それは、まだまだ肌寒い三月の日曜日のこと。
篤夫は麻美と二人、遅い晩御飯を食べていた。
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篤夫が市内の古いアパートから、郊外のこの市営団地に越してきて、ちょうど一年が経とうとしている。
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彼がアパートを引き払った原因は2つあった。
一つは、
引っ越す3ヶ月ほど前から身辺に気味の悪いことが、たまに起こっていたことだ。
例えば仕事から帰ると、いつの間にか玄関前が綺麗に掃除されていたり、時には鉢植えが置かれていたりしたこともあった。
あと朝方部屋を散らかしたまま仕事に出掛け、夜に帰宅するとキチンと片付けられていたりとか、空き巣とかが忍び込んで金品を盗まれたというのならまだしも、このような事態が時折あったりすると、ただただ薄気味悪くて戸惑うばかりだった。
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それともう一つは、これが決定的だったのだが火事だ。
当時隣に住んでいた女性が昼間ガス自殺を図り、火が引火して爆発を起こしたらしく、木造だった建物は激しく燃え、夜仕事から帰ってきたときにはアパートは元型を失うほどになっていて、警察の人が住人たちと話をしていた。
焼け跡からは判別できないくらい真っ黒に焼け焦げた隣の女性の死体が発見された。
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shake
コン、………コン、コン………
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誰かが玄関ドアをノックしている。
遠慮がちに弱めに叩いているようだ。
ダイニングテーブルに向かい合い座っていた篤夫と麻美は思わず目を合わせた。
ピンクのスエット姿の麻美が少し不安げに呟く。
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「今ごろ、誰だろうね?
篤夫、ちょっと見てきてよ」
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午後十時五分。
アポなしで訪ねるには、非常識な時間だ。
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彼は立ち上がると廊下を歩き、殺風景な金属のドアに向かって、
「どなたですか?」
と言った。
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一呼吸おいて、聴き取りにくい女の低い声が聞こえてきた。
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「…………あの…………お荷物なんですが…………」
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─荷物?宅配業者か?
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彼は鍵を開け、チェーンを掛けたまま細めに開けた隙間から覗く。
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ドアの前には誰もおらず、ただ小さな箱が一つ、渡り廊下の真ん中にちょこんと置かれている。
チェーンを外しドアを開け左右を見渡してみた。一瞬だが右側の薄暗い廊下を真っ直ぐ歩く女の黒い後ろ姿が見えたので、
「あの……」と声をかけたが、すぐに闇に溶け込んでいった。
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篤夫はしょうがないので床に置かれた箱を持ち、リビングに戻った。
テーブルに座ると、さっそく麻美が尋ねる。
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「何だったの?」
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「荷物だよ」
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そう言って、テーブルの上に小さな箱を置くと、腕を組む
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「荷物?こんな時間に?」
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「うん。誰からだろう?」
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彼は改めて箱を見た。
縦横三十㌢くらいの小さな箱だ。
段ボールなのだが、あちこち汚れて傷んでいる。
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─だいたいこれは荷物なんだろうか?
というのは荷札が貼られていないのだ。
でも、さっきの女は間違いなく「お荷物」と言っていた。
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「篤夫、これ荷札も貼ってないじゃない。
何か気味が悪いわね」
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麻美が恐々と箱を見ながら呟く。
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彼は好奇心もあり、箱に貼られたガムテープを丁寧に剥がして開いてみた。
微かだが、ツンとする酸い臭いがする。
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中には小洒落た陶器の鍋が一つ入っている。
篤夫はこの鍋に見覚えがあったが、はっきりとは思い出せなかった。
取り出してみる。
ちょっと重い。
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「何なの、これ?」
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いつの間にか麻美が彼の隣に座っている。
恐々と蓋を持ち上げてみた。
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「う!……」
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途端に強烈な腐敗臭が鼻腔を直撃し、思わず麻美も篤夫も鼻と口を抑えた。
彼は耐えきれず、激しく咳き込む。
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鍋の半分くらいまで琥珀色の液体が入っており、
何か四角や三角の固形状のものが浸かっている。
液体は寒天のようにゲル化しており、ビッシリと青白いかびが浮かんでいた。
固形物は、どうやら揚げ豆腐やコンニャク、玉子のようなのだが、黒く固くなって浮んでいる。
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「これ、もしかして、おでんじゃないの」
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麻美が鼻をつまみながら言う。
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「そのようだな」
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麻美はその鍋を持って急いで台所に行き、中身を生ゴミ回収ボックスに捨てた。
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「ちょっと、いったい何なの?
もしかして、悪趣味なイタズラ?」
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怒りに満ちて麻美が呟く。
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「分からんな」
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そう言って彼がもう一度箱を見ると、底の方に何か白い紙があった。
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それは折り畳んだ1枚の便箋。
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開いてみると、女性特有の手書きの丸文字がビッシリと並んでいる。
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前略
……
篤夫さん、お元気ですか。
あなたがいなくなって、もう一年が経ちました。
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思えば、あれは五年前の粉雪舞う寒い夜のことでした。
当時、道ならぬ恋の迷路を彷徨っていた私は、あの狭いアパートで一人仕事にも行かず食事もまともに摂らず、ただ部屋の片隅にうずくまっておりました。
あの頃の私は正に生ける屍みたいでした。
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そんな時でした。
隣に住むあなたが玄関の呼び鈴を鳴らしたのは。
這うようにドアのところまで行きチェーンを掛けたまま細めにドアを開くと、そこには鍋を持ってニッコリと微笑む優しげなあなたが立っていました。
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「作りすぎたのでよろしかったら、食べてください」
そう言って、そっとあなたは私に鍋を渡しましたね。
その瞬間私の心には温かい陽光が射し込み、凍り付いた部分が溶けていったのです。
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その日から来る日も来る日も、考えるのはあなたのことばかり……。
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朝あなたが仕事に出かけた後は、玄関前を掃いてあげたりドアをピカピカに吹いてあげたり、
夜眠れないときとかは部屋を真っ暗にして壁に耳をあてて微かに聞こえてくるあなたの寝息を聞くと、グッスリ安らかに眠れました。
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またこれは本当にいけないこととは思っていたのですが、あなたのいない昼間の時間にあなたの部屋にそっと忍び込み、
「もう篤夫さん、本当にだらしないんだから」
と新妻のような気分で苦笑しながら散らかっていた部屋をきれいに片付けたりとかしておりました。
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内気な私にとってそれくらいしかあなたにしてあげることがなくて、つい……。
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勝手なことしてごめんなさいね。
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そして忘れもしない、一年前の桜散る四月半ばのこと。
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私は勇気を振り絞って夜、あなたの部屋のドアをノックしました。
愛情を込めて丁寧に作ったおでんを食べてもらおうと思って。
でもその日からあなたは、アパートには帰ってきませんでした。
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こんなにも思い、尽くしてきたのに、この仕打ち。
あまりに酷すぎます。
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私はあなたを必死に探しました。
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そしてやっと一週間前、あなたの住む団地を見つけたのです。
久しぶりに見たあなたは、あの頃とほとんど変わってなくて、本当に嬉しかった。
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ただ一つだけ変わったことは、私以外の女と一緒にいたことくらいです。
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弘志さんは騙されている!
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私は、そう直感しました。
何故ならタロット占いによると、弘志さんは私と結ばれる運命にあるということだったからです。
とりあえず今日は、私の手作りおでんを置いていくだけにします。
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弘志さん、早く目を覚ましてください。
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そして本当にあなたに必要な女性が誰なのかに、早く気づいてください。
それではいづれまたお訪ねしよう、と思います。
その日まで、お体には十分にお気をつけてお過ごしくださいね。
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追伸
……
あの女は私の方で排除しておきますので、どうかご安心くださるよう願います。
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fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう