この冬は雪がすごかったですね。
それで思い出した今回のお話は就職二年目の冬に藍さんから聞いたお話です。
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私は自分へのご褒美の意味を込めて穴場の温泉宿に泊まりに来ていました。
もちろんさして有名でもない山の中の小さな宿なのでお風呂も小さめでしたが、私が到着したころに降り出した雪が積もり始め、お風呂から見える雪の景色に仕事で疲れた心が洗われるようでした。
お風呂から出た私はせっかくの旅行なので、寝る前に普段は高価であまり飲まないお酒とおつまみでもやりたくなりました。
しかし、自分が泊っているのは田舎の小さな宿です、売店はなく自動販売機は恐ろしく高い価格設定でした。
そのとき、私は駅から宿に送迎されている途中にコンビニがあったのを思い出しました。
どうしてこんな田舎にコンビニがあるのかと思いましたが、送迎車の運転手さんが言うには近くに私立の大学が誘致されたので、その学生を狙ってできたようでした。
そう言われてよく眺めてみると、山奥なのに所々学生用と思われるアパートが建っているのが見えました。
そこで宿の人に断ってコンビニに出かけようとすると、雪が積もってるから危ないですよと引き留められました。
私はむしろ雪景色を眺めながらゆっくり歩いていきたいと思っていたので大丈夫ですよと答えたのですが、それでも宿の主人は何か煮え切らない態度で私を外に出したくないようでした。
「お客さん、おっぱいが大きいからひとりで夜道を歩いたら危ないですよ」
「わ、わたしの胸は関係ないでしょ」
思わぬセクハラ発言に閉口してしまいましたが、宿の主人は何かを隠しているような物言いでした。
「・・・わかりました、では気を付けて行ってきてください、もし何か不審なものを見かけたらすぐに逃げてくださいね」
私はこんな田舎に不審者なんかいないでしょと不可解に思いながら宿を出ました。
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外の山道は街灯もほとんどありませんでしたが、一面にうっすらと雪の積もった光景は意外に明るくかなり遠くまで見通せました。
柔らかい新雪なので、自分が付けた足跡がはっきりと道に残っていきました。
「これなら、宿に帰るときも道に迷わないわね」
まるで童話のヘンゼルとグレーテルのように感じながら歩いていくとふと前方に雪の足跡が続いているのが分かりました。
前を歩いている人はいなかったので、どこから付いた足跡だろうと目で追ってみるとその足跡は山の中から出て来ていました。
そこには整備された道どころか獣道さえない木々と熊笹の茂みしかありません。
そんなところからいったい誰が出てくるのか意味が分かりませんでした。
人間の足に見える獣かもしれないと思って雪に付いた足跡をよく見ると、それは獣の足跡ではなく、紛れもなく人間のものでした。
それもその足跡には足の指の跡まであり、形状から裸足の男性の足に見えました。
自分の中でその足跡の合理的な説明を付けようと試みましたが、どうにも納得のいく解釈は付けられませんでした。
気持ち悪さを感じながら進んでいると、前方の坂の上の雪の上に黒い模様が現われたのが見えました。
いきなり現れた黒いものをなんだろうと見ているとそれは雪の上を進んでくる足跡でした。
足跡の上には何も見えません。
見えない何かがこちらに向かって歩いてきているようでした。
その目の前の説明ができない光景に私の背中に悪寒が走りました。
気が付くと私は無言で振り返り、来た道を早足で戻り始めました。
何か明確に危険なことはわからなかったのですが、宿の人が私を引き留めたことと、山の中から現れていた裸足の男の足跡のことから考えて、とにかく逃げようと思い至りました。
まだ見えない姿の向こうが私のことに気づいていないことも考え、足音が極力出ないように早足で歩き始めました。
後ろをあまり見ないように進んでいたのですが、かすかに後ろから雪を踏みしめる足音が付いて来ていました。
向こうが私を追ってきているかは分かりませんでしたが、雪の道には私の足跡もついてしまうので、相手からすれば私を追いかけることは簡単でした。
そこで私はとっさに道の途中にあったアパートの植え込みの木の壁を曲がるとアパートの部屋のドアの前まで足跡を付けて素早く自分の足跡の上を踏みながら後ろに進みそのまま植え込みの木の陰にジャンプしました。
これで一見すれば私がアパートの中に入っていったように見えるかもしれないと思いました。
程なくして私の後ろを付けてきていた足音はアパートの植え込みの入り口の前で止まりました。
私はしゃがみ込みながらその様子を影から見つめていましたが、そのときでした。
激しい電子音が辺りに響き始めました。
それは携帯電話の着信音でした。
見つかったと思いましたが、よく聞くとその音は私の携帯電話の着信音と同じメロディでしたが、少し離れたところから聞こえてきているようでした。
その方向を見るとアパートの扉の一つが開き、中から大学生と思われる若い女の子が出てきて通話をしながら外に歩いていきました。
その様子をホッとしながら眺めているとあの足跡はアパートから出てきた女の子の後を付けていきました。
3分ほどその場でしゃがんだままでいましたが、ようやく気持ちが落ち着くとアパートの敷地から出て宿に戻ろうと早足で歩き始めました。
一面雪で真っ白な世界で宿の方角は大体の感覚でしたが、来るときにつけた私の足跡があったので、その足跡を追いながら戻っていきました。
本当に童話のような展開になり、私は苦笑しながら歩き続けました。
しかし、宿から出て5分ほどしか歩いていなかったのに15分ほど経っても宿の明かりが見えてきません。
私は自分の足跡を追ってきたので宿に着かない訳はありませんでした。
私はあせって自分の足跡を見ましたが・・・違いました。
その足跡は裸足の男の足跡でした。
ドキンと心臓が跳ねました。
いったいどこで入れ替わってしまったのか分かりませんでした。
すぐに来た道を戻ろうかと思いましたが、それはこの道を歩いて行ったと思われる裸足の男を追いかけることを意味していました。
足跡を追わずに宿に戻れないかとも考えましたが、雪が積もった田舎の風景は全く区別がつかず、宿がどの方向かさえ分かりませんでした。
宿に電話して助けを求めようにも自分が今どこにいるかもわからず、目印となるようなものも見つけられませんでした。
私はともかく唯一の手掛かりである自分の足跡をあてにして引き返し始めました。
しかし、しばらく進んだところで恐れていたことが起こりました。
前方から再び姿の見えない足跡が自分に向かって歩いてきました。
私はもう一度引き返して逃げようとしましたが、今度は後ろの道からも黒い足跡が私に向かって近づいてきていました。
流石に道を外れて山の中に入るのは危険すぎました。
自分がどうなってしまうのか分からない状況に足ががくがく震えますが、その場で立ち尽くすしかできずにいたそのときでした。
後ろの道からこちらに向かってくる車のライトが見えました。
その車の頭上にはタクシーの照明がありました。
私はこの機会を逃すわけにはいかなかったので、ぶつかる覚悟で両手を振ってタクシーの前に立ちはだかりました。
私の姿を確認してタクシーは止まり、運転席の窓が開きました。
「す、すいません、乗せてください」
「あんた、学生さんかい?」
運転手の質問は予想外でした。
なぜそんなことを聞くのでしょう?
「いえ、私○○旅館に泊まってて、帰り道が分からなくなったんです」
「ふ~ん、まあいいか、どうぞ乗ってください」
気のない返事をすると後部座席の扉が開きました。
私が急いで乗り込むと、すぐにタクシーは発車しました。
「お姉さん、どうしたの、道に迷っちゃったの?」
「あ、いえ、ちょっと、ありまして」
運転手さんはしばらく何も言わずに運転していましたが、不意に口を開きました。
「お客さん、もしかして変なもの見ちゃった?」
「えっ?」
私の動揺を感じ取ったのか運転手は続けました。
「・・・雪の足跡とか」
「ど、どうして?」
「お姉さんも聞いたことあるでしょ、新雪の降った夜は普段見えないものが見えてしまうから外を出歩かない方がいいって」
運転手さんが口にしたそれは怪談でした。
「海のそばの漁村とかでも漁や外を出歩いちゃいけない忌み日があるみたいだし、それとよく似てるよね」
「あ、いや、そんな話、初めて聞きました」
「えっ、お姉さん、知らないの、結構有名な話だと思うんだけど」
少々呆れたような色をにじませて運転手は答えました。
「実はねここ大学があるから、学生さんが結構住んでるんだけど、この時期に自死と事故死が多いんだよね」
「えっ、それって」
「雪の忌み日が関係してるんじゃないかって考えちゃうよね」
宿の人が懸念していたのはおそらくこのことでした。
「でも、それだったらなんで学生の人にそれを教えないんですか、もちろん普通には話せないことですけど」
「ああ、ダメだと思うね、そんな噂が広まったら、学生が集まらなくなるでしょ、だから警察の方にも大学の方から口止めが入ってるんじゃないのかな」
「えっ、いやでも、人の命がかかわってることですよね」
「それはね、私を含めてここの人たちは大学のことはあんまりよく思ってないの」
「どういうことですか?」
「うちの自治体がね、あの大学を誘致するのに多額の補助金を出したせいでこの町の財政は破綻寸前になっちゃったんだよね」
「補助金で財政破綻?」
「おかげで税金は上がるし、行政サービスは色々廃止されるし・・・あれ、これも知らないの、時々ニュースでも問題になってたと思うけど」
「す、すいません」
「最近の若い子はこういうこと何にも知らないんだねえ、まあだから私達もここの学生のことはよくは思ってないんですよ」
そうこうするうちにタクシーは私の泊まっている宿に着きました。
タクシー代を払って降りた後、どうしても気になることがあった私は運転手さんに尋ねてみました。
「最初、私を学生かどうか確認しましたけど、もし私が学生だったら乗せてくれなかったんですか?」
「・・・まさか、お客の選り好みなんてしませんよ」
運転手さんは苦笑いしましたが、思いもよらない一言を付け加えました。
「でも、仮に僕が乗車拒否してたとしても、お姉さんはどうしてたの、うちの会社に苦情でもした?」
「・・・いえ」
「そうだよね」
「車番を覚えて、タクシー協会に通報したと思います」
私の言葉に彼は少し驚いたような表情を浮かべました。
「あっ、そういうのは知ってるんだ、じゃあやっぱり乗せてよかったかな」
私は彼の言葉の真意を考えることすら嫌になっていました。
「あはは、もちろん冗談だよ、それではお客様ご利用ありがとうございました」
タクシーは走っていきました。
もう今の心境では到底寝付けそうにないので、宿の自動販売機でくそ高いビールとおつまみを買いこみました。
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しかし、ひとつだけかすかな違和感が私の頭をよぎりました。
「なんであのタクシーはこんな不吉な雪の日に走ってたんだろう?」
たぶん私は運がよかったのだ、早く部屋に戻って何も考えられなくなるまで飲んで寝よう、私はただそれだけを心に抱いていました。
作者ラグト
強い霊感をもつ先輩の黒川瑞季、彼女と経験するこの世の怪異と禁忌、エピソード33雪の忌み日です。
ちなみにこのエピソードは藍さんのエピソードです。