尾崎家の四姉妹といえば才色兼備ぞろいの姉妹として、近隣で知らない者はないほどだった。
長女の早苗は、成績は常にトップクラスながら柔道二段と文武両道。人当たりも良く、なんでもそつなくこなす優等生。
次女と三女は双子の姉妹。顔形は瓜二つだが、程よく日に焼けているのが姉の真依、妹の芽依は雪のように白い肌をしていた。真依は陸上の国体選手、芽依は美術部で何度も表彰される、それぞれその道の期待の星だった。
四女の美穂は美人揃いの姉妹の中でも際立って美しく、まだ幼さは残るものの将来が楽しみだと誰もが目を細めていた。
四姉妹は、母と祖母、叔母の七人で、町を見下ろす小山の麓の大きな屋敷に暮らしていた。
父も祖父も、家の中に男は一人もいない。
実は四姉妹だけでなく尾崎家そのものが、いい意味でも悪い意味でも人の口の端に上る存在だった。
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ある人は、
「女性だけであれだけ立派に家を守り栄えさせ、大したものだ」
「あそこはできの良い子しかできない」
と言う。
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またある人は、
「あの家は男殺しの家だ。あそこに婿に入ったら必ず早死にする」
「あの家は狐憑きだ。嫁に取ったら乗っ取られるぞ」
と言った。
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悪い噂に、根も葉もないわけではなかった。
尾崎家は女系で男の子は不思議なほど産まれず、少なくとも四姉妹の父も祖父も曽祖父も婿養子であった。それに曽祖父は八十半ばまで長生きしたものの、祖父と父は早くに他界していた。
それ以前にもそういう傾向はあったようで、「尾崎に婿入ると命を削られる」とは昔からある陰口だった。
しかし一方で、そのような境遇であったからこそ、女性たちが奮起し協力しあって家を盛り立てていったともいえる。実際、尾崎家の女性の多くは手に職を持ち、経済的に自立していた。できの良い子供達は、そのような大人の姿を身近に見て育った結果だろう。
また、嫁に取ったら家が乗っ取られるというのも正しい話ではない。四姉妹のもう一人の叔母は結婚して隣町に住んでいるが、夫を立て子供たちを慈しみ義両親を敬う、絵に描いたような良妻賢母である。
尾崎家と実際に付き合いのある人々は、一様に世の噂を笑い飛ばした。
「そんな噂、やっかみだよ。実際付き合ってみたら、変な人たちじゃないのはすぐわかる」
と。
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では、尾崎家にはなんの秘密もないのかといえば、それがそうでもない。
ある意味、尾崎の家を取り巻く黒い噂は、すべて的を得たものであった。
曰く、男殺し。
曰く、狐憑き。
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尾崎邸の裏手にある小山は、地図に載る正式名称とは別に、地域の人々から「七狐山(ななこやま)」と呼ばれていた。
その昔、狐の家族がこの山を縄張りにしており、山の名前はそれにちなんでいるのだという。
古い古い時代からその土地では、狐は田畑を荒らす鼠を退治してくれる益獣だった。人々の狐に対する素朴な感謝は、やがて豊作を感謝、祈願する心に変わり、次第に山に棲みつく狐たちを稲作を助ける神の使い、あるいは神そのものとして崇めるようになった。
思い、念とは不思議なもので、ただの石ころでも拝まれ続ければ力を持つようになる。好奇心旺盛で賢い獣であれば、なおのことだ。
山に棲む狐たちは幾度も代替わりしたが、人から神と見なされることは変わらず、やがてそれに応えるように少しずつ、通常の獣ならざる力を持つようになった。
人語を解し話せるようになり、やがて本来以外の姿にその身を変じられるようになっていった。
狐たちはオスでもメスでも、なぜか決まって女に化けた。それも必ず抜群の美女だ。元来いたずら好きの狐たちは、自分たちに骨抜きになる人の様子を面白がり、化かしてからかうことも多かった。
しかし狐とは、情に厚い獣でもある。狐と知らず、あるいは知ってもなお自分を恋う相手と触れ合ううちに、やがて本当に人と添い遂げるものも出てきた。
人と狐の間に生まれる子供は、人ではなく狐に近しい。
ある子は人の顔に狐の体、ある子はその逆。人の顔形でも気質は狐そのものの子もいれば、日ごとに姿を変える子もいた。
とても人の世で暮らせるものではなく、そういった子供達はすべて七狐山の狐の元で育てられた。
かろうじて人の世で暮らせる見た目のものたちは、七狐山の麓に居を構えて暮らし始めた、昼間は人の世で過ごし、夜になると山で同胞と遊んだ。
人と狐の交わりは、時に途絶えながらも細々と続いていき、交われば交わるほど、狐は人へと近づいていった。
幾度も大きな戦を乗り越え、世の中も心の中も、人は大きく変化した。
人に近づいたとはいえ狐たちはやはり狐なのだが、彼らもまた時代の流れに乗じて彼らなりの方法で人の世に馴染み、人の世でそれなりの地位を手に入れた。
いつしか七狐山の狐たちは、立派な屋敷と土地田畑、人も羨む財産を手に入れ、やがて尾崎という姓を名乗るようになった。
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カナカナカナカナ……
夕刻を告げるヒグラシの鳴き声に、美穂はゆっくりと意識を起こした。
周囲を見回し、ここが自分の部屋ではないこと、縁側で昼寝をしていたことを思い出す。体を起こして、大きなあくびと伸びをした。美穂は、そんな些細な仕草すら映画のように絵になる美少女だった。
八月に入り猛暑日が続いているが、周囲を田んぼや雑木林に覆われている尾崎家では、夕刻になると涼しい風が吹き渡る。中学二年生で受験はまだ先の気楽な美穂にとって、涼しい縁側での昼寝はすっかり夏休みの日課になっていた。
「美穂、だらしない格好」
後頭部から降ってきた声に、美穂は驚いて振り返る。そして嬉しそうに声を上げた。
「早苗姉ちゃん、お帰りなさい! 明日じゃなかったの?」
「用事が急になくなって暇になったから、今日帰ってきたのよ」
今年隣県の大学に進学した長女の早苗が、夏休みで帰省してきたのだ。
大きな荷物を下ろしながら、早苗はやれやれと呟いた。
「もしかして、駅から歩いてきたの?」
「そう。15分くらいだし、久しぶりだから。でも暑かったぁ」
「もう、穂乃香おばさんいるんだから、迎えにきてもらえば良かったのに」
「急だったから、なんか悪くて」
早苗は縁側に腰掛け素足を投げ出して、「あぁ、やっぱり家は涼しいわ」と嬉しそうに言った。
「大学も涼しいんじゃないの? 周り山じゃない」
「やっぱりこっちの方が涼しいわよ。大学はたくさん人もいるしね」
そんな話をしていると、「早苗おかえり」と穂乃香叔母が麦茶と共にやってきた。
穂乃香は二人の母の妹で、華道と着付けの免状を持ち自宅で教室を開いていた。
「わぁ、穂乃香おばさん、ありがとう」
「まったく早苗ったら、迎えの電話をよこせば良いのに。こんな暑い中歩いて帰るなんて」
「たいしたことないわよ」
「そんなこと言って、日焼けして二十年後に泣きを見るのあなたよ」
そう言う穂乃香は四十歳をとうに過ぎているはずだが、顔にはシミ一つない。若々しい容姿に年相応の落ち着きを備え、いかにも大人の女性という風情だった。
「おばあちゃんは?」
「絵手紙の市民講座。姉さんは当然仕事だし、真依は大きな大会に向けて毎日練習、芽依は明日まで美術部の合宿。夏休みだからって暇なのは、早苗と美穂くらいのもんよ。ところで早苗、大学はどう?」
早苗は麦茶を一気に飲み干すと、「楽しいよ」と即答した。
「いろんな人がいて、今までにない出会いがあるわ。学生にも先生にも、面白い人がたくさん」
「出会いって、彼氏できたの?」
「馬鹿ね」
美穂の軽口を早苗は笑い飛ばしたが、穂乃香は首を振った。
「全然馬鹿なことじゃないわよ。早苗ももうすぐ二十歳でしょ? いい人の一人くらいいないの?」
「うーん、気になる人は二人くらいいるけど。別に付き合いたいわけではないし」
「消極的ねぇ、時代なのかしら。穂奈美姉さんなんて、あんたの歳頃には男を取っ替え引っ替えだったわよ」
穂奈美とは、早苗たちのもう一人の叔母だった。今でも当然綺麗だが、若い頃の写真を見ると奔放な男性遍歴にも納得できるような美人だ。
しかし今は、隣町に嫁に行き家庭に収まっている。尾崎家の女性には珍しく専業主婦だが、その完璧ぶりは主婦業のプロといえる。
「でも穂奈美おばさん、今じゃ良妻賢母の鑑みたいに言われてるじゃない。若い頃の恋愛は関係ないんじゃない?」
「わかってないわね、それほどのことをして、ようやくこれぞという人に出会えたってことじゃない」
穂乃香は腕組みをしてウンウン頷いた。
「それに穂奈美姉さんみたいに外にお嫁に行ってくれる人もいないと、我が家の暗い噂がますます増強されちゃうわ」
「穂乃香おばさんはいつ、これぞという人に出会うの?」
本気なのか冗談なのかわからない美穂の一言を無視し、「そんなことより」と穂乃香は続けた。
「今は早苗の話よ。あなたは長女なんだし、もっと積極的でもいいと思うわ」
早苗は唇を尖らせた。
「いくら私が長女でうちが女系だからって、すなわち家を継がなければ、なんて考えが古いわ。大体、大学は勉強をするところで、男を漁る場所ではありません」
「そりゃ、そうだけどさ」
早苗の正論に、今度は穂乃香が口を尖らせる。しかしすぐに何か思い出した表情で、
「まぁ、穂津美姉さんもそんなこと言ってたけど、いつの間にか相手を捕まえてたしね」
とニヤリとした。
「お母さんが?」
「そうよ。裏山でフラフラしてたのを見つけた、タイミングが良かったから〜、なんて言ってたけど。あれで穂津美姉さんは、あなたたちのお父さんにベタ惚れだからね。だから、早苗もどうなるかわかんないわよ」
ニヤニヤ笑う穂乃香だったが、「おばさんはいつそのタイミングが来るの?」という美穂のまたもや余計な一言にムッと眉を寄せ、その頬を引っ張る。
「いたぁい」
「ところで、今日帰ってくることは姉さんは知ってるんでしょ?」
「うん、連絡してる。明日芽依も帰ってみんなが揃うから、夕飯はみんなの好きなものしようって言ってたよ」
「ということは天ぷら⁈ わぁい!」
「美穂、あなた反省してるの?」
久しぶりの家族の賑やかさと懐かしさに、早苗は切れ長の目を細めて笑った。
「そうそう、お父さんにも顔出しなさいよ」
ふと、思い出したように穂乃香が言う。もちろん、と早苗は頷いた。
「美穂、お父さん元気?」
「変わりないよ。でも、おしゃべりすることは少なくなったかなぁ」
「早苗が行ったら喜ぶわよ。荷物そのままでいいから、早く行ってあげなさい」
早苗はもう一度頷いて、父の部屋へ向かった。
薄暗い廊下の突き当たりの部屋が、父の部屋だ。
扉をほとほとと叩くと、中からおかっぱ頭の少女が出てきた。来客が早苗だと知っていたようで、驚く様子もなく縦に細長い瞳を細めて懐かしそうな顔をする。
「茜さん、お久しぶりです。帰ってきたので、お父さんにご挨拶を」
少女は丁寧に早苗を室内へと誘った。
畳が敷き詰められた和室の真ん中には、一本の楓の木が立っていた。畳に直接根を張り、部屋いっぱいに枝葉を伸ばしている。楓が大きくなったためか、この部屋は天井を抜いて空が見えていた。そのため、枝には時々小鳥や小動物が遊びにくるのだという。
「お父さん」
早苗は楓の木に向かって言った。
「お父さん、早苗です。ただいま帰りました」
楓はなにも返事をしない。
それでも、早苗は木の声が聞こえているかのように、嬉しそうに微笑んだ。
「学校は楽しいわ。いろんな面白い人がいるのよ。そうそう、私、おかしなあだ名をつけられたの。お父さん、当てられる? ヒントはね、尾崎の名字。同じ名字の、有名な歌手の名前で呼ばれてるの。ここまで言ったら、もうわかるかしらーー」
楓の木はサヤサヤと葉を揺らし、おそらく彼の娘にしか聞こえない声で、優しい会話を楽しんでいた。
作者カイト
いつものシリーズ、「草木の恋」に、なんとなく繋がっています。