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中編7
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澄んだ水の底にいる少年

 妻との長い冷戦が終わり、ようやく協議離婚が成立した。今月つまり八月の末には、お互いに別々の人生を歩みだすことになる。私は四十歳。妻は三十四歳。夫婦生活は八年続いた。その間、子供も授かる。

一人娘の里奈だ。……私の大切な宝物。

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 離婚の理由は細かく言うといろいろあるのだが、最終的には性格の不一致としか言いようがない。

ここ最近は、同じ屋根の下に住んでいるにもかかわらず、会話というものが全くなくなっていた。

里奈は、妻が引き取ることになった。

小学校入って間もない女の子には母親が必要だと言われ、その時は渋々承諾したのだが、日に日に私の里奈への思いは強まっていった。

そして、八月の晴れたある日曜日。妻には告げず、私は里奈を連れて家を出た。

 いかに我が子とはいえ、親権のない親が子を連れ去ると、立派な誘拐罪のはずである。そんなことは十分に分かっていた。だが私にとって、これから新たに歩む人生に、里奈という存在は不可欠なものだった。里奈のいない人生というものが、私には考えられないのだ。

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 道具一式は昨晩から前もって車に乗せていた。

午後からこっそり、里奈を連れて家を出て、市内中心部から北へ約一時間のところにある山間部に向けて車を走らせていた。

今頃、妻は里奈を探して慌てふためいているだろう。いい気味だ。携帯の電源は切ってあるから、私への連絡もとれない。

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 雲一つない青空が広がっている。まるで、私と里奈のこれからの人生を祝福するかのようだ。

なだらかな一本道を走っていると、

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「ねえ、パパ。」

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薄いピンクのワンピースの里奈がたいくつそうに足をぶらつかせながら、

助手席から話しかけてくる。

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「これから、どこいくの?」

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「これからか?パパと一緒にお山に行って、川辺で遊んだり、花火したりするんだ」

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「わあ、楽しそうだね」

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里奈はそう言って、ニッコリ微笑んだ。

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─そうだ、この笑顔のためなら、私はまだ頑張れる。

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 三十分ほど走っていると、初めのうち元気な様子だった里奈が急に黙り込み、下を向いている。

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「どうした?気分でも悪いのか?」

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聞くと、首を横に振ると、上目遣いで言った。

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「パパとはもうさよならなの?」

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意外な質問に少々、面食らった。

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「そんなことないよ。誰がそんなこと言ったんだ?」

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「……ママ」

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 妻は私のいないときに、里奈を洗脳しようとしているようだ。

だが、そうはさせないぞ。これから二人だけの楽しい思い出をたくさん作るんだ。

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 長いトンネルを抜け、車を左に寄せて、停める。

降りると、夏だというのに辺りはひんやりとしていて、木の香りがしていた。

狂ったようなセミの声と、どこからか奇妙な鳥の声。時間は二時を少し過ぎたくらいだ。

ガード下から微かに川のせせらぎが聞こえてくる。キャンプ道具の入ったバッグを担いで、石段を娘と二人、降りていく。

下まで降りると、そこはあちこち草の生える更地だった。

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 里奈の手を握り草木を避けながら歩くと、玉砂利の敷き詰められた河原に出た。少し向こう側には、澄んだ水が流れる川がある。陽光を乱反射してキラキラと輝いている。

川面から容易に覗く底面から、そんなに深くはなないことが分かる。せいぜい大人の腰高くらいか。

里奈は河淵までかけよると、しゃがんで、恐々水に触れている。

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「パパ、とっても冷たいよ!」

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振り向いて、嬉しそうに微笑んだ。

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 私は荷物を降ろすと、ビニールシートを敷き、その上に腰掛けた。

里奈は石を拾い始めているようだ。

クーラーボックスから缶ビールを出し、開けると、一口飲む。旨い。

暑くもなく、寒くもない陽気。ときおりひんやりとした風が頬をくすぐる。

このひとときが永遠に続けばいいのに……。私は真剣にそう思った。

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 二つ目の缶ビールを手にしたときだ。

川辺にいる里奈が、向こう岸の方に向かって懸命に手を振っている。

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─誰か他にいるのかな?

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私は立ち上がり歩いて隣に立つと、尋ねてみた。

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「誰かいるの?」

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「うん!麦わら帽子被ったお兄ちゃんが、あそこに」

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里奈は嬉しそうに私を見上げ、前方を指さしながら言った。

十五メートルほど向こう側にある岸部は、こちら側と同じように、ほうぼう草木の生えた更地が広がっている。

目の上に手をかざし、里奈の指さす辺りを見たが、これといって人がいるような感じではない。

再び、里奈はしゃがんで、石を探し始めていた。

私は首を傾げながら元いたシートのところに戻り、腰かけた。

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 シートの上で横になり、心地よい陽の光と穏やかな風のお陰で、うとうとしだしたときだった。

いつの間にか里奈が足下に立っている。 

半身を起こし、「どうしたの?」

と、物言いたげな顔に問いかけると、意外な言葉が返ってきた。

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「お兄ちゃんがいるの」

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「え、お兄ちゃんが?どこに?」

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唐突な言葉に、私は聞き返す。 

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「うん!お兄ちゃんがね、お水の中から里奈をじーっと見ていたの」

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冷たい何かが、背中を通り過ぎる。

私は尋ねた。

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「そのお兄ちゃんは、どんな子かな?」

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「えーっとね、頭が坊主で色が白くて、ランニングシャツに、黒い半ズボンを履いてたよ。川の下の方で上向いて寝ながらお目々を大きく開けて、里奈を見てた」

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「それから、どうしたの?」

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「里奈が、石を見せてあげようと、ポケットを探してたら、いなくなっちゃった」

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 私は日が暮れる前、川から少し離れたところに、テントを作った。そしてテントの傍らで火をおこしご飯を炊き、レトルトカレーを温めて、里奈と一緒に食べる。

その後、準備していた花火セットを出し、花火を楽しんだ。

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「パパ、楽しいね」

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パチパチと儚げに光を放つ線香花火を見ながら、里奈が呟く。その時、

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「フフフフ……」

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 突然、小さな男の子の笑う声が私の真横で聞こえた。びくりとして横を見たが、そこには誰もいない。

最後の花火に火を点けたときはもう、辺りは真っ暗になっていた。

里奈は眠いのか、目を擦りだしていたので、片付けをして、二人でテントの中に入った。

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 心地よい川のせせらぎだけが、延々と続いている。テントの中はとても静かだ。

私は横で寝息を立てている里奈の横顔を見ながら、夕方頃、彼女が唐突に言った言葉を思い返していた。

岸辺に立つ麦わら帽子のお兄ちゃん。

色白で丸坊主のランニングシャツに半ズボン姿の男の子。水の底に横たわり、里奈をじっと見ていたようだ。

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─幻でも見たのだろうか?だが、それにしても、その姿格好をはっきりと言っていたな。

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兄弟のいない子だから、ぬいぐるみや人形とかに、感情移入することが多いのは事実だが、それにしても、描写が具体的だった。

そして、花火の時に聞こえた笑い声……。

いろいろと考えていると、目がさえてきて、いよいよ眠れなくなってきた。すると、

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─パシャッ……パシャッ 

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 突然外の方から、水の弾けるような音が聞こえてきた。

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─ん?魚でも跳ねたのかな?

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音は川の辺りからのようだ。

その後も続いて、奇妙な音が聞こえてくる。

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─グショ……グショ……グショ……グショ

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それは、水を含んだ靴で歩いているような音だった。足音は少しづつ、このテントに向かって来ているような感じがする。

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─グショ……グショ……グショ……グショ 

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 私の心臓は高鳴りだしていた。

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─誰かが、こっちに近づいてきている!

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─グショ……グショ……グショ……グショ 

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 足音はいよいよ近づくと、ちょうどテントのすぐ側で、止まった。

私は息を飲んだ。知らぬうちに、里奈の肩に手を回す。しばらく静寂が続いた。

すると、

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─ガサ……ガサ……ガサ

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 誰かがテントの布を外側から擦っている!

喉元に心臓の高鳴りを感じる。里奈の肩に回した手に力が入った。

そして、こっそり呟くような男の子の声が聞こえてきた。

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ーねえ、お父さん、遊ぼうよ。ねえ……遊ぼうよ!

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 半身を起こして、声のほうを見ると、まるで外から顔を押し付けているように、テント入口上の方が盛り上がっている。たまらず私は布団の中に潜り込んで里奈を抱きしめながら、なぜか一心不乱にお経を唱えだした。

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「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

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男の子の声は断続的に、外が明るくなるころまで続いた。

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 翌朝川辺で、里奈と一緒に朝ご飯のパンを食べていると、

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「ねえパパ、里奈、昨日、夢見たんだよ」

と、言う。

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「へえ、どんな?」

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「ええとね、昨日のお兄ちゃんがいたの」

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私はドキリとして、尋ねる。

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「お兄ちゃん、何してたの?」

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「うん、ええとね、お兄ちゃんもパパと一緒に来てて、バーベキューとか花火とかしてたんだけど……」

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そこまで言うと、里奈は俯いて黙り込んでしまった。

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「お兄ちゃん、どうしたの?」

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聞くと、顔を上げて再びしゃべりだす。

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「お水がたくさんたくさん流れてきて、お兄ちゃんもパパも、飲み込まれちゃったんだ……」

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そこまで言うと、里奈の顔はみるみる崩れ始め、泣き出した。

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「そうか、そうだったのか……」

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そう言いながら、私は里奈を強く抱きしめた。

 

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