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名前のない蚕【藍色妖奇譚】

長編18
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名前のない蚕【藍色妖奇譚】

 午前八時半、飛燕と松毬は居間で朝のテレビ番組を眺めながら朝食を食べていた。飛燕の父である誠が式の妖怪達も自分と同じ料理を一緒に食べるようにとしていたので、それを守り三食きっちり松毬と二人で食べている。

「あ、今日って土曜日か」

 ふとカレンダーを見た飛燕がそう口にした。

「そうですね」

「じゃあのんびりしますか。折り紙でも折ろうかな。今日はちゃんとお休み取ってあるんで。あ、明日は例の仕事です」

「わかりました。そういえば旦那様、この前から作っておられる作品は・・・続きは作らないのですか?」

 松毬の言う通り、飛燕はこの前から折り紙で龍を作っているのだ。

「うーん、あれはまだかな。まあ僕も折り紙職人では無いからね・・・龍はちょっと難しいです。それに、何枚もの折り紙を組み合わせて完成させる芸術作品だから折り紙術には向かないかも。紙も普通の使ってるもん」

 術に使用する折り紙は和紙のものでなければならない。そのため、飛燕が龍の制作に使用している普通の折り紙では動かすことが出来ないのだ。

「折り紙術は紙に命を吹き込む術だから、素材も出来もそれなりじゃないと完成しない術なんだよね。想いを込めて折るようにって父さんからも教わったし」

 松毬はそれを聞いて微笑んだ。

「誠さんは折り紙術を使用する邪鬼祓いの中で一番でしたからね。だから旦那様もお上手なのです。もうお弟子さんを取れるのではないでしょうか?」

「またまた~褒めすぎだって~!僕まだ今年で二十二だよ、流石に経験不足だと思うけどなぁ。まあ自分の実力は認めるけど」

「しかし、いずれはお弟子さんを取れなければ少ない折り紙術師が更に減ってしまいますよ?」

「それはね、いつか弟子を取って立派な邪鬼祓いに育てますよ。邪鬼祓い自体もかなり数が減ったと聞いてるからね」

 現在、名簿に記載されている邪鬼祓いは全国で百九十六人である。そのうち飛燕たちの住む東には七十二人の邪鬼祓いがいる。

「当然、この天才邪鬼祓いである織川飛燕は七十二人いる東の若手ナンバーワンってところかな」

「以前はもっと多かったと聞いておりましたが、時代は変わっていきますね」

 松毬は飛燕の自惚れ発言には触れず沁み沁みとした口調で言った。

「松毬の言う以前ってだいたい何百年前の話?」

 飛燕が冗談半分で訊くと松毬は呆れたように笑った。

「だから・・・それでも九十年ほど前のことですよ!あと私、心はちゃんと現代に馴染んでますから。馴染んでないのは服装だけです!」

 松毬が胸を張って言う。彼女は着物を身に纏っているが一度も着替えたことは無い。だからといって人のように臭いが気になるわけでもなく、寧ろ仄かな松の香りが漂ってきて一緒にいると心地いい。

「はいはい、お部屋は少女漫画だらけだもんねぇ。まず他にここまで人の生活に馴染んだ式はいないね」

 飛燕は開かれた襖の奥にある部屋へと目をやり、本棚にズラリと並ぶ少女漫画を眺めた。妖怪を見ることのできない者からすれば、男の一人暮らしでこの環境は少々おかしいと思われるのだろう。

「ぐぅ、旦那様も読めば分かるのです!式として生きる私にとってまずあやかしのイケメンと出会うことはないです!だ、旦那様はイケメンですが、しかしそれは人とあやかしの禁断の恋・・・でも漫画の世界はときめきをくれるんです、胸キュンをくれるんですっ!旦那様!よろしければこの漫画の胸キュン台詞を私に言ってくださいませんか!」

 飛燕は一冊の漫画を見せて詰め寄る松毬に圧倒され、空になった茶碗を左手に持ちながら座った状態で後退った。

「ちょ、ちょ、待って・・・あの、そのイケメンとか胸キュンって言葉をどこで覚えた・・・?あと僕のことそういう目で見てたの?わぁびっくり」

「あっ、そっ・・・だだだだ旦那様がぁ昨夜あんなことを言うから勘違いしちゃったじゃないですかぁ!?」

「質問の答えになってないけど大丈夫ですか?」

 松毬は飛燕の問い掛けに応じず、いつの間にか食べ終えた朝食の食器を手に持つと台所へ向かった。どう見ても挙動不審過ぎるが、こんなことは初めてではないので飛燕は慣れたものである。

 食器を片付けた飛燕は居間の座卓に折り紙を広げ、犬や馬などを折り始めた。燕は昨夜折ったので、今日は陸移動の動物を作るのだ。結局、松毬は先程手に持っていた漫画の一巻をまた読み返している。

 折り紙の音とページを捲る音だけが聞こえる部屋で、不意に家のチャイムが鳴り響いた。

「あ、はーい」

 ブーという音の後に玄関戸の向こうから「ごめんください」と少女の声が聞こえてきた。飛燕が戸を開くと、声の通り可愛らしい高校生ぐらいの女の子が立っていた。

「えーっと、どちら様?」

 飛燕が訊ねると少女はペコリと頭を下げてからこう言った。

「すみません、織川飛燕さんですか?」

 見覚えの無い少女に名を当てられて一瞬戸惑った飛燕だったが、彼女がショルダーバッグから取り出した物を見て合点がいった。

「それは・・・君、もしかして桜田さんの!」

「そうです!父がお世話になっておりました。あの、織川飛燕さんですよね?」

「ああ、そうそう!どうぞ狭いけど上がって!」

 少女を居間へ通すと飛燕は台所の冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、コップに注いだ。

「はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます!」

 お茶の入ったコップを出すと彼女はまたペコリと頭を下げた。

「改めまして、桜田愛奈と申します。よろしくお願いします」

「こちらこそー!織川飛燕と、彼女が式の松毬です。いやぁびっくりしたな~、桜田さんにはお世話になってたもんでいつかお礼したかったんだけど」

 飛燕が松毬を紹介すると彼女も微笑みながら会釈した。飛燕の言う桜田さんとは、誠の友人であり邪鬼祓いの桜田与一という男のことである。目の前にいる少女はその娘で名は愛奈といい、今は十六歳で高校二年生だそうだ。

 しかし桜田与一は去年既に他界しており、愛奈の母親である妻とも三年前に離婚したと聞いていた。先程飛燕が少女のことを分かったのは、バッグから出した物が父の誠から愛奈へのお守りとして与一に渡した折り紙の桜だったからである。

「そのお守り、まだ持っててくれたんだね。父さんも喜ぶよ」

「はい、ずっと大事にしてます。ごめんなさい、お父さんが生きてたら一緒にご挨拶したかったんですけど」

「いやいやーありがとうね来てくれて。でもよくこの家が分かったね、何かに書いてあった?」

「あ、お父さんの遺品を整理していた時に邪鬼祓いの名簿を見付けて、そこに何名かの家の住所と郵便番号が書かれた紙が挟まってたので、地図でその住所を調べて来ました」

 確かに誠は桜田与一と度々手紙でのやり取りをしており、年賀状も交換していた。

「そういうことだったのねぇ~。それで今日はどんなご用件で?わざわざ僕の所に来てくれたってことは、何か邪鬼祓いに関係する用事があるのかな」

 飛燕の問いに少女は「はい」と言って頷いた。

「実は、人探しを手伝って頂きたいんです・・・」

「人探し?」

「あっ、人探しというか・・・人じゃないんですけど。お父さんの式はご存知ですか?」

「ああ、繭子さんか。探して欲しい人って彼女のこと?」

「はい。三年前に両親が離婚してから私はお母さんと住んでたので、それからはたまにしかお父さんと会ってなかったんです。お父さんの訃報を病院からの電話で知って、その後はお通夜とかお葬式をして何事も無く終わったんですけど。あれ以来、繭子の姿を一度も見ていないんです。ちゃんとお金も出します!繭子を探してください!」

 座ったまま深々と頭を下げながら懇願する少女を見て、飛燕は不思議に思った。

「別にいいんだけど、なんでそこまでして繭子さんを探してほしいの?何か言いたいことがあるとか?」

「それもあるんですけど・・・」

 愛奈は少し躊躇いながら理由を述べた。

「私、邪鬼祓いになりたいんです。術も練習して少しは使えるようになりました。だから、繭子に私の式になってほしいんです!」

 彼女の眼差しは真剣だった。とはいえ、まだ十六歳の少女に邪鬼祓いという危険が伴う仕事をさせてもよいものか。飛燕はそう考えていた。

「なるほど~。ちなみに術はどうやって勉強してるの?あと、愛奈ちゃんが邪鬼祓いになるってお母さんには言ってある?」

「お母さんは賛成してくれました!術はお父さんが残した邪鬼祓いの書物に載ってるので、それで勉強してます」

「えっ」

 飛燕は驚きを隠しきれずに思わず声を出してしまった。

「お母さん賛成してくれてるんだ!」

「はい。お母さんは霊感とか全くないので繭子のことも見えないんですけど、私が邪鬼祓いになることには反対せず、なんか喜んでくれました」

「あら、そう。素敵なお母様ですわね。それじゃあ、元々は桜田与一さんの式だった繭子さんを探してまた一緒に邪鬼祓いとして活動したいんだね。よし愛奈ちゃん、繭子さんを探そう!」

「ありがとうございますっ!」

 そうと決まれば話は早い。飛燕は折り紙で作ったばかりの白い犬たちへ右手を翳し、動くよう念じた。座卓に置かれていた三匹の犬は「ワン!」と高い声で鳴くと畳へ飛び下り、主の飛燕を見上げた。

「すごい・・・これが折り紙術なんですね・・・!」

 愛奈は動く折り紙犬に目を輝かせている。

「愛奈ちゃん、何か繭子さんの手掛かりになるようなものってないかな?例えば匂いのついてる物とか」

「あっ、これはどうでしょうか?」

 そう言うと彼女は左手首に巻いてある紐を解き、飛燕に渡した。

「お父さんが繭子の糸で作ってくれたお守りです。お役に立てばいいですが」

「お、これならいけそうだ!ほら」

 飛燕はそれを受け取ると犬に匂いを嗅がせ、見付けたらすぐ戻ってくるようにと命じて窓から解き放った。

「三匹じゃ足りないからもっとね」

 そう言って飛燕は書斎へ向かい、十六個の折り紙犬を持ち出してきた。

「作り置きしておいたのがあるから。犬は燕と違って折り紙のサイズが正方形じゃないし、折るのも大変でね。ちょっと数が少ないけど鼻が利くし優秀だよ」

 話しながら犬たちに右手を翳し、紐の匂いを嗅がせて捜索へと向かわせる。飛燕がそうしている間に松毬は厚い木の板に画鋲で付けられたこの町の地図を座卓に置いた。たった今捜索に向かった犬たちには受け持つ範囲も指定させており、紙の体にはそれぞれ番号も記してあるのだ。

「サンキュー松毬、ごめん地図のこと忘れてました」

「だと思ってました。番号覚えてます?」

「大丈夫ー、奇跡的に覚えてるよ」

飛燕は先程放った十九匹の折り紙犬と同じ番号のシールが貼られた画鋲を地図上のそれぞれの地区に刺した。

「匂いを嗅がせてあるからそんなに時間かからないと思うけど、まだこの町に居るかすら分からないもんね」

 飛燕の言葉に愛奈は頷く。

「はい・・・元々は東北の方にいたと聞いてますので」

「東北か~、管轄外だけどこの地域にいなかったら探してみる価値はあるね」

 飛燕たち邪鬼祓いにはそれぞれ受け持っている地区があり、日本の東西南北で分かれている。その中でも南には六人の邪鬼祓いしか居ないため、東や西から出張に出る者も出てくるのだ。飛燕も一度だけ仲間の邪鬼祓いと共に奄美地方まで出張に行ったことがある。

「奄美行ったときは僕と松毬と磯村潮さんって人で行ったんだけど、旅行みたいで楽しかったなー。潮さんは僕がお世話になってる先輩で、また腕の立つ人でさー。っと、ごめん話が逸れちゃったね」

「いえ、色々と聞かせて頂けて嬉しいです。そう言えば、飛燕さんって松毬さんとはどうやって出会ったんですか?」

「あー、実は松毬も元は父さんの式だったんだ。僕が幼い頃から松毬が世話をしてくれてて、その縁で今は僕の式をやってくれてるんだよ」

 飛燕がそう言うと松毬は誠との出会いを話し始めた。

「私はこの町の北にある海辺の松林の奥に住んでいたのですが、ある日偶然そこへお仕事で来ていた誠さんやその式の方々と出会い、それから仲良くさせて頂いてたのです。何度か来られたのち、誠さんから式になってくれないかとお話を持ち掛けてもらい、すぐに契約致しました!」

「って感じで、松毬はチョロい子なんです」

「チョロくないですっ!誠さんが素敵な人で、多比さんと栗渦羅さんも優しい方だったので承諾したのです。可愛い人の子もいると聞きましたので」

 松毬が飛燕を見ながら言った。

「可愛い人の子って僕のことか・・・」

「小さい頃はとっても可愛かったんですからね。今ではこんなご立派になられて」

「松毬は隙を見て僕のこと食べるつもりだったんだろ!」

「食べませんっ!」

 飛燕と松毬の茶番に近いやり取りを見て愛奈はクスクスと笑っている。

「お二人はとても仲がよろしいんですね。楽しそうです」

「あっはは、ごめんねこっちで勝手に盛り上がっちゃって」

 飛燕は頭を掻きながら苦笑した。他愛のない会話で盛り上がっていると気付けば二時間が経過しており、近場を探している犬はそろそろ帰ってくる頃になっていた。

「そういえばさっきから気になってたんですけど、あそこの漫画って・・・」

 愛奈が興味津々といった様子で本棚の方を見ている。

「あ、私が読んでるものです!もしや愛奈さんも少女漫画好きですか!?」

 松毬は身を乗り出して言った。やはり彼女は漫画の話になるとテンションが高い。

「え!松毬さん漫画読まれるんですか!え、私も大好きです・・・!」

 愛奈も松毬と同様に身を乗り出す。このとき飛燕は思った。二人は気が合うと。

「やったー!先程から感じていたのですが私達気が合いますね!」

 松毬が愛奈の手を取って言う。趣味の合う友人が出来たことに大いなる喜びを感じているようだ。二人のテンションが最高潮に達した頃、不意に外から犬の鳴き声が聞こえた。折り紙犬が二匹帰ってきたのだ。

「きたきた、楽しんでるところ本当に申し訳ないんだけど松毬、番号言うから地図のほう確認お願いできる?」

 飛燕が苦笑しながら言っていると、目の前の犬二匹はその場で微動だにせず留まっている。

「あ、はーい。何番ですか?」

「えっとね、十一番と十二番。回らなかったからバツね」

 飛燕は二匹の折り紙犬を指で突くと、一言「お疲れさん」とだけ言い座卓の上に置いた。

「あの、回ると何かあるんですか?」

 飛燕と松毬のやり取りが気になったのだろう。愛奈は動かなくなった折り紙の犬を見て訊ねた。

「僕への合図だよ。この子たちが僕の前で一周回ったら脈あり、二周回ったら事件、回らなかったら何も無い。今回の場合はワンコが一周回れば、おそらくそれが確定演出となるかな」

 飛燕が話していると立て続けて三匹目の犬が帰ってきた。犬は飛燕の顔を見上げると、一周回って「ワン!」と吠えた。

「八番脈ありー!噂をすればきましたよー!」

 飛燕の言葉で松毬は地図の番号を確認する。

「八は香吹山です!」

「香吹山って、わりと近いな。この時期桜で綺麗だろうな~。じゃあどうしますか、もうお昼過ぎてるし何か食べてから向かう?それともそのまま行っちゃう?」

 飛燕はそう言って愛奈を見る。彼女は少し考えてから首を横に振った。

「飛燕さんたちが大丈夫なら、今すぐ行きたいです」

「よし決まり。ごめんね、持ってないからバスで行くことになる。バス代は僕が出すから心配しなくていいよ」

「え、でも・・・」

 愛奈はお金のことを気にしているのか、少し不安そうな目で飛燕を見ている。

「お金は大丈夫だよ。今回の捜索依頼もお金はいらない。ボランティアってことで」

「本当に、いいんですか?」

「本当だよ、桜田さんにお世話になった恩はここで返させてもらいたいから」

 飛燕の想いを感じ取ったのか、愛奈はそれを聞いて笑顔になった。

「ありがとうございます!」

 礼の言葉に飛燕は頷き、帰ってきた折り紙犬を手に取ってリュックへと仕舞った。

「さぁ、行こうか。松毬は登山道の入り口辺りで先に待っててもらえるかな」

「承知しました」

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 飛燕と愛奈は最寄りのバス停からバスに乗り、香吹山近くのバス停で下車した。香吹山は標高二百メートル前後の小さな山だが、登山道へ入れば別世界のような大自然が広がっている場所だ。そのため山中やその付近には物の怪の類も多く住んでおり、化かされる者も少なくはないのである。

 登山道入り口で松毬と落ち合い、飛燕は先程ここの捜索を任せた八番の折り紙犬を取り出し、右手に持って再び動くよう念じた。命を宿された折り紙の犬は飛燕の手を離れ、地面に飛び降りた。

「匂いの場所まで案内よろしく」

 薄紅色が咲き誇る中、犬は飛燕の指示で皆を先導するように移動を開始した。暫く登り進んで行くと、登山道の端で折り紙犬が突然歩みを止め、よく見なければ気が付かないほど草に覆われた獣道へ向かって「ワン!」と吠えた。

「ん?」

 一瞬、飛燕は何かが潜んでいるのかと疑ったが、一度しか吠えない犬を見てすぐにそれが道を示す合図だと理解した。

「こっちか、狭いけど愛奈ちゃん大丈夫そう?」

 愛奈は飛燕の問いに頷いたが、春とはいえ山道を登って来たので額には汗を浮かばせており少し息も荒くなっている。

「大丈夫です、頑張ります」

 そうは言われても心配である。リュックからスポーツドリンクを取り出すと愛奈へ差し出した。

「これ愛奈ちゃんの分だよ。熱中症になっちゃうと困るから夏じゃなくても水分補給は欠かさずに」

「えへへ、ありがとうございます」

 彼女はスポーツドリンクを受け取ると太い眉の眉尻を下げて微笑んだ。飛燕はその顔からどこか桜田さんの面影を感じた気がした。

 三分ほど休憩をしてから獣道に足を踏み入れ、そこからは木々の間を通り抜けて進んで行った。歩を進めて行くと道の先に少しだけ開けた場所が見えてきた。そこで飛燕は顔面に蜘蛛の巣のようなものを被り、声を上げてたじろいだ。

「うわっ!」

 その様子を見た松毬は一瞬驚いたが、その後クスクスと笑いを堪えているのが分かった。

「マジで!今びっくりしたんだってば!蜘蛛の巣・・・」

 飛燕がそう言いながら顔に付いたものを手で掃い見てみると、それが蜘蛛の巣でないことに気付いて青ざめた。

「これ、蜘蛛の巣にしては大きいよな」

「旦那様、それが蜘蛛の巣なわけないじゃないですか」

 松毬は青い顔をしている飛燕に笑いながら言った。一時感じた恐怖が徐々に冷めていく感覚と同時に恥ずかしさが込み上げてくる。

「飛燕さん、それ繭糸です」

 愛奈が真顔で言った。

「あ・・・ま、繭かなんだ繭か!びっくりしたぁ土蜘蛛でもいるのかと思ったよ!」

 飛燕が慌てていると手前を進んでいた折り紙犬がワンワンと吠えだした。見ると開けた場所の中心に大きな桜の木が聳えており犬はその上に向かって吠えているようだった。

「先程から騒がしいですね、何なのですか」

 桜の木の上から聞こえてきたその声に飛燕たちは聞き覚えがあった。あどけなさが残る可愛らしい声、その主は宙を舞い散る薄紅色の花弁と共に背中の翅を広げて降りてきた。白装束に肌色の着物を羽織り、首には繭を巻いている。左右の白い髪の間から生えた触角は時たまピクリと動き、透き通るような肌と風に揺れるボブの髪が儚げで美しい。

「お久しぶりです、繭子さん」

 地へ降りた繭子は飛燕をじっと見てから溜め息を吐いた。

「飛燕さん、お嬢様を連れてあたしに何の御用ですか」

 お嬢様とは愛奈のことであろう。呆れ顔の繭子と違い愛奈は嬉しそうにしている。

「繭子!久しぶりだね、お父さんが死んでからどこ行っちゃったか分からなくて心配してたの。また会えてよかった・・・あのね、繭子にお礼が言いたくて」

「あたしはもう繭子ではありません!」

 繭子は俯きながらそう言葉を吐き捨てた。

「・・・どういうこと?」

 愛奈が困惑して訊ねる。繭子の目には涙が浮かんでいるらしく、僅かに光っている。

「あたしは、もう与一の式ではありません。だから繭子という名はもう無くしました。お嬢様、どうしてあたしの所に来たのですか」

「私は・・・最初にお礼を言いたかった。繭子、今までお父さんのことをありがとう。それとね、私も邪鬼祓いになるって決めたの。だから今度は私の式になって、これからもずっと私のそばに居てほしいの!」

 愛奈は想いを込めて叫んだ。飛燕もその様子を見て、彼女があそこまで繭子に会いたがる理由が分かった。

「そんなこと・・・出来るんでしょうか」

 繭子が桜の木を見上げる。水晶のような瞳から溢れた涙は頬を伝い零れ落ちた。

「この桜の木が与一と初めて会った場所なのです。あたしは元々、北の養蚕農家で育てられた蚕でした。しかしそこの主人が死んでから農家は途絶え、取り残された蚕の中であたしだけがこの姿になったのです。それから各地を転々としている間に色々なことがありました」

 繭子は桜の木に手を当て話を続けた。

「あるとき黒い翼を持った物の怪の群れに襲われてこの場所へ逃げ込み、弱っていたところを与一に助けられました。あたしが礼をしたいと申し出ると、彼は自分の式になってほしいと言いました。そうして式になったあたしに、与一は名をくれました。名前の無かったあたしに初めて与一が付けてくれたのが、繭子という名でした」

 彼女は話し終えると愛奈の方を向いてこう言った。

「ですが、もう与一はいません。彼の式でなくなったあたしは再び名無しの蚕になってしまいました。もうこの名を名乗る資格なんて・・・与一が死んでから身を隠したのは、お嬢様と別れるのが辛かったから。二度とこんな悲しい思いはしたくなかったからです!それなのに、どうして・・・」

「繭子・・・」

 両手で顔を覆いすすり泣く繭子を見て、愛奈も目に涙を浮かべた。

「繭子ちゃん、愛奈さんはね」

 松毬がポツリと呟き、繭子に歩み寄った。

「愛奈さんは、繭子ちゃんのことが大好きなんです。だから離れ離れになりたくなかった。繭子ちゃん、与一さんが奥様と離婚された後も愛奈さんのことを気にかけてよく会いに行かれてたんですよね。誠さんが与一さんから聞いたと言ってました」

「松毬さんは、辛くないのですか。なぜ織川誠が死んだ後も人に仕えていられるのですか?」

 繭子が訊ねると松毬は彼女の頭を撫でて微笑んだ。。

「誠さんが亡くなられた時は辛かったです。ですが私はあの方に今の旦那様を、飛燕くんを任されました。大切な人が望むのなら、私はその方のそばに居続けます。それが私達、式になったあやかしの役目だと思ってます。あくまで私だけの考えですが」

 飛燕は初めて松毬の想いを知った。彼女がどんな覚悟で自分と共にいるのか。

「人からすれば一生でも、妖怪からしてみれば一瞬でしかない。人の世は短い。僕が死んだら松毬を悲しませてしまうかもしれない。それでも、君は一緒にいてくれますか?」

 飛燕がそっと呟くと、松毬もこちらを見て頷いた。

「当たり前じゃないですか。私は旦那様の式なんですから」

「ありがとう、松毬」

 松毬という名も以前の主である誠が付けた名だ。彼女には真の名が別にあるのだが、神に近い存在であるあやかし者の名を人が知ることは許されない。そのため、邪鬼祓いは式に仮の名を付けることが決められているのだ。しかし繭子のように元は名前の無かった者に式としての名を与えた場合、それが自分に付けられた初めての名前ということになる。彼女にとって繭子という名は大切なものだったのだろう。

「もし今のあなたに名前が無いのなら、私が付けてもいい?」

愛奈が繭子のそばに寄り、細く白い手を取る。

「あたしに、名を?」

「うん。あなたの名は、繭子。私が一番気に入ってるあなたの名前だよ」

「お嬢様・・・あたしは、まだ繭子でいてもよろしいのですか?」

「もちろん、そしてこれからも私と仲良くしてほしい。私が死んだとき、また辛い思いをさせちゃうかもしれないけど・・・でも、私は繭子と一緒にいたいよ!」

 桜吹雪の舞う下、愛奈は泣きながら繭子を抱き寄せた。

「お嬢様、ありがとうございます。本当にありがとうございます・・・あたし、お嬢様のことが大好きです」

 繭子も小さな体で目一杯抱き返した。飛燕は二人の姿を見てまるで姉妹みたいだと思っていた。愛奈が繭子に会いたかった本当の理由はただ式になって欲しかったからではない。大切な友人である繭子と離れてしまうのが寂しくて耐えられなかったのだ。飛燕もそれを考えながら誠の死後に姿を消してしまった二人の式のことを思い出していた。

「多比、栗渦羅、今どこにいるんだ」

 飛燕はポツリと呟いた。

「旦那様、どうかなされましたか?」

 松毬が心配そうな顔で訊ねてきた。飛燕はいつの間にか自分の表情が暗くなっていたことに気付き、すぐに笑顔で首を横に振った。

「何でもないよ!それよりよかった。これで愛奈ちゃんも邪鬼祓いの仲間入りかな?」

「いえ、実は繭子に式になってもらうのはもう少し後にしようかなと思って。私、まだまだ半人前なので・・・」

「あら、そうなんだ。繭子さんもそれでいいの?」

「あたしは、お嬢様が一人前の邪鬼祓いになるまで用心棒として見守ることにします。これからは何があっても、お嬢様から離れません」

 繭子は幸せそうに笑い、愛奈もその様子を見て微笑んだ。彼女はこの笑顔をずっと見たかったのだろう。一度解れた二人の想いは再び糸を編むように互いに組み合わさって、また新しい形になる。不思議で儚い、人と妖怪の絆として。

「それで、飛燕さんに大切なお願いがあるのですが」

 愛奈が改まった口調で言った。飛燕は彼女の目を見ながら次の言葉を待つ。

「私を、弟子にしてください!」

「・・・えっ?」

 当然すぐに返事など出来るわけもなかったが、その言葉は確実に飛燕の心へと期待を持たせた。

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