その日、何かが違った。
自転車通学の途中、ここ、何だっけ?みたいなことってないだろうか。
いつの間にか、そこにあったはずの建物が無くなっている。
最初は、その程度のことだった。
往々にして、人の記憶というものはあてにならず、そこに何が建っていたかと問われると、何だったろうかと考えるが、それ以上深くは考えないだろう。
ところが、今回は違った。
確かに、そこは、古くからあった雑居ビルが存在し、そこには雀荘に続く細い階段があり、よく猫がたむろしていたから、俺は覚えているのだ。
取り壊された、ということはない。
忽然と、消えたのだ。
毎日通る道だから、間違えるわけがない。
たった一日で建物が消えるなんてことがあるのだろうか。
ほんの昨日、階段の下で眠る、茶虎の猫の頭を撫でたのだ。
高校に着くなり、俺は親友の海斗にそのことを話した。
「なあなあ、郵便局前にさ、古い雑居ビルあったじゃん?あれが突然無くなったんだけどさ。取り壊し工事ってそんなに早くできるもんなのか?」
「古い雑居ビルぅ?」
海斗が頭を捻る。
「ほら、あったじゃん!二階が雀荘になってて、ボロいけど、なんか外装がレトロでお洒落なやつ。階段にいつも猫がたむろしてて、俺らよく撫でたりかまったりしただろ?」
「知らねえなあ。そんなのあったっけ?」
「あったってば!俺らの通学路じゃん」
「わかんねえ。無いだろ、そんなところ。あそこはずっと空き地だっただろ?」
「嘘だぁ。あったって!」
話は平行線になった。
これ以上、言うのもバカバカしくなった。まぁ、俺だけがあの建物に対して愛着があったのかもしれない。たぶん、海斗はあの建物のことを覚えていないだけなのだ。
ところがその現象はその後も続いた。
小さな銭湯が消えた。
これもまた、取り壊し工事のあとなど一切なく。
朝、いつも通り、その銭湯の前を通り、学校に行く。
そして、帰りにはすでに無くなっている。
その時も、俺は友人にそれを訴えたが、反応は同じ。
そこに銭湯などなかった。俺はだんだんと仲間から浮いた存在になってきた。
その次の日は公園が、その次の日は幼稚園が丸ごと。
これはどう考えてもおかしい。俺は怪訝に思いながらも、この日常の「欠け」について口にすることが無くなった。
理由は簡単だ。どうせ信じてもらえないから。不思議なことに、俺以外の人間の記憶から、その場所は綺麗に消えていくのだ。
思い入れのある場所、特に、友人や家族と過ごした場所が消えることに寂しさはあった。だが、この日常の「欠け」は俺しか気付かないことであり、もしかしたら俺が記憶障害なのではないのだろうかとすら思えた。
たまに「欠け」が補充されることもあった。欠けた場所にある日突然、ゲームセンターやスーパーができることもあった。あるいは古びた駄菓子屋が忽然と現れることもあり、俺はだんだんその日常に慣れつつあった。
そう。場所なら簡単に見過ごせた。
ところが、見過ごせない出来事が起こった。
海斗が消えた。
海斗は俺の幼馴染であり、一番の親友だった。
「海斗、今日学校来てないんだけど、どうしたのかな」
俺がそう言うと友人たちはキョトンとした顔をした。
「は?誰?海斗って」
「誰、って海斗は海斗だろ。ほら、俺の幼馴染で親友の。鈴木 海斗」
「知らねえな」
「知らねえって・・・そんなはずないだろ。お前らもツルんでよく遊んだじゃん。この前も、うちで海斗とゲームしただろ?」
「お前さあ、一度、病院で見てもらったほうがいいんじゃね?」
友人たちは明らかに、俺が冗談を言っているか、本当におかしくなってしまったのかと、戸惑いを隠せない感じで苦笑した。
「嘘だろ・・・」
俺は愕然とした。俺の周りは、明らかにオカシイ。
俺は学校帰りに、海斗の家へと向かった。そこに海斗の家は無く、空き地だった。そんなバカな。昨日までは、そこに海斗の家があり、俺も何度も遊びに行ったり泊まったりしたことがあったのだ。
一夜にして、海斗の存在も、海斗の家族、家も消えてしまった。
俺はどうかしてしまったのか。
一晩中眠れなかった。朝方、少しウトウトして目覚まし時計に起こされた。
朝になれば、きっとあれは夢で、学校に行けば海斗が居る気がして、俺は早々に支度をして家を出た。海斗の家へと向かう。そして、俺の淡い期待は見事に裏切られた。そこには、ぽかんとした空き地があるだけで、海斗の存在も家も消えていた。
その時、後ろからポンと肩を叩かれ、驚いて振り向いた。
「海斗か?」
俺は期待を込めてそう言ったが、肩を叩いてきたのは女の子だった。
「海斗って誰よ。おはよ」
サラサラの黒髪をなびかせてその子は微笑んだ。俺と同い年くらいの見たことも無い女の子だ。
「・・・誰?」
俺がそう言うと、その子は心底驚いたような顔をしたあと、自分がからかわれたのだというふうに、ぷうっとふくれっ面になった。
「何よ、可愛い幼馴染がせっかく声かけてあげたって言うのにさ」
知らない。誰だ、この子。幼馴染と言っているが、俺に親しくしている幼馴染の女の子なんていない。
その様子を、登校中の級友にからかわれた。
「おー、相変わらず、お熱いですねえ、お二人さん。仲よくご登校か?」
俺とその子を遠巻きにして、冷やかすようにニヤニヤしている。
「何言ってんだ、お前ら。俺はこんなやつは知らない」
「テレんなよ、今更。はいはい、邪魔者は消えますよー。ごゆっくり」
何を言っても信じてもらえない。彼女のほうは、まんざらでもない風に顔を赤くして、それでも俺に着いてきた。
いったいどうなっているんだ。俺は狂ってしまったのか。
相談したいが、親友はもうここには居ない。
ほかの友人に相談したところで、俺はまた変人扱いされるだけだ。
仕方なく、二人で学校まで並んで歩いた。彼女は何か話したそうに、俺の顔を何度も伺ったが、とてもそんな気分になれない。気まずい雰囲気のまま、学校に着くと、教室の自分の椅子に座った。どうやら彼女も同じクラスらしく、俺の席と二つ挟んだ机にカバンを置くと、こちらをチラっと見て寂しそうに椅子に座った。
チャイムが鳴ると、全く知らない男が教室に入ってきた。
「おはよう。皆そろったかな?」
誰だ、こいつ。
「じゃ朝礼始めるぞ。」
そう言うとその知らない男は淡々と連絡事項を告げて来た。
ああ、担任の先生も消えたのか。確か担任は、森本という女性教師だったはず。この森本先生が「欠け」たあとのこの男は何という名前なのだろう。
もうどうでも良くなった。
俺の周りから、いろいろな物が欠けて行く。今度は何が欠けるのだろう。
俺は、それを思うと恐ろしくなった。俺は、教室を飛び出した。
「おい!どこへ行くんだ!」
俺は家へと走った。
どうか、何も欠けないで。俺の大切なモノ!
家の玄関の扉を開け、居間に飛び込むと母親がびっくりした顔で俺を見た。
「どうしたの?学校は?」
俺は心底ほっとした。母親はそこに居た。俺の大切な家族はまだ無事だ。
「うん、ちょっと気分悪くて。早退した」
「ちょっと大丈夫?病院行く?」
「ううん、大したことないよ。ちょっと頭痛いだけだから。寝てたら治るよ」
「そうなの?ちゃんと寝てなきゃだめよ?ゲームとかしたら承知しないからね!」
「わかってるって。大人しく寝てるよ」
いつもの母親の口調に心底ほっとして、自分の部屋のベッドに横たわった。
安心すると、眠気が襲ってきた。このまま今まで起こった異変を全て忘れられればいいのに。目覚めたのは夕方だった。
「大丈夫?ご飯食べれる?」
母親が心配して、俺の部屋を覗いた。
「うん、もう大丈夫。食べるよ」
俺は体を起こして、二階の自室を出ると、階段を下りた。いい匂いがする。母親の作るみそ汁は格別だ。
すでに帰ってきていた父親が食卓について、テレビを見ていた。
「あれ、父さん、今日は早いね」
「ああ、たまにはこういう日もあっていいだろ」
父が笑う。そして、小さな違和感に気付く。
「あれ?翔太はまだ帰ってきてないの?」
俺がそう言うと、父と母が俺の顔をキョトンとした顔で見た。
「翔太?誰それ」
母親から信じられない言葉が出た。
「おいおい、母さん、冗談も大概にしてよ。俺の弟の翔太」
「弟?」
今度は父の声。
嘘だろ?まさか。
「弟って、あんた一人っ子じゃん。弟なんていないし」
翔太が消えた。嘘だろう!あれだけ俺と仲良かった弟。俺は泣いた。
「どうしたんだ。何があった?」
父と母は心配した。俺はもう何も言えない。
「ごめん、そっとしといてくれ」
夕飯もそこそこに、俺は自室に籠った。
もう何も失いたくない。
いったい俺の世界はどうなった?これは長く悪い夢であってくれ。
もしかしたら、次に目覚めた時には、すべてが元通りになっているかもしれない。眠らなきゃ。これは悪い夢。
朝目覚める。俺は寝ぼけ眼を擦りながら、隣の部屋を覗く。悪い夢なんかじゃなかった。弟の部屋であるはずのその部屋は、見事にその存在を打ち消して物置になっていた。弟が好きだったアイドルの写真も、小学生の頃から使っていたシールだらけの学習机も、雑に掛けられた学生服も存在しない。涙が溢れて来た。あいつにもう会えないなんて。
親に泣いたのがバレないように顔を洗う。起きて来た俺を母が心配そうに見つめてくる。
「おはよう」
母親を心配させないようにと、普通に挨拶した。安堵したような顔で母親が、せっせと朝食を目の前に並べる。隣の席が寂しい。思わず泣きそうになるのを我慢していただきますと手を合わせた。
玄関を出ると、昨日の幼馴染の女の子が待っていた。
「やっぱり、覚えてないんだ。私のこと・・・」
彼女が不思議なことを言った。俺は思わず顔を上げて彼女を見つめた。
「どういうこと?」
そう言うと、彼女は少し寂しそうな顔をして背を向けた。
「あのね、蜃気楼って知ってる?」
「ああ、あの地上や水上に、光の屈折かなにかでどこか遠くの町が浮かんで見える現象だろう?」
「うん、でもそれは違うよ?蜃気楼はね、溶ける町が、なんらかの時空の歪みが原因で出現するの」
「溶ける町?」
「うん、溶ける町。そこには、人の暮らしがあり、町は生きている。だけど、いずれ消えゆく運命の町」
「なんだそれ」
「君もそのうち消えるよ」
「ふざけんな」
「この町は、人々の思念が作り上げた物。生きていて欲しかった。そんな願いがこの町を作り上げていた。忘れられた物から消えていく。」
「そんなの、嘘だ・・・」
「じゃあ、どうして、物や人が消えて行くと思う?」
「お前、何か知ってるのか」
俺は彼女に詰め寄る。
「君だけが記憶を持っているのは、君を思う誰かの思念が強いからだよ」
そう言うと、彼女は俺を置いてさっさと行ってしまった。
「おい、待てよ!ちゃんと話してくれ!」
彼女は微笑むだけで何も答えなかった。
次の日、父が消えた。
そして、次の日には母が。
もう悲しいという感情はとうに枯れ果ててしまった。
とうとう学校も無くなった。いったい俺はどこへ向かえばいいのか。
あてもなくフラフラと歩いて、駅に着くと、一本の電車がすべりこんできた。
これに乗れば、何か答えが待っているのかもしれない。
俺は、電車に乗り込んだ。
「次はきさらぎ~。終点きさらぎ駅です。お忘れ物の無いようご用意願います。」
しばらく電車に揺られていると、車掌のアナウンスが響いて、俺はきさらぎ駅のホームに降り立つ。行く当てもない俺を待っていたのは彼女だった。
「おかえり」
彼女はそう言った。
今になっても俺は彼女の名を知らない。
「お前の名前、知らない」
「名前なんてどうでもいいよ」
「俺は一人になった」
「君には私がいるじゃない。一緒に暮らそう?」
俺は何も言わずに首を横に振った。
すると、彼女はとたんに怒りの表情を浮かべ、叫んだ。
「何で?私じゃダメなの?全て消したのに!」
ああ、何となく思い出したよ。
俺、お前に殺されたんだっけ。
「なあ、たとえ全てを消したとしても、変わらないことってあるんだよ」
彼女はホームに崩れて泣いた。
俺の体が白い光に包まれて行く。ああ、今度は俺が欠ける番だ。
少女は骨を抱いている。
この電車には、色んな人が乗ってくるから、さほど異様なことでもない。
だが、まだこの電車に乗って日の浅い青年がその少女に尋ねる。
何故、骨を抱いて電車に乗っているのか。
少女は泣いていた。
この骨は大切な人だと。忘れないために思い続けた人が、自ら消えてしまったと泣いた。この少女は、永遠にこの電車に乗り続けることだろう。
この骨と共に。
「次はきさらぎ~、終点きさらぎ駅です。お忘れ物のないようにご用意願います」
作者よもつひらさか