窓を叩く雨音も、きっとあなたには聞こえていないでしょう。
それほどまでに、あなたの心は、今私の中にあるのだから。ほら、そんな顔をしていると、彼女が心配しているでしょう?窓に映る、彼女の曇った表情すら、今のあなたは気付かない。
彼女が淹れたコーヒーを差し出して、初めてあなたは彼女の存在に気が付くの。あなたは、彼女にありがとうと小さくお礼を言うわ。そして、一口コーヒーをすすると、ひとつため息。
今のあなたは、幸せの絶頂でなければならないのに、そんな浮かない表情をしている理由は私が一番よく知っているわ。あなたは、彼女と結婚して今ちょうど一か月が経過した。本来であれば、新婚ホヤホヤで一番楽しい時期のはずだわ。それを、あなたをそんな表情にさせる理由はすべて私にある。
まるでその表情は一年前の私のようでもあり、そしてあの頃の私の苦みを今、あなたが別の形で味わっているのを、私はただ黙って傍で見ているだけ。
あなたの気持ちが変わってしまったことは、ずいぶん前から気付いていたの。こう見えて私、とても感がいいのよ?知らなかった?だけど、私はずっと気付かないふりをしていたの。だって、私が黙っていれば、あなたに私を責める理由はないでしょう?ずっと寂しい心を閉じ込めて、耐えて来たわ。いつも通りの日常、笑顔であなたを迎えて、笑顔であなたを見送る。
そんな私のどこがいけなかったのかな。あなたは、ある日、一番恐れていた残酷な言葉を私に告げたのよ。
「俺と別れてくれ。」
そして、テーブルの上には、あなたの署名と捺印がされた一枚の紙きれ。
私達が過ごして来た年月を、こんな紙切れ一枚で無かったことにしてくれと言うのは、あまりに酷じゃない?
あなたとの出会いは、今も鮮明に覚えているわ。あなたは私より、ひとつ年下で、通学途中の電車の中で、私に一通の手紙を渡してきたのよね?私は、驚いてしまって、恥ずかしくて手紙を受け取ってうつむいてしまった。
手紙には、いつも同じ電車で私を見かけて、次第に好意を抱くようになった、付き合ってほしいという内容が書いてあったわ。今時、ラブレターだなんて、驚いたけど、あなたの純粋な気持ちに打たれて、私はあなたとお付き合いすることに決めたの。
私が先に卒業すると、あなたは、私の後を追って、同じ大学に入学して、大学を卒業し、あなたが社会人になった年に、私にプロポーズしたのよね?
私は、感激で泣いてしまって、プロポーズをOKし、私たちは目出度く結婚した。
結婚して二年経っても私達には、子供ができなかったけど、それはそれなりに、幸せだった。
私達の歯車が狂いはじめたのは、あなたが単身赴任で大阪に行ってしまった時からだったわね。
私はあなたに着いて行きたかったのに、任期が一年だからと、単身で大阪に行くと言ったから。きっとあなたもその時は、すぐに帰るから一緒に移動するのも経済的ではないと考えてのことだったのよね?私は寂しいけど、一年なら我慢できると思ったの。
今思えば、私、あの時、着いていけばよかったよね。そうすれば、あなたが心変わりすることもなかったかもしれないのに。あなたは、出向先の、新卒の可愛らしい女の子と出会って、お互いに惹かれあってしまったのよね。私は、何も知らずに、ずっとあなたの帰りを待っていたの。
帰ってきたあなたは、何となくよそよそしい空気をまとって帰って来たわ。私は理由がわからずに戸惑っていたけど、出張と嘘をついて、大阪へ行ったり、たまに彼女が大阪から出てきた時には、残業と偽って真夜中に帰ってきたり、たまには終電を逃したと嘘をついて、朝帰りしたこともあったわね。
今までそんなことが無かったから、私、すごく苦しかったし寂しくて悩んだわ。
でも、おくびにも顔には出さなかったの。だって、私は、あなたが大好きだから、あなたが困る顔なんて見たくないし、きっとこれは一時の気の迷いで、あなたはきっと私のもとに戻ってきてくれるって信じていたの。
でも、それは私の自惚れだったみたい。あなたは、私が思うよりも深く、彼女を愛してしまったようね。私は、あの日、震えていた。体中の血が、抜けてしまったのではないかと思うほど、冷たくなってしまったの。
何度もあなたに、考え直してくれるように、お願いしたよね?プライドなんて、そんなくだらない物、かなぐり捨てて、私はあなたにすがったわ。
でも、あなたは首を横に振ることしかなかった。
「ごめん。君には申し訳ないと思ってる。でも、もう君に対して愛情が無くなってしまった。」
愛情が無くなってしまった?そうでしょうね。あなたが愛しているのは自分だもの。
否定しないわ。誰も自分がかわいいもの。好きでもない女と暮らすのは、苦痛でしょうね。
でも、私は、あなたを決して許さない。
そこで、私はいいことを思いついたの。
私は、台所に行き、包丁を持ち出したわ。
あの時のあなたの凍り付いた表情を思い出すと、笑いだしたくなるわ。
私が、あなたを傷つけると思った?
そんなこと、するわけないじゃない。だって、あなたは私が人生でたった一人、愛した人だもの。私は、持ち出した包丁であなたの目の前で、自分の首をバッサリと切ったわ。
あなたのあの驚いた時の表情が、今も私の中でスローモーションで再生される。
途切れ行く意識を呼び戻して、私は自分の胸にも深く包丁を差し込んだ。
きっとこれで死ねるだろう。
私が死んだ理由。
それはね、私があなたの中にずっと居続けること。
最後にそれくらい、願ってもいいよね?
あなたは、私が死んで、誰もあなたを責めなかったことに苦しんだよね。
あなたを痛めつけ、苦しめ続けたのは、自分自身。
彼女は傷心のあなたに寄り添い、慰め、とても献身的にあなたに尽くしたよね。
その甲斐あってか、あなたは彼女と再婚した。
でも、あなたは、今も私を忘れることはできない。
たまに、お風呂の鏡に私を見つけ、叫んだり、夢にうなされて苦しんだり。
私の髪の毛が、下着や衣服についていると騒いだり、夜中にあらぬ方向を見て、私の名前を呼びながら、勘弁してくれと泣いたりしたよね。
私は、死んでなお、今もあなたの傍にいる。
でもね、私は何もしていない。
だいたい、お化けなんて、人に何にもできないの。
少しは、あなたを恨んで、何か復讐してやろうとか思ったけど、何にもできないのよ。
心底がっかりしたわ。
私は、こうして未練がましく、あなた達の新婚生活を黙って見ていることしかできないの。
私は何もしていない。
だから、今までの怪奇現象は、あなたの心の弱さがすべて見せているものなのよ。
でも、私には、あなたにそれを知らせる術はない。
そろそろ、彼女は、そんなあなたにウンザリしているよ。
だって、彼女があなたの居ない間に、出会い系でメールしているの見たんだもの。
まったくもって、私の思い通りになったものだわ。
あなたは一生、私のもの。
作者よもつひらさか