こう寒くなってくると、二年前のあの日の事を思い出す。
当時、俺は七つも年下の女の子と同棲をしていた。彼女はいつも健気に美味しい手料理を作ってくれた。
そんな中、十二月に入ってコートが手放せなくなってくると、食卓には鍋料理の登場回数が増えていった。
そのころの彼女は駆け出しの看護師で、三日に一度は夜勤のために家をあける。お互い多忙なので、こんな季節は手軽で美味しく食べられて、体の芯から温まる鍋料理が一番なのだ。
その日も俺は、厳しい外回りの仕事からようやく解放されて家に帰りつくと、玄関口から鍋の煮えている良い香りが俺の空腹に突き刺さった。今日はもつ鍋だろうか。
リビングで俺を迎えいれてくれた彼女は「今日の鍋は特別な鍋よ」といつもの笑顔で頬にキスをしてくれた。
そしてその鍋を一口食べた俺は仰天した。美味すぎる。特にいくつもの具材の中に浮かんでいるこの肉。口の中でトロけるような食感が最高だった。
俺はどちらかといえば食に鈍感な方だから、正直、この肉が牛なのか豚なのか鶏なのかも定かではないけれど、恐らく生まれて初めて出会った肉質だという事はわかる。
彼女にこの肉の正体を問うても「内緒だよ」とはぐらかしながら、次々と俺の器に肉をよそってきた。
まあいっかと、俺はその夜、満腹になるまで肉を食いまくり、美味い酒を堪能し、大満足のまま眠りについた。
翌朝、目を覚ますと隣りで寝ているはずの彼女がいない。先に起きて食事の用意でもしてくれているのかと起き上がったものの、寝起きの割に妙に冴えた頭が俺を現実へと引き戻してくれた。
俺はゆっくりと廊下を歩き、リビングドアの前で立ち止まる。ドアの向こうでは、パタパタと歩きまわる彼女の足音や気配を感じる。
「こいつは誰だ?」
俺は冷え切った廊下の上で、全身に妙な汗をかきながらその疑問を頭の中で繰り返した。
俺は昨晩、とても、とても美味い鍋を彼女と食べた。結局、何の肉かも分からないままだったけれど、恐らく色々な意味で一生忘れる事の出来ない味になると思う。
実は、作ってくれた当の彼女はもう一週間も前に交通事故でこの世を去っているのだ。だから、当然、彼女が鍋を作れるはずがないし、俺の腹がいっぱいになる事もない。
では、俺は昨晩、誰と何を食べたのか?そしていまここにいるのは誰だ?その疑問が俺の頭を支配し、例えようのない恐怖に押しつぶされそうになる。なんで昨日の俺はその事に気がつかなかったのだろう。
その時、扉の向こうで歩きまわっていた足音がピタリと止んだ。
この部屋には彼女との思い出の写真がたくさん飾られている。彼女の形見と呼べる品々も所狭しと並べてある。そんな俺にとって心安らぐはずの大切な空間が、今は途轍もなく恐ろしい空間へと変わりつつある。
いまこの扉の向こうにいるのは何なのだ。彼女はもういないのに。ついにおかしくなった俺の脳みそがつくり上げてしまった幻覚か。
それとも、幽霊か。
「ねえ… ここをあけて」
そんな臆病な俺に、懐かしい彼女の声が語りかけてきた。
「き、君は本当に◯◯なのか?」
上ずった俺の情けない問いかけに、いるはずのない彼女からの返答を待つ。
「ええ… そうよ」
俺は短時間で足りない脳をフル回転させた挙句、どうしても聞きたかったどうでもいい事を口にした。
「き、昨日の、昨日の肉は…いったいなんの肉だったの?ま、また食べたいなー」
了
作者ロビンⓂ︎
鍋の季節ですね。やっぱり水炊きですね…ひひ…