これは実話である。
知人からこの話を聞いてから約三十年ほど過ぎているので個人名や場所が特定されなければ公開しても大丈夫なのではないかと思い、投稿してみた。
当時知人は十八歳で、車の免許を取得したばかりだった。大学への進学も決まり、それまでの受験地獄を忘れ去り、しばしの自由を謳歌する為、毎日友人とドライブへ出かけていたという。
その夜も友人とあてもないドライブに出かけ、友人たちを家に送り届け、家路に向かっていたのだという。
時刻はもう夜中を過ぎている。
地方の小さな町なので、夜の町は人も車もない。ゴーストタウンのようになっている町の中を知人は思いきりアクセルを踏みスピードを出して駆け抜けていたという。
車内は当時流行っていた曲が流れていたが、連日の夜遊びのせいか、眠気が知人を襲う。
ほとんどの信号が点滅になっていたので、知人は信号を見てもスピードを緩めることはなかった。
交差点を通過しようとした瞬間だった。
ものすごい衝撃音と振動が車を襲った。
あわててブレーキを踏んだが、車はそこからさらに何十メートルか進んでやっと止まった。
車内では音楽だけがかかっている。
なにかを、轢いたのか?
ハンドルを握りしめたまま知人は考える。
眠気が一瞬にして飛ぶ。
知人はハンドルから手を離し、ドアを開け、おそるおそる外に出て後ろの交差点を見た。
右側の信号機の下あたりに誰かが倒れていた。
知人はあわてて駆け寄り、その人物に「すいません、大丈夫ですか?」と声をかけた。
年齢は四十代から五十代といった感じの男性だったという。スーツ姿だったので仕事の帰りなのか?と思ったという。
「あ~~悪いね~おにいちゃん、悪いね~」
その男性は明らかに酒に酔っていた。
悪いね~おにいちゃん、酔っぱらっちゃってさ~と、繰り返す。
「救急車呼びますね」
と知人が言うが、その男性は「だいじょぶだいじょぶ」と手をふる。
いやいやと知人は思った。
車のスピードは七十キロは超えていた。交差点を通過する時、自分は前を見ていたか?いや、見ていなかった。いや、よく覚えていない。だから、そのままそのスピードで走り抜けようとしていた。そして、男性を跳ね飛ばしたのだとしたら。だいじょうぶなわけがない。
「救急車呼んできますから」
携帯電話などなかった当時、さて、どこで電話をかけるか、ここから一番近い公衆電話はどこだったか考え始めていた。
だが、男性は「おにいちゃん、大丈夫だから」という。
男性は腰を丸め、くの字で横向きに倒れていたが、少しずつ、体を起こし始めた。
知人も手伝う。
男性はふらついていたが、それが事故によるものなのか、酒に酔っているせいなのか、知人にはよくわからない。
だが、確かに男性は酒に酔っているようでかなりの酒の匂いがしたという。
知人の手を借りてなんとか立ち上がった男性は
「悪かったね、おにいちゃん、だいじょうぶだから、だいじょうぶだから」
と繰り返し、歩き始めようとした。
腰を曲げながら、よたよたと歩き出す。
「いえ、病院へ行ったほうが・・・」
とその男性の後ろ姿に話しかけようとした時。
「考えちゃったんですよねぇ~」
と知人は言う。
救急車を呼び警察を呼び、その後のことを考えちゃったんですよと言う。
やっと決まった進学、喜んでくれていた両親、自分のこの先、将来。
だいじょうぶだという男性の言葉を信じたくなったのだと言う。
自分は救急車を呼びますか?と訊いた。
きちんと車から降りて男性を介抱しようとした。警察も呼ばなくてはと考えていた。
だが、それをだいじょうぶだと言ったのは男性だ。
あたりには誰もいない。車も通らない。一台も通っていない。
この事故を見ていたものは、誰もいない。
そして被害者の男性はかなり酒に酔っている・・・
よたよたと歩き出す男性は、前を向いたまま知人へふらふらと手を振り、
「悪かったな、にいちゃん」と言いながら歩いて行ったという。
「俺、あの時、確実に七十キロ以上は出てたんですよ。ブレーキも踏まなかったんですよ。だから、だいじょうぶなわけ、ないんですよ」
知人は車に戻り、車内からその男性の姿をしばらく目で追っていた。
夜の町へよたよたと歩きながら消えていく男性。
夜目に見えなくなった時、知人も車を出した。
猛スピードで人をはねたのなら車にもそれなりの傷がつくはずである。
そのあたりをどうしたのか、聞いたはずだが忘れてしまった。
知人とはその後何年か付き合いが続いた。
その間、警察が知人のところにきたという話はなかった。
予定どおり、大学に進学し大学生活を謳歌し地元に帰り就職した。
知人はその話を一度だけ私に話し、その後は二度と口に出さなかった。
「死んだかもしれないよね、その人」
そう思ったが、口には出さなかった。
今は知人とは音信不通である。
作者anemone