窓の外、先ほどまでの雨風が嘘のように、月明かりがぼんやりと彼女の顔を照らしていた。
台風の目に入ったのか。僕はそんな疑問を抱いて、窓の傍に寄り月を見つめた。
真面目な彼女は、明日の交通機関の麻痺を見越して、こうして真っ暗なオフィスに泊まることにしたようだ。
先ほどまで、忙しくキーボードを叩いていた彼女の白く細い指は、何日前にしたのかわからないようなマニキュアの名残が爪先に残っている。若い娘が、オシャレすらできずに、会社に詰めていなくてはならないのは理不尽すぎるな。
彼女のデスクには、山のように積まれた資料が残されている。
「こんなの、どう見たって無理だろう。」
要領のいいやつらは今ごろ、彼女にすべての仕事を押し付けて、自分たちだけは、自由に有休を謳歌し、自宅の柔らかなベッドで眠っていることだろう。
僕は、眠っている彼女の横のデスクのパソコンを拝借して、静かに電源を入れた。
「はっ!」
香織は、突っ伏していたデスクから、顔を上げると、すぐに時計を見た。
「うわー、寝てた。ヤバい、もうこんな時間だあ。」
時計の針は、午前5時を指していた。
「プレゼン、全然原稿できてないよお。どうしよ。」
慌ててスリープモードになっているパソコンを起動する。
「えっ?」
デスクトップの真ん中に、これ見よがしに『プレゼン原稿』と名前のつけられてるフォルダを見つけ、香織は恐る恐るクリックしてみる。
「うっそ、できてる。なんで?」
眠っている間に仕事をしたとか、あり得ない。
しかも、その原稿は、緻密かつ、理路整然とまとめてあり、とても自分が作成したとは思えなかった。
結局のところ、その日は、台風による交通機関の麻痺により、会社に来れない者が続出し、企画会議は行われなかったが、日を改めて行われた会議では、彼女のプレゼンは大絶賛された。
それが災いしてか、彼女の仕事量はさらに増して行った。
真夜中、彼女は、ぼーっとパソコンの青い画面を見つめる。
「私、何やってんだろ。」
途方にくれた。
前任者の、高田主任が突然死し、その業務を受け継いだ時からこんな予感はしていた。
高田さんは、いつもこんな辛い仕事をしていたのか。
焦りと反比例して、瞼が降りてきてしまう。
このままでは、私も・・・。
その時、社内に火災報知器のけたたましい音が鳴り響いた。
「え?火事?」
香織が、慌てて廊下に飛び出すと、すでに煙は階段を這い上ってきており、階段を使うことはできなかった。もちろん、エレベーターもストップしていた。
「ど、どうしよ。」
外からは、サイレンの音が鳴り響いている。
「た、助けて!誰か!」
香織は慌てて、窓を開け、身を乗り出して助けを求めた。
火の手と煙は、すぐ後ろまで迫ってきている。
熱い。私、死ぬの?嫌だよ。だってこんな仕事に追われたままで死ぬなんて。
私の人生、何だったの?
香織は、意を決して窓枠に立った。
外には大勢の野次馬と、消防士の姿。
消防車からクレーンが伸びて、その箱の中にいる消防士が何事が叫んでいる。
何を言ってるか聞こえないよ。
でも、あと少し。あのクレーンに飛び移ることができれば私は助かる。
私がそう思ったとき、いきなり後ろから誰かに引っ張られた。
「危ない!」
振り向くと、そこには、よく知った顔があった。
「た、高田主任?」
「行っちゃダメだ。」
高田主任は、怖い顔で私にそう叫んだ。
もしかして、飛び移ったら落ちて死ぬ?
高田主任が私を助けてくれた。
もしかして、いつかのプレゼンも、主任がやってくれたの?
あの几帳面な文面には、見覚えがあったのだ。
でも、私は、まさか故人が仕事を手伝ってくれるなんてあり得ない、とその可能性を否定した。
「ありがとう、主任。」
香織の目から、涙が溢れた。
主任は、ずっと私を傍で見守っていてくれたのだ。
香織は、密かに彼に恋心を抱いていた。
しかし、彼は妻帯者なので、自分の心の中だけにその思いをとどめていたのだ。
「いいんだよ。お礼なんて。だって、ずるいだろう?僕だけが仕事で過労死して、他の人はのうのうと生きているなんて。」
「えっ?」
「僕だって心残りはある。仕事も一生懸命頑張って、これからって時に、あんまりだろ?」
高田は香織を見下ろすと、厭らしく笑った。
「君は、生きてるなんて、ズルくない?」
香織は意識が遠のいて行った。
ああ、そうなのか。主任は、私に死んで欲しかったのか。だから行っちゃダメだと。
「大丈夫ですかー!」
遠のく意識の中で誰かが呼ぶ。
そして、香織の体は宙に浮いた。
気が付くと、そこは真っ白な壁に囲まれた建物の中で、彼女はベッドに横たわっていた。
「香織!」
目を開けると、目を真っ赤にした両親がベッドの脇に居て、彼女の手を掴んで、よかったよかったと泣いた。
私、助かったんだ。
会社は、火災と共に倒産した。
香織は無職になったが、むしろ今までの会社という名の柵から解き放たれて、楽になった。
だが、火災現場で見た、高田の無念の表情が忘れられなかった。
香織は、病院を退院してすぐに、会社の跡地を訪れて、花を手向けた。
「高田さん、無念だったでしょうね。安らかに眠ってください。」
彼女は、目を閉じて手を合わせた。
香織が立ち去った後、その場所をある親子連れが通りかかった。
子供は、会社のあった焼け跡を見ながらこう言った。
「ねえ、ママ、あのおじさん、なんで花を食べてるの?」
香織は、その声を聞くと、小さな男の子があの焼け跡を指さしていた。
香織はその指さす先を見て驚いた。
「高田・・・さん?」
高田は、香織の手向けた花をむしゃむしゃと口の中へ放り込みながら、香織を見て笑っていた。
香織は恐ろしくなり、その場を走って立ち去った。
電車に飛び乗った香織は、思った。
きっと高田さんはあの場所を離れられないのだと。
そう思うと、胸が詰まった。
作者よもつひらさか