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中編7
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妻の恋人《府内駅夜話》

━━どうしたらいいんだ…

後藤哲也(ごとうてつや)は、今まで感じたことのない恐怖に震えていた。冷や汗をかき指先は冷たく、目の前はチカチカする。座っているからいいものの、膝はずっと笑い続けてとても立ってはいられない。

ここは、駅ビルの中にあるコーヒーショップだ。県内最大の駅だけあり、夜九時をすぎても、店内は笑いさざめくカップルや学校帰りの学生で賑やかだった。そんな中、哲也の席だけが重く沈んでいる。

哲也の隣の席では、若い女が白けた顔で茶髪の毛先をいじっている。うんざりしたように口を開いた。

「ねぇ、あの女まだ来ないの? 帰って観たいテレビがあるんだけど」

━━それどころじゃないだろう!

哲也は内心そう怒鳴った。

隣にいる女は、哲也の不倫相手だった。

哲也はどこにでもいる平凡な中年男だったが、半年前に会社の接待で行ったキャバクラでこの女、エリカと出会った。

エリカが自分のことを、遊び相手兼財布としか認識していないことは薄々わかっていた。それでも、女性経験の少ない哲也はエリカの甘い言葉に有頂天になり、彼女の持つ明るさや奔放さ、何より妻とは違う若い肉体に、ズブズブとのめり込んでしまったのだ。

そしてつい先ほど、二人で歓楽街のホテルから出てきたところを、妻に見られてしまった。

妻の美子(よしこ)は、驚いて目を見開いてはいたものの、取り乱したりはしなかった。むしろ笑みさえ浮かべて、「話をしたいから、落ち着けるところに行きましょう」と、二人をこのコーヒーショップに誘ったのだった。

美子は店に着くとすぐ、「ちょっと電話してくるから」と言って席を外している。

━━どうしたらいいんだ。

その言葉が哲也の頭の中でグルグルと回る。けれども何周しても、答えはさっぱり出て来なかった。

一体どうすれば正しいのか、自分自身に問いただす。

美子は妻としては申し分ない女だ。よく家庭を管理し、自分のことも十分に気遣ってくれる。もしも離婚となれば、年頃の娘達は当然美子についていくだろう。慰謝料だっていくら請求されるかわからない。そうなれば、自分は全てを失ってしまう。離婚はなんとしても避けたかった。

いっそ、自分はエリカに誘惑され、どうしようもなかったことにするか?

いや、そう主張したところで美子の心象がよくなるはずはない、むしろ責任逃れの最低男との誹りは免れないだろう。それに、エリカ一人を悪者にするのも気がひける。こんがらがった頭の中でも、それくらいの理性と良心は残っていた。

「てゆーかてっちゃん、ついてなさすぎ。あんなとこで奥さんと出くわしちゃうなんて」

頭を抱える哲也の隣で、エリカがまるで他人事のように言う。そのどこか小馬鹿にしたような響きに思わず拳を握り締めるが、ふとある疑念が哲也の頭をかすめた。

━━そういえば、美子はなぜ、あんなホテル街なんかにいたのだろう。

と、その時、美子が席に戻ってきた。

「ごめんなさい、待たせちゃって」

そう言う顔はあくまで穏やかで、哲也は逆に怖ろしくなる。

「はじめまして、後藤の妻の美子と申します。いつも、主人がお世話になっているようで」

美子がにこやかに挨拶をすると、エリカは露骨に眉をひそめた。馬鹿にされていると思ったのだろう。

「お世話になってるって、意味わかって言ってんの? オバサン」

「もちろん、わかっているつもりですよ」

「へー、それでその態度ってすごいね。大人の余裕ってやつ? あ、それとももう、てっちゃんのことはどうでもいいのかな?」

エリカの挑発に表情を変えず、美子は哲也を見た。

「だから、ちょうどいいと思って」

「え?」

「私も、あなたに紹介したい人がいるのよ。もう来ると思うんだけど」

そう言うと、美子は店の入り口の方に探すような視線をやって、それから哲也が見たこともないような嬉しそうな笑みを浮かべた。

「こっちよ」

美子の手を振る先を見て、哲也は目を疑った。先ほどまでナイフのような目をしていたエリカも、ポカンとしている。

「こちらは、勅使河原昌大(てしがわらまさひろ)さん。大学時代の同級生なの」

はにかむように美子は言って、自分の右隣を手で示した。

そこには、なにもなかった。

美子はちょうど誰かが着席するのを待つかのように一呼吸置いて、呆気にとられる哲也とエリカに向き直った。

「ほら、去年、友人の葬儀に出席したじゃない? その時に、この勅使河原くんと再会してね。意外に近くに住んでるってわかって、懐かしくて何度か連絡をとるうちに、その……ねぇ?」

美子が照れたような流し目を、誰もいない右隣へ送った。

哲也は、自分があんぐりと口を開けているのに気づいていたが、その間抜け面を正すことはできなかった。エリカはワナワナと頬を引きつらせている。

そんな二人の様子に気づいているのかいないのか、美子はそのままの調子で続けた。

「私達、お互い家庭のある身だし、もう若くもないし。でも、なんだかもう、離れられなくなっちゃって。あなたには、申し訳ないと思っていたのよ? もちろん、勅使河原くんの奥さんやお子さん達にも。でも、もうどうしようもなかったの」

勅使河原。その名前に、哲也は聞き覚えがあった。

去年届いた訃報。大学の友人が、と泣き崩れていた美子。その友人の名前が、勅使河原ではなかったか。

珍しい苗字と、らしくもなく取り乱した美子の姿が相まって、記憶の片隅に残っていたのだ。

「だけど、あなたもそちらの方とお付き合いされてるんなら、おあいこよね? あぁ、なんだか肩の荷が降りた気がするわ。エリカさん、でしたっけ。夫のこと、これからもよろしくお願いしますね」

ダンッ‼︎

エリカがテーブルを勢いよく叩いて立ち上がった。

「キッモいんだよ、ババァ!」

青ざめた顔で虚勢を張るように怒鳴ると、エリカは足音荒くその場を離れようとする。

「エ、エリカ…」

「触んな、お前もキモいんだよ! 二度とあたしの前に顔見せるな」

エリカは周囲の視線など物ともせず、肩を怒らせて店を出ていった。

哲也もその後を追いたかったが、目の前の光景に体が動かなかった。

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「あら、まぁ」

「……ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

「……ふふっ、そんなこと言ったら、さすがに失礼よ」

美子が、空席に向かって小声で会話をしている。あたかもそこに恋人がいるかのような、甘い声。

あんな声、哲也はもう十年近く聞いていない。

しかし、その甘やかな声や視線を向ける先には、誰の姿もないのだ。

「よ、美子。お前……」

「ねぇ、あなた。あなただって、私の気持ちがわかるでしょう。好きな人と離れがたい、この気持ち。だから、私という妻がいても、あんな娘と同い年のような女の子とのお付き合いを続けてきたんでしょう?」

「い、いや、俺は……」

美子のまっすぐな視線に哲也は口ごもる。エリカが自分を遊び相手と見ていたように、哲也も彼女を愛しているというよりは、その若さと体に溺れていたに過ぎない。美子という妻が自分を支えてくれる安心感がなければできない、ただの遊びだった。

「だから、私のことも許してくれるわよね? 子供のことや生活のことを考えると、離婚はしないほうがお互いのためだと思うの。今の状態のまま、勅使河原くんと会うことを認めてほしいのよ」

「な、な、なにを勝手なことを」

「私、彼のことをずっと忘れられなかったの。あなたと結婚した日にこっそり泣いていたの、知らないでしょう。あなたは良い夫で良い父親だったかもしれない。夫婦の思い出もたくさんあるわ。でも、彼と再会してしまった今、それらが全部色褪せて感じるのよ」

美子は熱に浮かされたような瞳で熱く語った。哲也は、こんな美子の姿を見たことがなかった。

思わずほだされそうになって、哲也は頭を強く振る。

「お、お前の隣には、誰もいないじゃないか! 勅使河原とかいう奴は、もう死んだんじゃないのか? お前は葬式に行って泣いていたじゃないか!」

美子は、キョトンとした顔をして首を傾げた。

「なにを言ってるの、あなた。勅使河原くんは、ここにいるじゃない。ねぇ?」

哲也は強く目をこする。それでもやはり、勅使河原という男の姿は見えない。

当初とは違う恐怖で、哲也の体は震えていた。

「あなた、認めたくないのはわかるけど…」

美子が、どこか憐れむような視線を送ってくる。

━━俺か? おかしいのは俺なのか? ……いや、そんなはずはない。さっきはエリカだって、美子を異常者を見る目で見ていたじゃないか。

哲也は頭を抱えた。

美子には、一体なにが見えているのだろう。死んだはずの恋人が、彼女の隣には寄り添っているのだろうか。それとも、すべては妄想か?

いっそ、自分への当て付けの一芝居だったら、どんなに救われるだろう。

━━俺はこれから、どうすればいいんだ?

幽霊を恋人だとのたまう、あるいは精神を病んで妄想の中で恋愛をする女を妻として、これからの数十年を生きていかなければならないのか。

助けを求めるように窓の外に目をやると、通路の向こうに占いの店を出す老婆の姿が見えた。老婆は哲也の視線に気がついたのか、口元をパクパクと動かした。

━━それが、あんたの運命だよ。受け入れな。

聞こえるはずのないその声は、耳ではなく頭に直接響くようだった。

絶望感に包まれる哲也の前で、美子はやはり、彼には見えない相手と微笑みあっていた。

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