俺には4つ年上の姉がいる。
人の縁とは不思議なものだ。別々の環境で生きてきた男女が出逢い、恋をし、夫婦となるように。俺と姉さんもまた、それぞれ違う両親を持ち、違う環境で育ってきたが、ひょんなことから出逢い、姉と弟という関係になった。
こうして言葉にしてしまえば簡単だが、現実はそんな生易しいものではない。事実、姉さんが玖埜霧家に迎えられた時には、我が家も色々あったのだ。今まで違う環境で育ってきた人間同士が、同じ屋根の下で暮らすということは、お互いに多大なストレスがかかるのだ。
特に。他人との接触に慣れていなかった姉さんにしてみれば、「家族」という存在が疎ましくて仕方がなかっただろう。当時の姉さんからしてみれば、他人は自分に害を与える以外に何1つ与えてくれないという認識を持っていただろうから。
姉さんが我が家に馴染むまでには、相当な時間を要したけれど。陳腐な言い方だが、結局は時が解決してくれたのだと思う。ささくれだった記憶も、傷つけられた過去も。時間が少しずつ癒していく。完治はしなくとも、傷は塞がれるのだ。
以来、俺と姉さんは仲良くやってきた。姉さんは玖埜霧夫妻ーーー両親とも上手くやっている。一緒に過ごすことで絆は生まれ、お互いにかけがえのない存在になった。俺達は「家族」になったのだ。
だが、そんな関係性が今年の春で絶たれる。姉さんがある一大決心をしたのだ。
高校卒業と共に玖埜霧夫妻との養子縁組を切り、県外の大学に進学するという。1つのけじめとして、だそうだ。玖埜霧家に嫌気がさしたわけでも、元いた実家に戻りたいわけでは断じてなく。
過去をないがしろにしたまま、生きるのではなく。過去があったからこそ、今の自分がここにあるのだということを忘れないために。
姉さんは、玖埜霧家を出るのだ。
姉さんが姉さんでなくなる日は、もう近い。
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たまには幼少期の話でもしてみようと思う。今でこそ、一歩表に出れば、日常茶飯事の如く怪異につきまとわれるのだけれどーーーそれは今に始まったことではない。遡れば小学生の時から、今ほど頻繁にではないけれど、オカルトに通じることはあった。
今回、何故幼少期の怪異譚を語らせて貰うことになったかといえば、これは俺の我が儘であるのだが、姉さんとの思い出を整理整頓したいからだ。あと、2ヶ月ほどで姉さんはいなくなる。だからその前に、姉さんとの思い出を語り尽くしておきたいのだ。
こうして言葉に残しておかないと、不安になってしまうのだ。思い出ほど鮮度がなく、簡単に色褪せてしまうものなどないのだから。
どうか聞いてほしい。玖埜霧欧介の姉に纏わる思い出語りを。
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僕が小学5年生の時だ。パパがデパートから七段飾りの立派な雛壇を買ってきた。勿論、それは僕のためじゃない。4歳年上のお姉ちゃんのためだ。
普段は仕事ばっかりしてて、僕がふざけて冗談を言ってもにこりともしないし、全然喋らないし、気難しそうな人だけども。僕が生まれる前から女の子が欲しいと言っていたパパは、お姉ちゃんが欲しいと言えば、富士山だって買ってくるかもしれない。
それまで僕は1人っ子だったし、男の子だからお雛様には縁がなかったけど。それまで殺風景だった家のリビングには、3月3日限定でお雛様が飾られることになった。
3月3日は桃の節句と呼ばれ、女の子の健やかな成長を願うためのお祭りだ。雛人形を飾り、桃や桜、橘の木も一緒に飾る。お雛様には甘酒やあられをお供えして、家族皆でちらし寿司を食べてお祝いするのが定番みたい。
だけど。3月3日はパパもママも仕事が休めないからって朝早くから出掛けていった。2人とも土日や祝日関係なく仕事だから、仕方ないんだけど。雛祭りに限らず、僕の家では年間行事とは無縁だ。クリスマスもそうだし、お正月もそう。家族が揃うこと自体がなかなかない。
まあ、もう慣れたけど。
3月3日も、僕達にしてみれば、ただの「親がいない休日」だ。いつも通り、お姉ちゃんと一緒に過ごした。お昼ご飯を食べた後、僕はリビングのテーブルに突っ伏してうたた寝をしていた。
「ちょっと起きて。手伝ってほしいことがあるから」
むにゃむにゃしながら顔を上げると、お姉ちゃんが向かいに座ってた。手には白い紙を何枚かと、筆箱を持っている。絵でも描くんだろうか。僕の自画像を描きたいから、モデルになってってことなのかな。
「モデルじゃない。絵を描くんでもない。涎を拭け」
お姉ちゃんは筆箱から鋏を取り出すと、白い紙をチョキチョキと切り出した。人の形に切り抜くと、それとペンを僕に手渡す。
「これに息を吹き掛けて。そしたらペンで名前を書いて」
僕が言われた通りにすると、姉さんはもう2枚、同じように人の形に切り抜いた紙を渡してきた。これは一体何だろうと思ったんだけど、その時の僕は眠くてぼんやりしていたので、聞けなかった。
「こっちの2枚には、それぞれパパとママの名前を書いて。息も吹き掛けてね」
「…はあーい。ふあああ……」
欠伸を噛み殺し、どうにか作業が終わった。3枚の人形(ヒトガタ)をお姉ちゃんに手渡すと、お姉ちゃんはそれを丁寧にテーブルに並べた。
「これ、触るなよ」
それだけ言うと、お姉ちゃんはリビングを出ていった。僕は「ふあああ……」と欠伸をすると、またテーブルに突っ伏してうたた寝した。
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どれくらい経ったのだろう。長いこと寝ていた気もする。やけに胸の辺りがスースーして寒かったから目が覚めた。パサリと、長い黒髪が肩に垂れる。あれ、僕ってこんなに髪の毛長かったっけ。
それにしても寒い。何でこんなに胸元がスースーするんだろうと、半分寝惚けながら胸を触る。
あれ、何だ。柔らかい。
「………」
そろりと視線を下げる。僕は白い着物1枚羽織っているだけだ。その胸元は大きくはだけていて、それほど大きくはないけど、小振りながらも両方の膨らみが否応なしに目に入る。
「えええええ!」
触ってみる。さわさわ。さわさわ。うん、膨らんでる。揉んでみる。むにむに。むにむに。うん、柔らかい。
「えええええ……」
まさか……。僕は上半身を起こし、恐る恐る足の間に手を差し込む。あちこち探るが、あるはずのモノがない。どこにも見当たらない。
「僕、女の子になっちゃった……」
そういえば、男の子と女の子が夢の中で入れ替わっちゃう映画があったけど……僕の身にもまた同じことが起きたのだろうか。だとしたら、誰と入れ替わっちゃったんだろう。僕が田舎町に住んでるから、都会に住んでる男の子とか?
そこでようやく気が付いた。ここは見慣れたリビングではないことに。
「どこ、ここ……」
6畳分の畳が敷き詰められた狭い部屋。窓もないので、やけに息苦しい。薄暗いし、妙な圧迫感もあるし。おまけに部屋は格子で仕切られている。ざっと見た様子だと、外側から施錠されているから、内側にいる僕は出られない。
座敷牢、というやつか。
夢かもしれないけど、嫌なシチュエーションだ。前にお姉ちゃんから聞いたことがあるけど、昔は座敷牢に「厄介者」を閉じ込めてたんだって。家族の中に精神的な病気になって、普段から暴れる人がいると、その人を地下の座敷牢に閉じ込めて、一生出られなくしちゃうとか……。僕は夢の中で、そういった「厄介者」になってるんだろうか。
と。薄暗い闇の向こうから、黒い頭巾を被った人間が、ぞろぞろとこちらにやってきた。黒子のようなスタイルで、両目の部分にだけ穴が開いている。背格好からして男だろう。それもガタイのいい大人の。
男達はガチャリと鍵を開け、座敷牢に入ってきた。そしてポカンとしている僕を包囲するかのように、ぐるりと取り囲む。1人の男が、何やらぶつぶつ呟き始めた。
「……、汝は選ばれし贄……、ここに以てして……、穢れを移す……、祓いたまえ……、呪法……、」
専門的な用語が多く、何とか聞き取れたのはこれくらい。言い終えたのか、男は長い息をつく。そしてーーー、
「っ、」
5人の男達が一斉に動き、ある者は僕の頭を、ある者は首を、ある者は両手を、ある者は両足をそれぞれ拘束する。残った1人は僕の上に跨がると、興奮したのか荒い呼吸を繰り返す。
猿轡を噛まされ、声が出せない。体も拘束されていて、動けない。それをいいことに、男はごそごそと動き出す。
……嫌な感覚。体の奥にぬるりとした何かが入ってくる。不思議と痛くはない。感覚だけはあるから、それが尚のこと気持ち悪い。やがて僕の太股に何かが垂れてきた。僕の血かもしれないし、男の体液かもしれない。吐き気がした。
男達は代わる代わる僕を凌辱した。誰も声を出さないし、事務的といえばそうなんだけど、気持ち悪いことこの上ない。痛みという感覚はないけど、自分の体に得体の知らない他人が浸入してこられる感覚だけは、ちゃんと体に残っているのだ。
長かったのか、それともあっという間だったのかは分からない。ようやく男達から解放された僕は、肉体的にも精神的にも疲れきってグッタリしていた。
だが、男は僕に跨がったまま降りようとはしない。それどころか、自分の胸元から何かを取り出した。切っ先光る鋭いそれは、よく研ぎ澄まされた小刀だ。額にじんわりと冷や汗が浮かんだ。
「すまない」
男はそう呟くと、僕の胸元にブスリと小刀を突き刺した。血が噴水のように吹き出して、男の頭巾や首元に血飛沫が飛ぶ。生温かいそれが僕の顔にもピッピッと飛んできた。
……ぶちぶちっ、ぶちっ。ぶつんっ……。グチャッ、グチュッ……、ぷちぷちぷちっ……、グリッ……、パチン……
皮膚が避ける音。血管が切れる音。内蔵が潰れる音。痛みこそないし、意識もしっかりしているけど、体の中を掻き回されているのが分かる。体に麻酔を打たれて手術されているような感じだ。
僕は目玉だけぎょろぎょろ動かし、事の成り行きを見守るしかない。
やがて男は、ぐいっと何かを掴んで引っ張り出した。ぶちぶちぶちぶちっ。血管の千切れる嫌な音。男の手には、今しがたまで活動を続けていたはずの僕の心臓が握られている。
「…おい」
ふいに男が僕を見た。表情こそ頭巾に包まれて見えないけど、訝しげというか、少し困ったような感じに見えた。この状況で、今1番困っているのは僕のはずなんだけど。
「あんた、まだ目を覚まさないのか。そろそろ夢から覚めとかないと、現実世界でも本当に死んじまうぞ」
何を言われているのか意味が分からない。意味を聞こうと思っても、猿轡のせいで声が出せないのだ。
男は僕に跨がったまま続けた。
「早く目を覚ませ。でないと、夢から覚めた拍子にショック死したり、心臓が止まっちまったりするぞ」
やだ、そんなの。そう思ったのと同時に、耳元でいつもの聞き慣れた声。
「死なせるもんか。私の弟だ」
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「うわあああ……!」
ガバッと頭を起こす。そこは見慣れたリビングのテーブルだった。腕を枕に突っ伏して寝ていたらしい。右手が痺れてじんわりと痛かった。
夢……だったのか。何とも嫌な夢だ。全身にびっしょり冷や汗をかいていて、シャツが肌にくっついている。額を拭って顔を上げると、いつからいたのか、お姉ちゃんが頬杖をついて向かいの席から僕を見ていた。
「随分、長いお昼寝だったね」
お姉ちゃんの手元には、さっき作った3枚の人形。お姉ちゃんはその内の1枚ーーー僕の名前が書かれたやつをヒラヒラ玩びながら、ニヤリと笑った。
「東北地方にはね、お雛様に纏わる怖い風習があるんだよ。知ってた?」
今でこそ女の子の健やかな成長を願うためのお祭りとして広く知られている雛祭りだけども。元々の形態は「流し雛」と言い、人間の穢れや災いを雛人形が代わりに引き受けてくれるものらしい。人間の穢れや災いを一手に引き受けた雛人形は、川などに流して清められる。これこそが今の雛祭りの始まりーーーなんだとか。
雛祭りは地域によって形態が違うのだけど。東北のある地方では、雛人形ではなく、贄として選ばれた小さな女の子に穢れや災いをを移し、その子を殺すことで、村全体が救われると信じられてきた。耳を疑う話だけど、女の子を大勢で凌辱し、最後は体を切り刻んで心臓を取り出すのだそうだ。その心臓を燃やすことによって、厄が祓われる。贄に選ばれた女の子の家には、多額の褒賞金が支払われたというけど……。後味が悪い。
僕がさっきまで見ていたあの夢。あれは贄となった女の子の現実だったんだろうか。
「それこそ雛祭りならぬ雛翳り、だよね。1人は皆のために死んでも、皆は1人のために死ねないんだから」
お姉ちゃんはそれだけ言うと、がたんと席を立った。僕やパパとママの名前が書かれた3枚の人形(ヒトガタ)を大事そうに抱えると、七段飾りの雛壇の元へ。
「どうかこの人達だけは、災いや厄から守られますように」
お姉ちゃんはお内裏様とお雛様の間に人形(ヒトガタ)を飾る。華やかな七段飾りの雛壇が、一気に異様な雰囲気になったけれど……お姉ちゃんが僕達家族のために作ってくれたものだと思うと、邪険には出来ない。そうだろう?
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数日後。学校から帰ってきた僕は、ふと思い立ってリビングに向かった。お姉ちゃんがせっかく作ってくれた人形(ヒトガタ)の様子を見ようと思ったからだ。
意気揚々として雛壇の前に立つ。お内裏様とお雛様の間には、3枚の人形(ヒトガタ)が。
「……あれ?」
僕の名前が書かれた人形(ヒトガタ)は、胸の辺りに穴が開けられていた。
作者まめのすけ。