、そしてその上には、ガラスケースに収まった博多人形。
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「!!!」
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その瞬間、心臓が激しく拍動しだしていた。
思わず、後ろを振り返る。
開けっ放した襖の向こうには、薄暗い和室があり、
そこには三面鏡、古い和箪笥、そしてその上には……ガラスケースに収まった博多人形!
画面はすっと上に動き、襖の上の鴨居を映し出した。
右端から白く細い女性の腕がぬっと現れる。
その手は、赤い帯紐を持っていた。
帯の先端には、30㎝くらいの輪っかが作られている。
すると今度は左端からまた、帯紐の先端を握った白い手が現れ、鴨居の枠に通すと、先ほどの手と共に、しっかり結んだ。
やがて画面はふっと上に上がると、格子状の古い天井を映し出す。
そして、赤い帯紐で作られた輪っかを持った両手が
映ると、画面いっぱいに近づいて消えた。
しばらく、また格子状の天井が映っていたが、突然、ガクンと画面は下方向に下がり、激しく上下に古い和箪笥と日本人形が揺れた。
しばらくして、揺れが収まった後もまだ、それらは映っていたのだが、少しづつぼやけだし、やがて画面は再び暗闇になった。
……
それからは、何も映ることはなかった。
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私は激しく息をしながら、テーブルの前に座っていた。額にはうっすらと汗をかいている。
目の前のテレビ画面は、ずっと暗闇のままである。
どれくらい経ったのだろうか。
呼吸を整えると、ゆっくりと立ち上がり、リビングのサッシを開け、ベランダに出た。
冷たい秋の風が心地よい。
雲一つ無い満天の星空が広がっていた。
私はポツリと呟いた。
―秋枝、そろそろ、私もそっちに行くよ……
作者ねこじろう