中編6
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ガシュイン様

朝、いつものごとく主人と娘を送り出した後、玄関先でなにげなく空を見上げると、いつの間にかどす黒い雨雲が、零れた墨汁のように気味悪く広がっている。

しばらく眺めていると、冷たい滴が、ポツリポツリと額を濡らした。

どうやら、一雨来そうだ。

慌てて門の横にある郵便受けを覗く。

相も変わらず、ダイレクトメールやチラシが数通入っている。

中から取り出そうとした拍子に、ストンと小さな茶封筒が落ちた。

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─なにかしら?

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拾い上げて、表書きを見るが、なにも書かれていない。

封を破り、中を見ようとしたら、

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「みさえさぁぁぁん…みさえさぁぁぁん…」

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義父の呼ぶ声がするので、家に戻った。

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義父は今年、八十になる。

二、三年前までは元気だったのだが、去年、義母が亡くなってからは急に衰えだし、今は、奥の和室でほとんど一日中、寝たきりだ。

最近は少々ボケてきているようで、奇妙なことをよく言うようになってきている。

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「みさえさん、実はな、昨晩また、天井の辺りに『ガシュインさま』がひょっこり現れて、近々こっちにうかがうと言ってたんじゃ。

『ガシュインさま』がここに来んしゃるのなら、わしもそろそろ、あっちの世界に行かんといかんのかのう……まだ、死にたくないんじゃが……」

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そう言って、床の中で仰向けの義父は、私の顔をじっと見ながら、頬の痩けた顔を寂しそうに歪めた。

最近は食欲も無くなってきていて、胸にはくっきりとあばら骨が浮いてきている。

手足は枝のようだ。

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『ガシュインさま』というのは、最近、義父が見る妄想の人物だ。深夜、天井の辺りに見えるようで、高僧のような派手な着物を羽織っており、顔は白粉をしたように真っ白だそうだ。

なんでも、普段はチベットの山奥に住んでおり、姿が見える前には必ず、ガムランの荘厳な音色がどこからともなく聞こえてくるということだ。

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「お義父さん、そんな悲しいこと言わないで、早く元気になってくださいよ」

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私は義父の枕元に薬とお粥を置くと、襖を閉じて、リビングに戻った。

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椅子に座ると、テーブルの上にさっきの茶封筒がポツンとある。

なんの変哲もない、どこにでもある茶封筒。

中には、紙が入っているみたいだ。

しっかりと、封がしてあるので、ハサミで切り、中から出す。

出てきたのは、一枚の折り畳まれた白い便箋だ。

開いてみる。

紙の上の方に黒いインクで、ただ、こう書かれていた。

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ホンジツ、カナラズ、ウカガイマス

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ミミズの這っているような弱々しい文字だ。

ところどころが滲んでいる。

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─何これ?

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─本日、必ず、うかがいます……?

誰が?

私には心当たりがないから、主人か娘の知り合いだろうか。

いやいや、今どき、こんな回りくどいことをしなくても、ラインやメールで充分に済むことだ。

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じゃあ、いったい、これは?

誰かが家を間違えたんだろうか。

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わけが分からなくなったので、とりあえず思考を停止して、部屋の掃除や洗濯を始めた。

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家事を一段落を終えて、昨日の晩御飯の残りをおかずに、居間で昼御飯を食べていると、突然呼び鈴が鳴った。

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ポォォォォォォォォンンンンンン!……

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─誰だろう?

宅配便かしら?

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ポォォォォォォォォンンンンンン!……

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インターホンを外し、耳に当てる。

と同時に、横のディスプレイを見たが、薄暗い表の様子が見えるだけだ。

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「どちら様でしょうか?」

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恐る恐る尋ねてみたが、何の返事もない。

私は受話器を戻して玄関まで歩くと、ドアチェーンを付けたまま鍵を開けて、隙間からそっと外を覗く。

驚いたことに、先ほどまであんなに降っていた雨はピタリと止んでおり、その代わり、まるで夕暮れどきのように、辺り一面が朱色に染まっている。

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玄関ポーチと門付近に、目をやったのだが、誰もいないようだ。

そしてドアを閉めようとしたときだった。

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ゴォォォォォ…………ンンンンンン………

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ゴォォォォォ……ンンンンンン………ゴォォォォォ……ンンン

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どこからか聞き慣れない打楽器の音色が、微かに聞こえてくる。

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ゴォォォォォ……ンンンンンン………ゴォォォォォ……ンンン

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単調なのだが、心の奥深くに染み込んでくるような、そんな不思議な鐘の音が、何度も何度もリフレインしている。

ふと、視線を玄関ポーチから先に移すと、門の向こう側に、何か黒いモヤモヤしたものが見える。

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─何だろう?

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目を凝らして見るが、やはり実体が掴めない。

何と言ったらいいのか、陽炎のようにゆらゆらとしながら、ゆっくりと垣根越しを移動しだした。

そして、しばらくすると、それは周りの景色と同化しながら、いつの間にか消えてしまった。

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居間のテーブルに戻り、もう一度、便箋を見てみる。

表裏と、しげしげ眺めてみるが、奇妙な文以外は何も書かれていない。

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夜、主人と娘に便箋の件を尋ねたが、案の定、わからない、という返事だった。

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「誰か、家を間違えたんじゃないのか?」

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と言いながら、主人は笑った。

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家を間違えた……。恐らくそうだろう。

いや、そうとしか、考えられない。

私は無理やり自分を納得させようとしたのだが、やはり、心のどこかに何か引っ掛かるものが残った。

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夜、寝室のベッドの上で仰向けになり、暗闇の中、じっと天井を眺めていた。

なぜだろう。眠れない。

時刻は既に十一時を回っていた。

主人は横でイビキをかいている。

すると……

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ポォォォォォォォォンンンンンン!……

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いきなりまた、呼び鈴が鳴った。

心臓の拍動が一気に上がる。

思わず、主人を見た。

熟睡しているのか、全く気がついていない。

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ポォォォォォォォォンンンンンン!……

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また、鳴った。

私はガウンを羽織ると、主人を起こさないようにソロリソロリと寝室を出て居間に行くと、壁にあるインターホンの受話器をゆっくりと外す。

と同時にディスプレイを見た途端、背中を冷たいものが走った。

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映りの悪いテレビのような画面いっぱいに、白粉を塗ったように真っ白な男の無表情な顔が映っているのだ。

しかも、頭には紫の派手な柄の三角頭巾をかぶっている。

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「あの……ど……どちら様でしょうか?」

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震える声で、尋ねてみる。

すると、男はゆっくり口を開いた。

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「イマ、ウカガイマシタ」

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私は慌てて受話器を元に戻した。

同時に画面が真っ暗になる。

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息苦しいくらいに強烈な動悸がしていた。

少しめまいを感じ、テーブルの椅子に座る。

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─いったいあれは、何だったの?

人間?

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「みさえさん」

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突然、背後から声がするので、驚いて振り向くと、着物姿の義父か不安げな表情で立っている。

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「ガシュインさま、ガシュインさまが、来んしゃった」

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「違います。違いますよ!誰かが家を間違えただけですよ!」

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「ガシュインさまじゃあ……ガシュインさまに決まっとる。とうとう来んしゃったんじゃあ」

玄関の方に行こうとする義父を、必死に止めながら、私は何度も何度も、違う違うと、叫び続けた。

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すると玄関の方から、ガチャリ、というドアの開く音がした。

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─え?何で?鍵は掛けたはずなのに……

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同時に、どこからかあの不思議な音色が聞こえてくる。

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ゴォォォォォ…………ンンンンンン………

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ゴォォォォォ……ンンンンンン………ゴォォォォォ……ンンン

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しばらくすると、居間のドアがゆっくり開き始めた。

私も義父も、その場で立ち尽くしたまま、ドアの向こう側をただ見ていた。

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薄暗い廊下には、紫の派手な柄の三角頭巾を羽織り、同じ柄の着物を着た男が、合掌しながら立っている。

微かに体全体から淡い光が放たれているようだ

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すると、義父が、まるで磁石に引っ張られるように、ふらふらと男の方に歩きだした。

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「ガシュインさまぁぁ……ガシュインさまぁぁ」

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私は義父を止めようとするのだが、まるで金縛りにでもあっているかのように、全く体が動かず、目の前で起こっている不思議なことを、ただ眺めているだけだ。

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男の体から放たれる白い光は、ますます強くなり、終いには、肉眼では正視できないくらいになっている。

義父はよろよろと歩きながら、光の中に進んでいき、とうとう見えなくなってしまった。

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次の瞬間、辺りは再び暗闇となり、男も義父の姿もなくなっていた。

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そしていつの間にか、あの不思議な音色も消えてしまっていた。

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翌朝、義父は、布団の中で冷たい骸になっていた。

ただその顔は、とても安らかなものだった。

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