太田めぐみ(仮名・32歳)談――
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これは、私がつい最近体験した、奇妙な出来事のお話です。
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私が今のマンションに越してきたのは3か月前――夫との結婚がきっかけでした。
東京の下町で、都心に近いにも関わらず、マンションの周りは古い家々も多く、静かで穏やかな環境です。
夜など、通りを走る車の音も聞こえず、シンと静まり返っているところなど、根が神経質な私にとって、とても気に入っているところでした。
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つい先日の、ある晩のことです。
帰りの遅かった夫に晩御飯を食べさせ、後片付けをし、自分のお風呂をすませ、すっかり寝る支度を整えた頃には、時計の針は深夜1時を回っていました。
夫はすでに寝室で、のんきにいびきをかいています。
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私は夫を起こさないようにそっとベッドに入ると、ベッドライトを点けて、しばし小説を読み進めました。
切りの良いところで本に栞を挟み、ライトを消すと、静かな夜の闇に包まれました。
夫のいびきを聞きながら、明日の朝食の献立などを考えていると、いつしか眠気が襲ってきました。
心地よい微睡みを味わっていた、その時です。
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『お風呂が沸きました――』
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枕の下から――つまりは階下から、あのどこか不自然な音声が、小さく聞こえてきたのです。
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このマンションは5階建てです。
それぞれの階に3部屋ずつ住人が住んでいて、ほとんどは夫婦ふたり暮らしか、子持ちの家族です。
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時刻は1時半。
住人の多くは寝静まっている時間のはずですが、我が家のように、夜が遅い家庭もあるのでしょう。
『そういえば1階の佐々木さん、ご亭主が付き合いの呑みが多くて、毎晩帰りが遅いって奥さんぼやいてたなあ――』
そんなことを考えながら、うつらうつらしていた時です。
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『お風呂が沸きました――』
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今度はさっきより大きな音量で、あの声が聞こえてきたのです。
つまりは、もっと近いところで声がした、ということです。
それはちょうど1階分、音が近くなったように感じられました(あくまで私の感覚でですが)。
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すでに深夜です。
季節は冬で、湯船に浸かりたい気持ちもわかるのですが、こんな時間に同じマンションで、ふた家族も同時にお風呂を沸かしていたのでしょうか。
少し、奇妙な感覚がありました。
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この町は静かです。
いつも、夜に聞こえるのは隣で寝ている夫の規則的ないびきだけ。
そんな普段の当たり前に、すっと異物を挟みこまれたような感じがしたのです。
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その時、聞こえてきたのです。
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マンションの階段を、バタバタと駆けあがってくる足音。そして、
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shake
「お風呂が沸きました――!」
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玄関のドアの外、エレベーターフロアに響き渡る、あの電子音声に似た『歪んだ音階の人の声』が。
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私は布団の中で身体を硬直させました。
そして、息を止めて聴覚と肌の感覚を最大限に研ぎ澄ませました。
部屋の外にいるナニカの気配を、確かめるためでした。
同時に、ナニカにこちらの気配を気づかれないためでもありました。
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そのナニカは動きを止めているのか、まったく物音が聞こえてきません。
代わりに聞こえてくるのは、自分の身体の内側から響いてくる、ドクドクという早鐘のような心臓の音だけです。
こめかみから、汗がじわりを沁みだし、つつ、と頬を伝いました。
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どれくらいそうして息を殺していたのでしょうか。
私の張り巡らせた神経が、ドアの外のナニカが――それは一声、天を仰いで奇声を発してから、植物がしおれるように、ゆっくりとうつむいていたように想像されるのです――ゆるゆると頭をもたげて、再び階段をバタバタと駆け上がっていく足音を捕らえたのです。
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気付くと、隣に寝ていた夫が私の手を握っていました。
「……なんだ、アイツは――」
暗闇の中の夫の表情は見えませんでしたが、声には恐怖と緊張がにじんでいました。
「玄関のドア、閉めてあるよな?」
「うん、寝る前にいつも確認してるから大丈夫……」
そう云った自分の言葉が、この時ばかりはひどく不確かで、頼りないもののように思われました。
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夫はベッドから起き出し、戸締りを確認しに行ってくれました。
その間に、頭の上から再び、あの声が聞こえてきたのです。
そして、静寂。
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寝室に戻ってきた夫とベッドの上でふたり、身を寄せ合っていると、
――ウィー………ン
エレベーターが階下へ降りていく微かな重低音が聞こえてきました。
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こんな時間にエレベーターを動かす人間はいません。
きっとナニカです。
エレベーターは地階について、チーンと到着を告げました。
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ナニカは去りました。
一体、あれはなんだったのでしょうか。
夫とふたり、とりあえず深いため息を付いたその時、
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shake
「お風呂が沸きましたああああああああああああああアッハハハハアハハッハアッハハハハハッハハハッハアああああああああああああ!」
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マンションの外の通りから、夜の町の静寂を破る、とても大きな、奇妙に甲高い、あの声が聞こえてきたのです。
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私たちは、思わず部屋の明かりを点けてカーテンを開け、通りに面した窓から顔を出してを地上を覗きこみました。
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ちょうどマンションの出入り口に、長い髪の女が立っていました。
女はこちらを見上げ、張り付いたような笑みを浮かべていました。
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通りを挟んだ向かいのマンションの窓にも次々と明かりが点き、窓が開いて住人たちが顔を覗かせていました。
そして皆一様に、気味の悪いものを見る目で、地上の女を見下ろしていました。
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女は私たちの奇異の視線を一身に浴びながら、静かな夜の町の、街灯の届かない闇の中へと、フラフラ歩いて消えていきました。
【了】
作者綿貫一
こんな噺を。