疲れ果てていた。泣きたくなるような、青い空と海。どちらにしても吸い込まれそう。このまま空と海を渡る風になれたらどんなに良いことだろう。最後に見る風景としては申し分ない。
岩に打ち寄せる波は、私の体をバラバラに壊してくれるのだろうか。それとも、しくじって崖の木に引っかかって無様な姿になるのだろうか。どちらにしても、美しくない光景だ。
意を決して、私は、つま先に力を入れると、体を前に倒そうとした。その目の端に、もう一つの影が映った。その影も、私と同じように、ゆらりと身を崖から投じようとしていた。ああ、この人も自殺しにきたのか。男性らしい。どうやら、あちらも私に気付いたようで、はっとした顔をして、こちらに駆け寄ってきて、私の体を支えた。
「どうして?こんなはずじゃなかった。」
その男は、私の体を支えて抱きかかえると、大粒の涙を流した。
私より、だいぶ年上のようだった。年のころは、50代だろうか。
この人は何故泣いているのだろう。
その男は、慌てて涙を拭うと
「と、とにかく。若い女性が、自殺なんて馬鹿なことを考えるのはやめなさい。」
と毅然とした態度で私を立たせた。
その言葉を聞いて無性に腹が立った。
「何よ、自分だって自殺しようとしていたくせに。偉そうに説教なんてしないでよ。私のことなんて放っておいて!私のこと、何も知らないくせに!」
そう叫んだ。
するとその男は、とても悲しそうな顔をした。
「知っているよ。知りすぎるくらいに。」
その男は、呟いた。
何?この人。私のことを知っているなんて。ストーカー?私はあなたなんて知らない。
でも、私は、無性に懐かしい気持ちになった。
「とにかく、君は生きなくてはいけないよ。」
そう言うと、おもむろにスマートホンを開くと、どこかに電話をした。
しばらくすると、警察車両が崖の駐車場にたどりついた。
「じゃあね。もう死ぬなんて考えちゃだめだよ。」
そう言うと逃げるように立ち去ろうとした。
人の自殺を邪魔したうえに、自分だけ正義の味方気取りですか?
私がどんなに苦しんで、ここに来たのかも知らないくせに。
私は、悔しくて、その男の手を掴んだ。
男は、びっくりして振り向いた。
「お巡りさん、この人、自殺しようとしていました。」
私は、この自殺を邪魔して一人だけいい恰好して自分だけ自殺しようとしている男に、復讐した。
これで、おあいこよ。
私とその男は、警察車両に乗せられて、地元の交番で根掘り葉掘り関係を聞かれたが、まったくの初対面、関係があるはずもない。警察はどうやら心中を疑ったようだが、二人がまったく無関係なのを知ると、解放してくれた。二度と二人とも、バカな考えを起こさないようにと重々言い渡された。
同時に解放され、警察署を出る二人に気まずい空気が流れた。気がそがれてしまった。
私は、先日、上司との不倫関係にピリオドを打ったばかりだった。もうあの会社には戻れないし、彼の奥様に実家にまで怒鳴り込まれた私には、もう帰る場所もない。父親は、カンカンに怒って、私を勘当し追い出した。彼からは、奥様とはもう愛情は無く、別れてお前と再婚すると言われ、その言葉をずっと信じていた。だが、実際は違った。
彼が奥様と二人の娘とともに、幸せそうに街を歩く姿を見てしまったのだ。私は、彼を責めた。すると、彼は面倒くさそうに、この関係をずっと続けて行けばいいじゃないかと言った。
酷い。あんまりだ。
私は、日曜日のある日、彼の家を訪ねた。
それが彼の逆鱗に触れた。逆切れされた上に、奥様の前で土下座をしながら私とは別れるので許してほしいと言い謝った。それでも、奥様は、子供の前で修羅場をさらした私を許せなくて、今すぐに両親に合わせろと迫った。
今考えれば、あの時の私は異常だった。子供には何も罪もないのに、彼の家に押しかけ修羅場をさらし、彼の子供たちを泣かせた。人として、してはいけないことをしてしまったのだ。
結果、彼の心は完全に私から離れて、非道な行動を両親からとがめられ、居場所がなくなってしまったのだ。自己嫌悪に押しつぶされ、死のうと思った。
それなのに、このおっさんと出会ってしまったばかりに。
「じゃあね、元気で。」
男は、そう言って立ち去ろうとした。何が、元気で、よ。元気になんてなれるはずないじゃん。邪魔者がいなくなって清々した。もうあの場所はダメだから、違う場所で死のう。
私が無言で立ち去ろうとすると、腕を掴まれた。
「何?」
私は、めいっぱいその男を睨みつけた。
「まだ、死ぬ気でしょ?」
男は私の手を離さない。
「あなたに関係ないでしょ?」
「あのさ、死ぬ前に、美味いラーメンでも食べない?俺、良いところ知ってるんだ。」
私、なんでこんなところにいるんだろう。しかも、こんな年の離れたおじさんと。
「へい、お待ち!」
湯気の上がるラーメンが目の前に置かれた。不覚にもお腹が鳴った。
聞こえたのか、男が笑った。
「ここの、スープが絶品なんだ。さあ、奢るから、お食べ。」
死ぬためにあの場所に行ったのに、今、体が生きることを求めて目の前のラーメンを欲している。なんだか、バカバカしくなってきた。もしかして、これが狙いなの?
私は、あっと言う間にラーメンを平らげた。その様子を、男は嬉しそうに眺めていた。
「死ぬんじゃねえぞ。」
私は、そう言われ、思わず言い返した。
「お前もな!」
男はクスクスと笑った。
会計を済ませると、私が死ぬ気がそがれたのを確認して安心したのか、それじゃあと立ち去ろうとした。
「待って!」
私は、思わず呼び止めていた。
男は振り向いた。
「今度は、私に奢らせてください。」
私は、思わずそんな言葉をかけていた。どうしてかはわからない。ただ、このままこの人と別れるのが寂しかった。それに、この人は、またあの崖に戻ってしまうかもしれない。
だが、その人は、ゆっくりと首を横に振った。
「約束ですよ!先に死んだら許さないから!」
そう背中に叫ぶと、男は振り向いてとても悲しそうな顔をした。
「その言葉を二度も聞くとは思わなかったよ。」
そう謎の言葉を残して去って行った。
私は、職場を変え、一人暮らしを始めた。正直生活は苦しかったが、新しい生活の忙しさに、死ぬほど辛かった傷は癒えて行った。あの人のおかげだ。あの人、死んだりしてないかな。
せめて名前だけでも聞いておけばよかった。気が付くと私は、あの崖で出会った男のことばかり考えていた。
そして、数か月後、新しい職場で資格を取るために図書館に出向いたある日、偶然にもあの男と再会した。
「生きてた。」
私は、彼に微笑んだ。
男もびっくりしていたが、私の言葉に微笑んだ。
「何とか。」
私は、彼が生きていたことが嬉しくて、聞かれもしない近況を彼に怒涛のように伝えた。
一人暮らしをして、職場も変わったこと。変わった職場で介護の資格を取るために、図書館に来たこと。とにかく頑張って生きている姿を彼に見てほしくて、しゃべり続けた。私はこんなに元気になったから、あなたも生きて。その気持ちでいっぱいだった。
「名前、聞いてもいいですか?私は,蔵元咲。」
男は、微笑むだけで名前を教えてはくれない。
秘密主義なのだろうか。私は、何故か彼のことを知りたくてたまらなかった。
「どうして、あの時、死のうと思ったんですか?」
それにも答えてはくれなかった。
結局、彼のことは何もわからなかった。
だから、私は、こっそりと彼の後ろから図書館のカードを盗み見た。
貸出カードには、「北村 信二」と書かれていた。
北村信二さん。名前を知っただけで、こんなにも嬉しいなんて。
たぶん、これは恋なんだと思う。
「マジ?相手は名前しか知らない、50代のオヤジなんでしょ?」
「うん。」
私は、コーヒー店で太めのストローで薄くなったアイスコーヒーを啜った。
「あり得ないよー、だっていくつ歳違うと思ってんの?二倍以上生きてるんだよ?相手は。」
「そんなこと言っても、仕方ないじゃんね。好きなものは。」
「ほら、アレじゃない?プラなんとか効果ってやつ。極限の状態で出会った男女が出会ったら、そういうことあるらしいじゃん。」
「プラシーボ効果?それとも違う気がするけど。」
「絶対そうだよ。熱病みたいなもんだよ。」
「恋なんて、みんな病気みたいなもんじゃん。でも、一過性のものじゃない気がする。なんていうのかなあ。なんか懐かしい人に会った、みたいな?」
友人の由香里は男みたいにサバサバしていて、恋愛経験がそんなに豊富な感じは無い気がするが、恋愛に関しては妙に醒めた発言をする。趣味で小説を書いているようだが、どうやらホラー小説を書いているようで、恋愛には疎い気がする。
「それよりさ、咲にお願いがあるのよ。一緒に出版社についてきてくれない?」
「え?なんで?」
由香里は自分のリュックからやけに膨らんだ茶封筒を出して来た。
「これ、持ち込んで読んでもらおうと思って。」
「今時、原稿持ち込み?このIT時代に。」
「そうなのよねえ。この出版社、今時原稿用紙提出なの。最近は、ほとんどデータを送信するだけでいいってのにね。」
「でも、由香里、度胸があるよね。」
「こんなのはダメ元。当たって砕けろだよ。」
この根性が恋愛にも生かされればいいのだが、本人は全く色気なし。
表紙には、彼女のペンネーム「よもつひらさか」の文字が綴られている。
「ねえ、なんで『よもつひらさか』なの?なんだか男みたいじゃない。もっと女性っぽいペンネームにすればよかったのに。
「『よもつひらさか』は、イマムラ大先生の傑作短編集だよ!知らないの?私、この本が大好きで、絶対にペンネームはこれにしようって思ってたんだから。」
それから、イマムラ先生とやらが、どんなに偉大かを延々と聞かされた。
そして、私は渋々、彼女に着いて行き、出版社へと向かった。
運命とは、こういうことを言うのだろうか。その出版社で私たちを迎えてくれたのは、誰あろう、彼、北村信二であった。
「驚いた。こんなことってあるんだね。」
彼は、戸惑ったような曖昧な笑顔で私に対峙した。
どうして彼は、私をそんな目で見るのだろう。もしかして、迷惑なのだろうか?
彼は由香里から原稿を受け取ると、結果は追って知らせますと彼女に名刺を渡した。
私には名刺をくれなかったが、私は彼女に頼んで彼の携帯電話をメモさせてもらった。
「それにしても、運命って本当にあるのかもねえ。」
由香里に彼が好きな人だと伝えると、ひとしきりそう言いながら、俄然この恋の応援モードになった。
私は、さんざん迷ったが、黙って連絡先を手に入れたことを詫びつつも、彼に会いたいと何度も伝えた。だが、彼はなかなかウンとは言ってくれなかった。
そして、私はまた由香里に着いて行き、彼の出版社を訪ねていた。結果は、彼女の原稿はボツ。理由は突飛な展開であるが、詰めが甘く戦闘シーンが上手く描けていないとのこと。
「全く!私は戦闘シーンを書きたいんじゃなくて、ホラーを書きたいのに。」
「仕方ないじゃない。応募がホラーじゃなくて、SF戦闘ものなんだから。」
不満そうな彼女とは対照的に、私は、また彼に会えてうれしかった。そして、再三のメール攻勢に押されて、ついに彼が私と会う約束をしてくれたのだ。
それから、彼は戸惑いながらも、私と会うようになってくれた。何故彼が戸惑っているのか。理由が知りたかった。
「ねえ、北村さん、北村さんは私のこと、嫌いですか?」
北村は困り顔になった。
「嫌いではないよ。」
「じゃあ、好き?」
北村は黙っている。
「私は、北村さんが好き。年下すぎる女は嫌ですか?」
「そうじゃないよ。」
北村の顔が苦しそうにゆがんだ。
「ごめんなさい。こんなこと言って困らせて。」
俯く私の頭を撫でてくれた。
「俺は、人を愛することが怖いんだよ。」
きっとそれは、自殺しようとした理由なのだろう。
「好きな人が居たんですか?」
「うん、凄く好きな人が居た。」
私は唇を噛む。過去のことに嫉妬しても仕方がない。
でも、きっとその人が今も北村さんの心の中に棲んでいるのだ。
だから、私の入り込む余地なんてないのだ。
そう思うと、胸が苦しくなって、涙がこぼれた。
泣いている私を、彼の腕が抱きしめた。
あまりのことに、私は驚き、彼を見上げると、彼の唇が私の唇に重なった。
それだけでもいい。少しだけ、私のことを見てくれればそれでいいから。
だから、さよならは言わないでください。
傍に置いてくれるだけでいいから。
そんな曖昧な関係の時間が、どれだけ過ぎたことだろう。
彼が別の支社に転勤になることになった。
私はショックで、着いて行きたかったけど、言い出せなかった。
私も、人を愛することが怖い。でも、もう遅すぎたのかも。
「着いてくる?」
そんな私に、彼は信じられない言葉を投げかけて来た。
私は嬉しくてまた泣いてしまった。
「でも、約束して。もう、何があっても、死ぬことを考えないって。」
彼は、真顔で私にそう言った。
もうそんなことを考えるはずない。でも、彼があまりにも真剣なので私は「はい」と答えた。
すると、彼は相好を崩して私を強く抱きしめた。
それからの2年間は、私にとって一番幸せな時間だった。
大好きな彼と同棲できたのだから。
そして、ある日、彼はあらたまって私に話があると言った。
プロポーズだった。
シンプルな結婚指輪を渡され、結婚式はできないけど、と彼は照れくさそうに笑った。
「たぶん俺のほうが先に逝くと思うけど、命ある限り、君を幸せにするから。」
「そんなこと、わからないじゃない。約束ですよ!先に死んだら許さないから!」
「君は無茶を言うね。」
彼は、苦笑いした。
その二年後、彼は癌を患って死んだ。
私は、一生分の涙を使い果たすほど泣いた。
彼が死んで七日後、私の元に、一通のメールが届いた。
それは、彼からだった。
恐らく死ぬ前に書いて、しばらく経ってから送信されるように予約していたのだろう。
「このメールを読むころには、俺はたぶん死んでいると思う。君は、さよならを嫌うから、今、本当のさよならを言うために、この文章を書いている。
きっと君は、出会ったときに、何故俺が死のうとしていたのかが、ずっと気になっていたのではないかと思うので、正直に話します。
これからする話は、俄かに信じられないと思うが聞いてほしい。
俺が、死のうとしていた本当の理由。
それは、君と出会わないようにするためだった。
君が失恋して、俺と出会うのは、実はあの崖ではなくて、ある居酒屋だった。
そこで、君はやけになり酒を浴びるように飲んで、死にたいと繰り返していたのを、居合わせた俺が慰めたところからが、俺たちの交際の始まりだった。
もちろん、今の君の記憶とは異なるので、君は、俺が何を言っているのかさっぱりわからないだろう。
あの崖で俺たちが出会う前に俺はタイムスリップした。
俺が癌で死んだ日、君は大いに悲しんで、すぐに俺の後を追って死んでしまったんだ。
俺は、魂になってから、その様子を見ていたから、止めることもできず、ただ見ていることしかできなかった。辛かった。結局、俺は、君を不幸にするために出会ってしまったのだ。
そんな絶望しかなかった。でも、君が、もし俺と出会わなければ?
君は、もしかしたら、死なずに済むかもしれない。
そう考えた俺は、黄泉の国からの迎えに無理を言って、君に出会う前に一瞬だけタイムスリップして死期を早めて俺たちの出会いを無かったことにしようと考えたんだ。
つまり、会う前に、君にさよならをしようとした。
ところが、運命には逆らえないようにできているんだね。
俺は、君と半ば強制的に出会わされてしまった。
君の死期まで早めてしまうとも知らずに、俺は愚かだった。
だから、君と人生が交錯しないように、努めて離れようとしたが、それは無駄なことだったと今知った。
俺は、君と過ごした五年間、すごく幸せだった。
君を最後まで幸せにしてあげることができなくてすまない。
約束を果たせなくてごめん。
だから、君は絶対に死ぬな。
約束してくれ。
これで本当のさよならだ。
今まで、本当にありがとう。」
この話が、本当のことなのか、彼の妄想なのかはわからないが、今までの彼の不思議な言動を考えると、頷けることもある。
「バカね。私が死ぬわけないでしょう?だって、私の中には。」
そうつぶやきながら、私は自分の中に宿った小さな命をお腹の上から撫でた。
作者よもつひらさか