山間部に伝わる怪談
時代は江戸の終わりごろ
山越えの旅人に伝わる話があった
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この峠を越える時には、一つ飴玉を買っていけ
峠越え前の最後の茶屋で茶屋働きの娘にそう言われた
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「あんさん、ここの峠は怪異がでるとよ。悪いこと言わんき、飴玉こうていき」
当時は砂糖が買うに買われんような高値の時代、いい売り文句を考えたものだと感心しこそすれ意図に乗ってやるつもりもなかった
「なるほど怪異か、会ってみたくもあるし、あえて買わずに登るとするよ」
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私は出来るだけ友好的に申し出を断った
だが、娘はなおもいいつのる
「はあ、あんさんみたいなお客さんもたまにおられます。」
「けんどもミノだけは背負って行ってくんない?それだけはお願いしんす」
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まだ昼前、正午の鐘までもまだ遠い
晴々とした青空は雨の気配などかけらも感じさせなかったが
「そこまでいうならそうしよう。ミノだけはかけて行くよ。…ほら、こいつで満足だろう」
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背中に掛けた背嚢の上からミノをおい、娘に見せてやると
「ああ、それならまだまし、冗談でなくそのまま峠は越えてくださいな」
私は茶代を払うとそのまま峠に向かい歩を進めた
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峠に差し掛かる頃には正午を過ぎて太陽が燦々と熱を振りまいていた
「暑い、暑すぎる」
背負ったミノのせいで熱がこもる
もう茶屋の娘への義理は果たしたろう
ここらでミノを脱いでしまうかと思ったとき
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『おんぶ、おんぶ』
山道の横、竹林の中から声がした
さっきまで鳴いていた鳥の声が止み
一陣の風が吹き抜け、竹林が踊る
ザザッ、ザザー
『おんぶ、してけろ』
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ガシッと背中に何かが取り付いた
『おんぶ、えへへ、おんぶおんぶ』
重さに足がもつれる
後ろを振り返り見ようとすると
左後ろに少し傾げた顔に生臭い息がかかる
『おんぶ……してけろ』
際にきらめく白刃のような牙が見えた
コイツは正体を見たものを喰い殺す心積りだとわかった
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どうしようもないので、そのまま山頂を目指し登った
すると、後ろでガリガリ、ガリガリと音がする
肩にかかる重さと背中の動きから
後ろの化け物が片手で肩を持ちつつもう一方の手で私の背中をかきむしっているのだとわかった
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ガリガリ、ガリガリ、背中のミノの底板を削る音がする
あの時ミノをかぶっていなかったら私の背中は血塗れで山越えなどとても出来なかっただ
ろう
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山頂を越えて、ここで居なくなってくれやしないかと思ったが未だに
『おんぶ、おんぶ』と洞穴に響かせた残響のような声で呟くか
背中をガリガリかいているかのどっちかでいなくなる気配はない
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下りに入りかなり下までおりてきた
山頂周辺に自生していた竹林はなくなり
細い川の瀬とひのきの林が現れた
『おんぶー!おんぶー!』
化け物はひのき林が見えるころには一層意気高くなって叫んでいた
ここらから背中をガリガリやるのをやめていた
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このまま山を下ってもコイツが取りついていたらどうしよう
思うと泣きたいような心細さに襲われ何となく川へ向かって一節経を詠んだ
すると川の瀬の向こう山際の暗がりにボウッと光が差し奇妙な仏が現れた
神々しくも滑稽さを感じさせる仏は頭に鉄鍋を被っていた
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あなや!荷紐で袈裟懸けに掛けていた鉄鍋を我も同じと頭にかついだ
その寸で、ガリガリと頭の鍋が引っ掻かれた
後ろの化け物はもう言葉を発しなかった
ガリガリ、ガリガリと頭の鍋を掻くばかり
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ほほに、つーっと生臭いものが流れた
化け物は鉄鍋をかくうちに指を怪我したようだ
ほほを拭うと指先に粘度を持った液体がつく
木陰で見えにくいが確かに化け物の血だとわかる
この化け物は指から血を流してまでも、まだやめないのだ
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ガリガリといっていた音はもう君の悪い水音まじりになっていた
ここに来て後ろの化け物が哀れになった
もう山道が開ける
後はふもとの村まで一本道だ
よせばいいのに旅人はフイと後ろを振り返り見た
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そこには無数のまなこのついた巨大なお包みから腕を突き出した化け物があった
時同じく、山道を抜け茹で上がるような日差しを感じるとスゥと姿が溶け消え、重さを失った
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旅人は石工だった
山すその村で倒れて欠けた地蔵を直しに来た
ついでにと余りの石材で一つ像を彫った
村のものはそんなことされても余分な金はねえと止めたが
お構いなしにガリガリ、ガリガリ石を彫った
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金はいらねえからこの彫像を山道の入り口に
おいてくれ
そういって、できた小さな石像は母親が赤ん坊を背に抱く像だった
それから茶屋では飴玉が売れなくなったらしい
どっとはらい
作者春原 計都