ショッピングモールのエレベーターは、全面ガラス張りでそれは眺めの良いものだった。
私は一人乗り込むと、最上階のボタンを押す。エレベーターは上に進み始める。
途中の階に止まった。ドアが開くと親子が乗ってくる。ぬいぐるみみたいな顔の親子。ちょっと怖い。
母親が押したのはすぐ上の階。エレベーターはさらに上昇する。
上の階に到着した。母親はすたすたと降りたが、子供がまったく降りようとしない。
母親はフロアからただこちらを向いて待っているだけで、子供に呼びかけることもしない。
このままではエレベーターをずっと止めたままにするしかない。
私は「開」のボタンを押したまま子供にエレベーターから降りるように促すが、子供は一向に降りようとしない。
何分経っただろう、そのうちに子供が渋々エレベーターから降りようとする。しかしいたずらっぽく降りるふりをしてみたり、エレベーターとフロアの隙間で止まってみたりを繰り返すだけ。母親はといえば、相変わらず。
「危ないよ!」
私は少し叱るように子供に言う。今どきエレベーターが危ないなんて思う人もいないだろう。しかしこのままでは迷惑である。
子供は少し怯えるように小走りで母親の方へ。これでやっとエレベーターを動かせる。「閉」ボタンを押す。
エレベーターの扉が閉まりかけた瞬間、子供がまたいたずらで扉に足を挟んできた。
扉に何か挟まったら装置が働いて、再度扉が開くのはもはや常識だろう。いたずらが想定外だったこともあり、私の指はとうにボタンから離れていた。
しかしエレベーターは子供の足を挟んだまま上昇し出す。慌ててボタンを押しまくるが何も反応せず、足を取られた子供は宙ぶらりん。
母親の悲鳴らしき声が聞こえたかと思うと、嫌な軋み音とともにエレベーターが振動し、同時にガラス張りの風景の下半分が真っ赤に染まる。
私は放心状態になり、腰が抜けてその場にへたり込んだ。そのまま無情にも何事もなかったように上っていくエレベーター。
これは事故。頭の中で何度もその言葉だけが繰り返される。
突如エレベーター内に不気味な警報が鳴り響き、停止。電気系統がすべて消灯する。
階を表示する電光掲示板には、安全確認を行っていますという文字が点滅する。その文字に怒りの感情すら込み上げる。
やがてエレベーターはゆっくりと下っていく。最寄りの階に停止するつもりなのだろうか。
まだ次の階までは上がっていないようなので、最寄りの階というのはつまり、さっき事故があった階?
ガラス越しにうっすらと母親の姿が見え始める。ぬいぐるみのようだった顔は半狂乱のように目が見開かれ、手にはなにやら鋭利な、包丁のようなものが握られている。
これは事故、なんて話は絶対に通じない。
エレベーターはゆっくりと、それはもうゆっくりと、嫌味なほど安全に下っていく。その長い時間の中、みるみる変貌していく母親の顔はもはや憎悪に歪んだ不気味な笑顔のように見えてくる。冷や汗が噴出し吐き気がしてくる。
母親の背後にたくさんの人影があることに気付く。もしかしたら事の顛末を見た者もあるかもしれない。私は縋るように彼らの方に視線を送る。
ある者はこちらを指差して笑い、ある者は怪訝そうにこちらを見ながらひそひそと話し、またある者は写メを撮るなどと、彼らは要するに皆、もうこれから何が起こるかわかっていて楽しんでいる、ただ黒いだけの人影に過ぎなかった。
確かに私はあの瞬間、エレベーターの操作を怠った。もはや今はその重圧だけが頭の中を支配し、思考など回るはずもない。逃げ場のない恐怖心と罪悪感の板挟み。私刑執行を待つだけの絶望的心境。頭がおかしくなりそうだった。
いや待て、エレベーターがここの階に止まるとは限らな……
チーン。
扉が開いた。
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