僕は階段が苦手だ。
左目をほぼ失明してからというもの、距離感や遠近感、高低差というものがめっぽう掴みにくくなった。その最たるものが階段だ。
特に、一色で統一された暗がりの階段なんて最悪だ。そうでなくても慣れない場所では、手すりにつかまりながらへっぴり腰で上り下りしなければならない。
オイちゃんがそんな僕を見て「おじいちゃんか」と笑うのに、腹は立つものの我ながら納得できるのが情けない。
それに、階段が苦手な理由はもう一つある。
上階と下階という、限りなく近しいけれど確実に違う空間をつなぐのが階段だ。
だからだろうか。僕の左目にしか映らない奇妙なものたちが、階段には多く蠢いている。
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僕の通う大学には「踏み外しの階段」と呼ばれる、何が起こるかわかりやすいネーミングの階段がある。
その階段は構内のほぼ中心部、学食の裏に建つ古いサークル棟の中にあった。
三階建てのサークル棟に階段は一つだけで、それぞれの階に上がるには十六段の階段を上らなければならない。八段上がって踊り場、また八段で次の階だ。
その、一階から二階へ上がる途中、踊り場から数えて四段目の階段を、なぜか皆上りでも下りでも踏み外すのだという。
上りの場合は、四段目に掛けたはずの足が空ぶったようになり、つんのめったり向う脛を打ったり。
下りの場合は、四段目に置いたはずの足が空を切り、ひどい時には尻もちをつく。
特に四段目の階段が見えにくいとか滑りやすいとか、そういうことはないらしい。理由もわからず、長年多くの学生がこの階段で恥をかいてきた。
しかし、問題なのはこの四段目だけらしい。四段目さえ避ければ、つまり一段飛ばして上り下りすれば、被害にあわなくてもすむそうだ。
なので、サークル棟を使用する学生が先輩たちからまず教わることは、トイレの場所でも掃除の仕方でもなく、
「踏み外しの階段には気をつけろ」
ということらしい。
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大学二年生の秋の話だ。
秋は祭りの季節だ。僕の学校でも例に漏れず、学祭が催される。
初めて参加した時は、その規模の大きさと賑やかさに驚いた。当たり前だが、高校までの文化祭とはわけが違う。
構内の真ん中を走る大通りに模擬店が立ち並び、学食前の広場に設けられたメインステージでは朝からカラオケやミスコン、各サークルの発表、女装コンテストなんてものも開催され、始終賑やかだった。
一年生の時は特に役目もなく、地域のお祭りに参加するように学祭をただ楽しんでいればよかったのだが、二年生になれば話は変わる。
僕の所属する福祉学科では、毎年二年生は模擬店を出し、その売り上げを忘年会の費用に当てる、という伝統があった。
学科の学部生と院生、教授たち百名近くが集う忘年会は、低予算に抑えるため学食で毎年行われていたが、この学祭の売り上げの多寡によって提供されるオードブルのグレードが変わるシステムだった。オードブルの内容があまりにしょぼいと「この学年はへっぽこ揃い」というレッテルを貼られてしまう。
一ヶ月前から学祭委員を中心に模擬店の内容を決め、役割分担を決め、準備を進めてきた。僕はお世辞にもクラスの中心になるタイプとは言えないので、委員に言われたことを忠実にこなすだけだったが、それでも学祭というのは当日だけでなく準備期間も楽しいものだ。
学祭当日は、雲ひとつない快晴だった。
僕は、十二時〜十五時のシフトで調理に入る予定になっていた。ちなみに、僕らの模擬店は祭りの定番、たこ焼きだ。
十二時の少し前に持ち場に向かうと、昼時だからだろう、なかなかの盛況ぶりだった。あの賑わいの中に飛び込むのは勇気がいる。
モタモタしている僕の姿を見かけたクラスメートが、怒鳴るように声をかけてくれた。
「キタくん! ちょうどいいところに。ガスボンベの予備取ってきて、サークル棟にあるから!」
「こいつバカだから、自分の部室に置き忘れてやがんの!」
「うるせー。キタくん悪いけど、大至急お願い! もうボンベが死ぬ!」
「まだ死なねーよバカ。キタくん、ゆっくりでいいから!」
二人は口論しながらも的確に手を動かしており、淀みなくたこ焼きを回転させている。
あいつら、たこ焼き屋で練習でもさせてもらったのか? 僕はあんなにできる自信はない。
「大丈夫ですよ」
まるで僕の心の中を読んだように後ろから澄んだ声をかけられ、僕はビクッと肩を震わせた。
「ユタカさん…」
恐る恐る振り返るとそこには、一人の女学生が切れ長の目を細めて微笑んでいた。
「彼の部室の鍵を預かりましたので、私も一緒に行きます。ゴミ捨てのついでなので」
「ユタカさんも、今からシフト?」
「私は午前中だったので、このゴミ捨てで上がりです」
僕達はパンパンに膨らんだゴミ袋を一つずつ持ち、サークル棟へ向かった。
学食とサークル棟の間にあるゴミ捨て場でゴミを手放しながら、僕は尋ねた。
「さっきの、『大丈夫』って、どういう意味?」
「あぁ。たこ焼きって難しそうで実は簡単ですので、すぐコツを掴めますよ、ってことです。キタさん器用そうですし」
「あ、ありがとう…」
「焼くのに少し不安があるようだったから、ちょっとしたお節介でした。余計なお世話だったらごめんなさい」
「いやいや、全然そんなことないから」
首と両手を激しく振りながら、僕の後ろにいたはずのユタカになぜ僕の考えていることがわかったのだろうと、内心首を傾げた。僕はもしかしたら、自分で思っているよりも感情がダダ漏れなのだろうか。
「ならよかった」と、ユタカはまた目を細めた。
ユタカは外見はクール系の美人だが、先ほどのように気遣いも気配りもでき人当たりも良い。しかしどこか謎めいた、不思議な印象を持たせる女子だった。
学食を挟むからだろうか、サークル棟の入り口までくると、広場の喧騒が少し遠ざかって聞こえる。
「部室は、二階の一番奥だそうです」
棟内に入ると中は薄暗く、玄関ホールの正面には、両脇に部室が三つずつ並ぶ廊下が続いている。右手の壁にはサークルの名前がそれぞれ書かれた集合ポストがあり、その隣に上階へ続く階段があった。
階段はホール以上に薄暗く、僕は内心ウンザリしながら手すりをしっかりと掴んだ。
「そういえばキタさん、知ってますか? 踏み外しの階段の話」
「聞いたことはあるよ。え、ここだっけ? サークル棟?」
「はい。サークル棟の一階と二階の間の階段です。踊り場から、四段目」
噂の階段が、踊り場まで上った僕たちの目の前にあった。
サークル棟を利用する学生であればすぐに教えてもらえるという問題の四段目を、残念ながらなんのサークルにも所属していない僕とユタカは知らなかった。
「…踊り場から四段目って、踊り場を一段目と考えるってことかな?」
「普通はそんなことないですけどねぇ」
「ていうか、そんなに危険な階段なら看板でも印でもつけて、わかりやすくしとくべきだろ」
「以前それをした方が、自宅の階段から落ちて大怪我をしたそうで。それ以来、階段の祟りを恐れて皆当たらず障らずなんだとか」
僕は大きくため息をついた。
階段に何がいるかもわからないが、何かがいる可能性はある。幽霊、妖怪、思念と呼ばれる類のものは確かにあることを、僕は知っている。
長い前髪を上げて、それら怪異を見ることのできる左目で階段を見れば、すぐどの段に何があるのかがわかるのだろうが、あまり気は進まなかった。なによりユタカの目もある。
本音を言えば、ユタカ一人に部室まで行ってガスボンベを取ってきてほしかった。しかしそれでは、我ながらあまりにも情けなさすぎる。
「よし。じゃあ、三段目と四段目を二段飛ばしにしよう。ユタカさんできる?」
ユタカは笑いながら「はい」と頷いた。
「いらぬ怪我をしたくないですもんね」
僕は手すりをいつも以上にしっかりと掴み、見える右目に神経を集中させてゆっくりと、なんとか階段を上りきった。
僕とは対照的に、ユタカは涼しい顔をしている。視力の差はもちろんだが、なんだか足の長さも関係しているような気もする。隣に立つ、あまり身長の変わらないユタカのウエストの位置をそっと確認し、僕はちょっと悲しくなった。
一番奥の部室をユタカが開けると、目につくところにガスボンベが二袋置かれていた。これのことだろう。ユタカは当たり前のように一つ持ってくれた。
さて。
上りがあれば、下りがあるのが当然だ。
「あ」
階段を前にして、僕は少々わざとらしく立ち止まった。
「ごめん、靴紐ほどけちゃった。ちょっと先行ってて」
ユタカに二、三歩遅れたのを確認し、僕は前髪を上げた。
階段は下りのほうが怖い。荷物を片手に手すりを持ち階段を二段飛ばしにするのは、別の意味で怖かった。
もう、見てしまおう。
何がいようと見るだけなら、階段を転げ落ちるよりはきっとましだ。
左目をゆっくり開けると、中程の段にうずくまる、小さな人影のようなものが見えた。
それは二十センチほどの、杖を持った老人に見えた。しかしそれにしては、衣服を身につけていない肌は緑色でトカゲのような鱗があり、異様に飛び出した目は黄色く爛々とし、杖を握る指は三本しかない。頭髪はほとんどないくせに、顎の下には白く長い髭のようなものが伸びていた。
奇妙なトカゲ老人が、手にした杖をクルリと回す。首を長く前に突き出し歯を剥き出しにした。
笑っている。
そう気づいたのは、トカゲ老人の持つ杖の先が、今まさに着地しようとするユタカの足に近づいたからだった。
あの杖で、足を払おうとしている。
階段を踏み外させようとしている。
「あ…!」
危ない! そう叫ぼうとした僕の口は、しかし次の瞬間「あ」の形で固まってしまった。
真珠のような飾りがついた、華奢で上品な青いパンプスが、トカゲ老人の杖を爪先で蹴飛ばしたからだ。
目を見開いてパンプスの主を見定めようとしたトカゲ老人は、顔を上げ切る前に杖と同じかそれよりも強く、同じ足に蹴り飛ばされた。勢いよく踊り場の壁に激突する。
ベチョ、という感じで踊り場に落ちたトカゲ老人は、ポカンと口を開けて数回顎で呼吸をすると、そのまま動かなくなった。
「キタさん、どうしました? あら」
呆気にとられる僕を振り返り、青いパンプスの持ち主であるユタカは微笑んだ。
「前髪、上げたほうが素敵です。いつもそうしてればいいのに」
「あの、今…」
「はい? あ、ここってもしかして、噂の四段目ですかね?」
ユタカは足元を見てそう言うと、カコン! と小さくヒールを鳴らした。
「何にもないみたいですね。踏み外しの階段って、ただの噂だってことでしょうか」
また、何事もなかったかのようにニコリと微笑んだ。
今のは見間違いだろうか?
いや、あのトカゲ老人はまだ踊り場に横たわったままだから、見間違いではない。確かにユタカが、あいつを蹴飛ばした。
では偶然、ユタカの足があのトカゲ老人とその杖にぶち当たったのだろうか。
僕は、「そう」いったものに触れられたことは、ないのだけれど。
「キタさーん。早く行かないと、お店が困っちゃいますよー」
踊り場まで下りたユタカが、まだ一段も下りていない僕を何食わぬ様子で急かす。
その足元では、トカゲ老人がグリグリと踏み潰され、手足を変な方向に曲げていた。
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学祭は滞りなく終わった。
僕たちの模擬店は大盛況で、最終的には昼過ぎに材料がなくなり閉店にしたくらいだ。
僕がたこ焼きを焼いたのは正味一時間もないくらいだったが、多分三時間みっちり続けてもコツは掴めなかったと思う。早く終わってホッとした。
売上金を学科の主任教授に上納すると、「よくやった」とお褒めの言葉をいただき、そのうちのいくらかを打ち上げに使うようにと返してくれた。もともと打ち上げは予定されていたが、予想外に手出しが少なくて良いことになり、僕たちはお互いを称えあった。
打ち上げは市街地の居酒屋で行われた。皆疲れているからか、酔いがまわるのが早い。
僕は酒にあまり強くないのでチューハイとウーロン茶を交互に飲んでいたのだが、そのためか妙にトイレが近かった。三度目に自然に呼ばれて座敷を降りた時だ。
「キタさん」
声をかけられ、突然のことに僕はビクッと肩を震わせた。
「…ユタカさん」
「キタさん、私が声をかけると絶対びっくりしますねぇ」
目を細めて笑いながら、ユタカが後ろに立っていた。
「今日はお疲れさまでした」
「ユタカさんも… あのあと、すぐ帰ったの?」
「いいえ、いろいろ見て回りました。せっかくの学祭ですから」
あのあと。
ユタカがトカゲ老人を蹴飛ばし踏みつけた、そのあと。
僕には、ユタカがひどく恐ろしく思えた。左目を慌てて髪で隠し、その上で彼女を見ないようにし、そして一言も会話をせず模擬店まで戻った。
ユタカはそんな僕の態度を訝しむ様子も見せず、「では、これで」とガスボンベを置いてその場を離れたのだった。
「たくさん売れてよかったですね」
「そうだね」
「ところで今日、オイさんは来てないんですか?」
「オイちゃんは、野球サークルの模擬店を手伝ってて、打ち上げもそっちに行ったんだって。事前の買出し係だったんだよ」
「あぁ。そうだったんですね」
あの時は恐ろしいと感じたユタカだが、今こうやって目の前にすると、すべてはただの偶然だったような気がしてきた。
ニコニコと微笑みながら僕と会話するユタカは、他のクラスメートの女子たちとなんら変わらないように見える。
なんだか、怖がっていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「ところで、なんでユタカさんは僕に敬語なの? オイちゃんにもだけどさ」
「だって、キタさんもオイさんも年上じゃないですか。あ、浪人生だったって言ってるわけじゃないですよ」
「それはわかるけど。でも、他の奴らはもう皆タメ口だよ? そんなのもう気にしなくていいよ」
「そういうわけにはいきません。うちは、そういうことに厳しい家だったんです」
ユタカは真面目な顔をしてそう言うと、「キタさんこそ」と続けた。
「私のことを、さん付けで呼ぶじゃないですか。なんかよそよそしいです」
わざとらしく片頬を膨らますのが、かわいい。僕は少しドキドキした。
「だって、なんか照れない? じゃあなんて呼べばいいの?」
「呼び捨てでいいですよ」
「いやぁでも、彼氏でもないのにさぁ」
調子に乗った僕は、ユタカの次の一言に凍りついた。
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「全然構わないですよ、どうせあだ名ですから。ーー本名だったら、なかなかそうはいきませんけどね」
そしてユタカは、いつか見たあの笑い方をした。口の端を左右にニィっと引いた、どこか妖しげな笑み。
あの時と同じように、僕の背筋を氷が伝う。ユタカの顔を見ていられなくて目を伏せた。
彼女の足元が目に入る。トカゲ老人を蹴飛ばし、踏みつけたあの足。
青かったはずのパンプスは、白に変わっていた。赤い花の刺繍が付いている。
「靴、変えたの?」
思わず口をついて出た。無意識に話題を変えたかったのかもしれない。
しかし、
「あぁ。あれ、なんか汚れちゃったので、捨てちゃいました」
と、事も無げに言ったユタカに、僕は今度こそ全身が凍りついた。
「なんで汚れたの?」とは、とても訊けなかった。
「それじゃキタさん、次からは呼び捨てにしてくださいね。改めまして、これからもよろしくお願いします」
少しおどけてそう言ったユタカは、穏やかな微笑みをたたえるいつものユタカに戻っていたが、僕は小さく「わかりました」と答えるのが精一杯だった。
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結局、ユタカのあの行動が故意なのか偶然なのか、そもそも踏み外しの階段にいたトカゲ老人が何者だったのか、見ただけの僕にはわからない。
ただあれから、踏み外しの階段を踏み外す人はいなくなったそうだ。
階段の怪談は、これにておしまい。
作者カイト