「すまんなあ弘志、
こんなことにお前を付き合わせて」
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篠原は相変わらず天井を向いたまま呟いている。
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その横顔は
昔とは別人のように痩せ細り、
げっそり頬がこけている。
肌は紫色に変色しており、
無造作に生えた無精髭には白いものがちらほら混じっていた。
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隣で寝ている俺は少し顔を篠原の方に傾け、
「そんなこと、気にするなって」と声をかけた。
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安アパートのトタン屋根を、ボトボトと雨粒が跳ね返る音がせわしなく聞こえてくる。
どうやら雨が降りだしてきたようだ。
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高校時代の親友だった篠原から突然の電話が入ったのは、三日前のこと。
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市内の総合病院の病棟の一室に駆けつけたとき、ベッドで横になっている彼の姿には学生の頃の面影は全く無かった。
末期の癌ということだった。
医師の言うには余命はせいぜい後一週間ほど。
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幼いときに事故で両親を失い兄弟もいない独身の彼には、いわゆる身内という存在がなく、そういうことで俺に電話をしてきたようだ
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最後は自分の部屋の畳の上で迎えたいという希望を叶えるべく、俺は篠原を車に乗せて彼の住むアパートの一室に向かった。
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六畳ほどの殺風景な畳部屋に布団を敷き、骨と皮だけになり恐ろしく小さくなった篠原をそっと横たえる。
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「なあ、弘志、お前には本当に世話になってしまったな。
この際だからお前にお願いがあるんだが」
床の中から篠原が黄色く濁った目で俺に呟く。
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「何だ?俺に出来ることだったら何でも言ってくれ」
俺はそう言って枕元に正座した。
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「多分俺はあと数日でこの世から消え失せるだろう。
だからお前、その時が来るまで俺の横に居てくれないか」
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「わかった」
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一ヶ月くらい前に会社を止め失業中だった俺は躊躇せず承諾した。
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俺は篠原の横に並べて布団を敷き横になった。
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時刻は既に夕刻になっていた。
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トタン屋根に雨粒が弾かれる音はますます勢いを増してきており、うるさいくらいになっている。
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篠原はたてつけの悪そうな窓の方を見ながら、またしゃべり始めた。
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「弘志、
俺は今年の二月でちょうど四十になるのだが、この歳になっても未だに恐ろしいものがあるんだ」
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「ほう、それは一体何だ?」
俺は篠原の顔を見ながら呟いた。
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「ふふふ、、、お前笑うなよ。
それは『死』だよ。
俺は物心つく頃から『死』というものが恐ろしくてたまらなかった
死ぬときの苦しみ、死ぬ瞬間、そして何より死んだ後にどうなるのか?
その全てが恐ろしいんだ
恥ずかしい話だが、今もその恐ろしさに眠れないことがある」
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篠原の意外な告白に戸惑いながらも俺は答える。
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「難しいことは分からないが死んでしまうと脳も活動をストップするのだから、いわゆる意識のない状態が永遠に続くのでは?
つまり部屋の電気を消して真っ暗になったような状態がずっと続くという感じかな」
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「永遠にか、、、
ということは、この『俺』という存在は完全にこの世から消えてなくなってしまうとともに意識も永遠に闇の中いうことなのか?」
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「まあ、そういうことになるのだが、少なくとも俺の心の中には、ずっと残っていくと思うよ」
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「いやだ!そんなことは絶対いやだ!」
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突然篠原が語気を強めたので俺は驚く。
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「俺は、俺はなあ弘志、、、
三十九年間振り返って良いことなど一つも一つも無かった。
母親からしっかりと抱きしめられたことも、
遊園地のメリーゴーランドに乗ったことも、
誕生日のお祝いやクリスマスのプレゼントをもらったことも、
好きな女性と手を繋いで歩いたり一緒に食事をしたりしたことも、
何一つ無かった。
そんなまま永遠の眠りにつくなんて、こんな理不尽で不公平なことがあるか!
俺は絶対にいやだ!」
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俺は何も答えられなかった。
というのは死んだ後のことなどは誰にも分からないことだから。
そこで俺は尋ねた。
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「じゃあお前は、どう考えているんだ」
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篠原は再び天井の一点を見つめてから、ゆっくり語りだした。
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「俺は、
たとえ肉体が滅んだとしても魂は永遠に残っていくと思っている。
そして現在まだ生きている者たちと直接は交流出来ないとしても、何か別の方法で出来ると思っている」
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「別の方法?」
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「そうだ。
例えば
ベルを鳴らしたり、
机を叩いたり、
虫の調べを使ったり、
また別の者の口を借りたり、
いろいろな形で」
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「なるほど確かにそうかもしれんな」
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本当は全く理解を超えた考えだったが、俺は敢えて彼のために共感した。
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そしてこの後篠原の言った言葉を、俺は決して忘れることはないだろう。
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「なあ、もしも、もしもだよ。
俺が死んでしまい魂だけになった後、他の人の姿を借りてお前に声をかけるかもしれんが、その時は怖がらずにいてくれるか?」
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「ああ、もちろんだよ」
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そう言って俺が改めて篠原の横顔を見ると、彼は満足げに微笑んでいた。
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その後も俺たちはいろいろなことを取り留めなく語り合った。
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窓を被う白いカーテンの隙間から
朝の柔らかい陽光が射し込んできている。
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トタン屋根の雨音は既に聞こえなくなっていた。
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いつの頃か急に無口になった篠原が気になったから、ふと横を見ると瞳を閉じたままポッカリ口を開いている。
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一抹の不安を胸に抱きながら恐る恐る声をかけた。
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「篠原、寝たのか?」
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俺は半身を起こしてそっと額に手を当てる。
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ひんやり冷たい。
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暖かいものが右の頬をつたい上唇を濡らした。
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俺はまず病院に電話をし、それから警察に、そして最後に役所に電話をした。
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担架に乗せられて運ばれていく篠原を見送ると、俺は家に帰ることにした。
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それから、一週間が過ぎた。
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それは久しぶりに晴れた土曜日の夕刻のこと。
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相変わらず無職の私はスエット姿で、近所にある小さな公園のベンチに座っていた。
夕暮れ特有の柔らかい朱が公園の隅々を染め、今日という日の終わりを告げようとしている。
数人の子供たちが思い思いに遊具や砂場で遊んでいる。
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子供というのは、なんと無心で邪気のないものか。
彼らには多分「死」への恐怖などは微塵もなく、ただ瞬間瞬間を懸命に生きているのだろう。
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俺はその一人一人を目を細めながらしばらく眺めた後、静かに目を閉じた。
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それから、どれくらい経ったころだろう。
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「おい、弘志!」
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いきなり名前を呼ばれたので俺は驚いて目を開いた。
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見ると目の前に真っ赤なトレーナーに半ズボン姿の四歳くらいの男の子が、顔の半分を朱色にしながら満面の笑みを浮かべて立っている。
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男の子はその偽りのない無垢な瞳でしばらく俺の顔をじっと見つめていたのだが、やがて一回だけ大きく頷くとダッシュで走り去っていった。
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遠ざかる小さな背中をじっと見ていると、なぜだか目頭が熱くなり堪らずまた瞳を閉じた。
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Represented by Nekojiro
作者ねこじろう
これは以前にアップしたものですが、気に入らないところが多々ありましたので、変更して再度アップします。