俺には4つ年上の姉がいる。
この物語を語る上で、彼女が如何に人間離れした才能の持ち主でたるかはーーー言わずもがなだろう。
玖埜霧御影(クノギリミカゲ)は、視える側の人間だ。今日はそこから始めよう。長らく続いた物語に新鮮味を持たせるには、原点に戻ることだと思う。これはあくまで俺の持論だが。
さて。前述した通り、玖埜霧御影は視える側の人間だ。この世ならざるモノーーーつまり、怪異だ。幽霊、妖怪、物の怪、アヤカシ。通常、目に見えないであろう怪異を視る。
今でこそ、ろくろ首が首を伸ばそうが、袖引き小僧が袖を引こうが、鼻歌交じりに爆竹を鳴らして(火や大きな音は、昔から怪異を祓うものだとされていたらしい。それにしたって、爆竹はやり過ぎるとは思うけど)、退散させているけれど。
昔は、これが結構、コンプレックスだったそうだ。
自分には視えているのに、他の人には視えていないということが、苦痛だったしい。何故なら「視えること」は特別であり、異質であり、怪異同様、奇異の眼差しを向けられるから。
人間であるはずなのに、怪異と同等に扱われること。これは生きている人間に対し、最大級の侮蔑であり、差別だ。
奇異の眼差しを向けられ続けて生きてきた姉さんからしてみれば、こんな才能を持って生まれてきた己の運命とやらを、憎み憎んで、怨み恨みもたらたらに、垂れ流していたのだろう。その生きとし生きる生々しい苦しみは、計り知れないけれど。
だが。最近の姉さんは、そうではない。視る能力を持って世に生まれ出た自分のことを、ほんの少し誇りに思うようだ。
「視るだけじゃつまらねえけど。視て、祓う能力さえ身に付ければ、それは金になる」
姉さんの言葉だ。この人、将来は胡散臭いが腕前は確かな専門家にでもなるつもりなんだろうか。
やっぱり姉さんは、只者じゃない。
◎◎◎
学校からの帰り道。
「あむあむあむあむあむ」
「止めろ、ショコラ。俺の左耳をあむあむするな」
そう言って、じとりと睨む。その先にいるのは、人懐っこい笑みを浮かべた制服姿の女子中学生。クラスメートの日野祥子ーーーチョコレート類に目がないことから、クラスの連中からはショコラと呼ばれている、ナニかとお騒がせガールだ。
「浪速のおしとやかガール?もー、欧ちゃんたら。何そのネーミングセンス。ダッサイなー。しかも私は出身は大阪じゃないよ」
「お前は今すぐ耳鼻科に行け」
ショコラは猫のような細い目を更に細め、まあまあと猫撫声を出す。そしてするりと俺の腕に自分の腕を絡ませると、「ショコラちゃんの全快祝いに付き合ってよー」と、とんでもないことを言い出した。
全快祝い。実はこのショコラという子、少し前まで学校を長期間休んでいたのだ。詳しくは知らないが、厄介な皮膚病というやつに掛かってしまったらしく、病院にしばらく入院した後は、自宅療養を続け、先日ようやく復帰してきた。
完治……はしていないのだろう。手首や太腿に白い包帯が巻かれている。一応、病人といえば病人なのだし、邪険にするのも可哀相なのだが。
「どうせショコラのことだ。またどっかから変な噂を聞いたとか、ネットで都市伝説を見つけたとか、そんなところなんだろ」
そして、その真相を一緒に確かめようと俺に振ってくるのだ。結果として毎回散々な目に合っているのもまた事実。今日は早く帰りたいし、正直ショコラに付き合っていたくはないので、絡む腕を振りほどきたいところなのだが。
「ーーー忍冬神社にさあ、纏わる噂を聞いたのよね」
ショコラの意味深な一言に、思わずぴたりと足が止まる。
忍冬神社ーーーこの町に古くからある、寂れた神社だ。何年か前に神主さんが亡くなり、管理する人がいないまま、放置され続けている。何故か不良も烏も野良猫も寄り付かない、曰くありげな神社だ。
この神社には禍々しいオーラ、と言えば嘘臭く聞こえるけれど。何かしら良くないオーラみたいなものの溜り場になっているのだろう。この神社では、以前に何度か因縁ある事件が起きている。
「……どんな噂だ」
正直、聞きたくないし、関り合いになりたくない。関わったところで一文の得にもならないだろう。だが、知らぬが仏とも言えないのだ。
忍冬神社が原点だとするならば。
俺からの問い掛けに、ショコラは待ってましたとばかりに、ニヤリとしながら呟く。
「うらうらうらうらうらおもて」
◎◎◎
忍冬神社の本殿の裏に、小さな祠が祀られている。木の板を合わせただけの簡素な造りの祠だ。観音開きの扉は、ネジが錆び付いているものの、片側が開け離れたままになっている。
祠自体は神社と同じく長いこと手入れをされていないのだろう。全体的に湿った苔で覆われ、緑色に変色していた。
「この祠に祀られているモノーーーそれは何だと思う?」
ショコラは祠の前で腕を組み、じっとそれを見つめている。俺はショコラの隣に立ち、少し屈むようにして祠の中を覗き込んだ。
「んー?何だあれ……小さな、黒っぽい何かがある……、あれは………小銭?」
小銭というか、10円玉だ。それもやたらにピカピカしている。
「この10円玉が何だって言うんだ?てかこれ、賽銭とかじゃねえの」
「お賽銭だったら、祠の手前に置かれてるはずでしょ。よーく見なさいよ。この10円玉、祠の中にあるでしょ」
「確かに祠の中にあるけど……」
まさか、このピカピカの10円玉が祠に祀られている御神体なわけがあるまい。
「この10円玉こそが祠に祀られている御神体らしいよ」
御神体だった。そんなまさか。
「むかーしむかしの呪術らしいんだけどさ。銅って、まじないごととか呪いに使われてたんだって。嘘か本当か、人の運を引っくり返す効果があるらしいよ」
硬貨だけにね、と。ショコラはつまらない付け足しをした。
「で、この10円玉ね。これもさ、噂によると、呪いに通じてるんだって」
「この何の変哲もない10円玉がか?」
「10円玉って、コックリさんみたいな降霊術にも使われるじゃない。1円玉や5円玉、百円玉や五百円玉ではなく、10円玉が必須とされている。銅って、その性質上、人の念が強く宿るらしいの」
ふうむ。人の念、ねえ。
俺は再び祠の中に視線を向ける。10円玉は祠のちょうど真ん中の位置にぴったりくるよう置かれていた。10円玉の下には、赤い布が敷き詰められており、1枚の硬貨を恭しく扱っている気がして、何やら心の隅がざわつく。
たかが10円玉。されど10円玉ーーーか。
しかし、幾ら眺めていても。
「俺にはチロルチョコが1つ買える硬貨にしか見えん」
「だったら、引っくり返してみなよ」
「はい?」
「ひっ、く、り、か、え、し、て、み、な、よ」
ショコラは悪戯っぽい笑みを浮かべ、ほらほらと俺を促した。
「噂だと、祠に祀られている10円玉を引っくり返すと、良くないことが起きるみたい」
「良くないこと?」
「引っくり返してみなって。どうせこんなの迷信でしょー」
「迷信って……」
まあ。もっとヤバそうな物が祀られていると思ったけれど、蓋を開けたら10円玉だしな。現代に流通している硬貨という安心感もあってか、俺はゆっくり10円玉に手を伸ばす。
これが古い縄だったり、年期の入った彫り物だったりしたら警戒していただろうけれど。10円玉をそっと摘み、引っくり返す。
表から裏へ。
「……んで?引っくり返したけど、これでどうすんだ」
そう言って振り向く。既にそこには誰もいなかった。
◎◎◎
ショコラにエスケープされた後。1人ぼっちにされた俺は、とぼとぼと帰り道についていた。あいつこそ怪異なんじゃないかね。そこにいたかと思えば、急にいなくなるし。
「……に、してもだ」
俺はゆっくり振り返る。先程から妙な違和感を背中に覚えていたのだ。背中に貼り付くような、或いは背中を撫で回されているような、そんな視線をひしひしと感じる。
その視線の持ち主は。
その視線の持ち主は。
その視線の持ち主は。
……ランドセルを背負った男の子。
正確な年は分からないが、体型や雰囲気からして恐らく高学年。格好も至って普通。ロンTにジーンズといったシンプルな装い。
だが、明らかにおかしいことがある。
「、声が……」
真夏に鳴く蝉の鳴き声に近い、といえば解りやすいだろうか。聞いている人間の神経を逆撫でするかのような、高いようで低いような、濁り水のような声。
「ミィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ」
微かに開いている唇から漏れてくるとは思えない、大音量。耳の中で10匹の蝉が大合唱しているかのようなボリュームに、俺は一瞬眩暈がした。堪え切れず、その場に片膝を付いて何とか凌ぐ。
「ミィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ」
「っ、うるせえよー!!!」
こちらも負けじと大声を出す。すると、ぴたりと大音量が止んだ。
未だに痛む鼓膜を気にしながら、瞑っていた目を開ける。すると、またしてもとんでもないような現象が起きていた。
「あ、」
男の子の顔の皮膚がぺろりと剥けたのだ。いや、剥けたというか……どう言えばいいのだろう。剥けたというより、なくなったというほうが正しい。それも唐突に。
剥き出しになった赤黒い表情筋。浮き出る青い血管。眼孔から飛び出そうになっている眼球。カチカチと、歯が鳴る音が微かに聞こえてくる。
と。
ブチュッ、ブチュッ、ブチュッ、ブチュッ……
眼孔と眼球、盛り上がった鼻、歯茎、歯が。周囲の筋肉に飲み込まれるように、埋め込まれていく。
「うぶっ、…」
堪えようと思ったが、無理だった。公共の場にも関わらず、その場で戻した。それくらい、気持ちが悪いのだ。
やがて、男の子の体にも異変が起きる。背負っていたランドセル及び、着ている服の全てが、まるで体そのものに取り込まれていくように、埋め込まれていく。そして皮膚でさえも。
ブチュッ、ブチュッ、ブチュッ、ブチュッ……
「う、うえええッ!」
また戻した。俺の前に立ち尽くしているのは、もはや何なのか。全身から皮膚を剥ぎ取られ、顔から眼球や鼻や唇の凹凸までなくした、よく分からない変なモノ。
そいつは。爪のない指先をゆっくり俺に伸ばしてくる。人間の生肉ーーー剥き出しの筋肉の臭い。腐臭に近いそれに、口元を押さえたまま立ち上がれない。
と。
「ーーー裏返し」
首根っこをキュウッ、と掴まれて無理矢理立たされた。ぼんやり見上げれば、上から下までグッショリ濡れた姉さんが、にっこり微笑んでいた。
一瞬、雨が降っているのかと思ったが違う。これは日本酒ーーー御神酒の匂い。
「何してんのー?」
姉さんはにこにこしながら、俺の襟首を掴んでブラブラ持ち上げた。まるで猫ちゃん扱いである。
「え、えと……猫扱いされてる……」
「そうじゃなくてー」
姉さんは目をカッと見開いた。
「何で裏返したの、って聞いてんだよバカタレ」
◎◎◎
ショコラの言った通り、昔から銅という物質は、人間の念を取り込みやすいと考えられていたそうだ。まじないごとや呪いに通じているともショコラは言っていたが、それもまた史実に基ずく事実である。
祠に祀られていた、というか安直されていた10円玉。これを引っくり返すーーーつまり、表の状態にあるものを裏にする。これが呪いを発動させるための手順なのだそうだ。
「表から裏へ。光から闇へ。正から悪へ。一瞬にして全てが引っくり返る。それもーーー良い状態から、良くない状態にね」
姉さんは、祠の中にある10円玉を再び引っくり返しながら言う。左手で俺の頭をぐりぐりと小突きながら。
「この10円玉を裏返すとね、裏返るんだよ」
「裏返るって……、まさか……」
さっき見た嫌な光景を思い出し、また口元を押さえる。今後、人体模型を見た日には戻してしまいそうだ。外科医とか、絶対無理。
「人間そのものが、裏返るんだよ」
あの男の子はーーー10円玉を裏返した結果、自分が裏返ったのだ。表から裏へ裏返る。
「裏返ったものはーーー2度と表に戻れない」
髪からポタポタと、御神酒を滴らせながら姉さんはニヤリとした。そしてポケットから別の10円玉を取り出すと、裏返したまま祠の中に安直した。
「生肉の臭みを取るには、酒に漬け込むんだよ」
その日、俺が人生初の御神酒風呂に入れられたことは言うまでもない。
◎◎◎
翌日。いつものように登校してみれば、ショコラが欠席していた。何気なく席が隣の女子にショコラの不在を聞いてみた。その子は「うーん」と首を傾げながら言った。
「朝、ショコラちゃんから電話があってね。今日休むこと、玖埜霧君に伝えて、って。自分で言えばいいのにね。ショコラちゃんと喧嘩でもしたの?」
「喧嘩はしてないけど、まあ、そんなとこかな」
「あと、変なこと言ってたなー。これも玖埜霧君に伝えて、って言われたんだけど」
いまいち腑に落ちない、といった表情で、その子は続けた。
「ショコラちゃん、裏返っちゃったんだって。どういうことだろうね?」
作者まめのすけ。