娘が小学生の時、夫と二人で犬の散歩に出かけた。
ロッピーという名前の犬はハスキー犬のメスで、顔は凛としたオオカミ顔だが性格がとても穏やかで優しく愛らしい。
だが、力がとても強いのでロッピーのリードを持つ娘のそばに夫がついて行った。
近くの公園を目指し車が入れない道を、夫と娘がロッピーを挟むようにして歩いていた。
ふと、ロッピーが立ち止まった。
娘の後ろのやや上を振り返りじっと見始めた。
どうした?と夫と娘も立ち止まりロッピーの様子をうかがう。
少し離れた公園には幾人かの大人と子供が遊んでいるが、夫達の周りには誰もいない。
虫でもいるのか?
そう思うが虫なども飛んでいない。
するとロッピーが娘の後ろの何かに向かって
「はうっ!!」
と口をあけ、何かを飲み込むようなしぐさをしたのだという。
そしてまた、何事もなかったように歩き出した。
家に戻り、ふだんは怪異譚など鼻で笑う夫がめずらしく
「ロッピーが何かをやっつけてくれたんだよな」
と言っていた。
そのロッピーも15歳で天寿をまっとうし天に召された。
あの頃は猫達も次々と病気などで天に召されることが続いた。
何年か過ぎた頃のことである。
車の運転には性格がでるというが、夫もご多聞にもれず、安全運転とはお世辞にも言えない運転をする。
家族四人で出かけた帰りだった。
家の近くに大きな交差点がある。
直進していた前方の信号は青で、歩行者用信号も青なので、ふだんなら夫は速度を緩めることなどせずにそのまま交差点に進入していく。直進車優先なのだから当然というのが夫の考えであり間違ってはいないが一緒に乗っているこちらとしては安心して乗っていられるものではない。
前方の青信号を見ていつもどおり夫はそのままの速度で交差点に進入するものだとばかり思っていた。
それが違った。
なぜか、交差点まで20メートルはまだ離れているのではないかという地点から夫は減速をし始めたのである。
あら、めずらしい。
速度の緩め方はずいぶんと極端で、「なんでこんなに遅くするの?」と思ったがスピードを出したまま進入されるよりはいいので黙ったまま乗っていた。
子供達も後部座席で黙って乗っている。
交差点に進入した時、速度は20キロを下回っていたと思う。
その時だった。
対向車線の直進車レーンから、突然、右折を始めた車がいたのである。
ゆっくりと進入していく私達の車の前を、その車が遮るようにして入ってくる。
驚く私と夫。
夫はブレーキをかける。速度が遅かったので余裕で車が止まる。
周りの車の運転者も驚いた顔でその車を見ている。車の運転者は年配の女性だった。
おそるおそるというように、直進車レーンから右折レーンを通り越して無理やり交差点の中心部に進入してくる。
驚く私達の目の前をその女性は進行方向だけを見て通り過ぎていく。
しばらくして私の口から出た言葉は
「なにあれ。なんで?」
だった。
その女性を見送り、また、私達は走り出した。
そして夫に訊いた。
「なんで減速したの?あの車、見えたの?」
夫が減速し始めたのは交差点の位置からずいぶんと前だったはずである。
「いや、なんとなくブレーキを、踏んだ」
夫は無表情のまま、そう言う。
「あなた、ふだんならスピード緩めないよね」
「ああ」
直進車優先なのだから、緩めるはずがない。
だがもし速度を緩めずあのまま交差点に進入していたとしたら。
そして、対向車線の直進車レーンを走ってきたあの女性がいきなり右折を始めたら。
私達の車はあの女性の車の横に衝突し、あの女性は死んでいたかもしれない。私と夫も死んでいたかもしれない。夫はシートベルトをしていなかった。
子供達二人も無傷ではいなかっただろう。
道路は混んでいた。他の車も巻き込んだかもしれない。
起こったかもしれない大惨事の光景が頭の中に浮かんでくる。
後部座席の娘が言う。
「誰が護ってくれたのかな」
夫が「ロッピーかな」
「ことちゃん達じゃない?」と私。
「誰でもいいよ。みんなが護ってくれたんだと思う」
ありがとう。
ありがとう。
感謝の言葉、天に届けと思った。
作者anemone