Bは、入社して13年目になる男だった。
Bは入社以来、いつかは「担当」という役職に就きたいと念願し、彼なりの努力もしていた。
しかしBを差し置いて、入社して5年目の、まだ20代のAが担当の指名を受けた。Aは目端が利いて頭も良いと噂される男だったが、Bは納得できなかった。「経験値は絶対的に足りないだろ?」Bはそう思っていた。
そしてBは、Aの案件アシスタントを命ぜられた。
「俺はお前のことは、悪いとは思ってない。だからうちの部に残してる。ただ今回の案件は、Aに任せたい。お前の経験でAを支えてやってくれ」部長はそうBを諭した。
BがAの下について数日後、BはAから業務上の指摘を受けた。Aは言った。
「こんなミスするようじゃ、一生担当にはなれないですよ」
Aは高慢で、極めて傲岸不遜だった。Aは秀才ゆえに、自己のありのままの言動が周囲から良い評価を受けないことを知っており、普段は年上受けする好青年を演じていたが、自己より下級の者に対しては、ブレーキが利かない男だった。
加えてAは、とてつもない完璧主義者のうえ、人を使うのがひどく下手だった。結局Aは、ほぼ全部を自分でやるようになった。それからである。Aはアシスタントに、嫌がらせのようなことを指示するようになった。
Aには、Bを含めて3人のアシスタントが付与されていた。あるアシスタントは「今の条件で案件が成立した場合の、案件先の今後10年間の株価の推移予測をペーパーにしろ」とAから命ぜられた。
彼は、長大な時間と労力をかけて分析して、Aに提出した。Aはページをパラパラめくって一言「信憑性が薄い」とだけ言って、それをシュレッダーに入れた。Bに対しても似たようなものだった。さらにBの場合は、13年目ということについてのイヤミ言も加わった。
さらにAは、Bに対して人事評価の話をするようになった。アシスタントの評価は、担当の権限である。AはBに「業務態度不良、能力不十分。担当の適性なし」そういう報告を上にすると、何度も仄めかした。それが嫌なら「一分でも早く、自分が指示したペーパーを作れ」という話であった。
しばらくして、Bは精神的な変調を感じるようになった。Bが受診した心療内科医は、入院までは必要ないが、いったん職場から離れて療養するようにと勧めた。Bが診断結果をAに報告し、休職を申し出たときのことだ。
Aは「休職?いいんじゃないですか?好きに羽伸ばしてくれば。部長には既に報告はしたので、もう一生担当にはなれないのは確定ですから」
「報告なさったとは、何でしょうか・・・?」
「今まで、十分警告はしたでしょ。担当適性ゼロの報告と人事異動のことです。あと、あなたの懲戒処分の申請もしましたよ」
「え・・・?懲戒処分・・・?」
「私への反抗不服従と業務怠慢ですね。しかもあなた、必要のない出張を過去に何度かしてますね。重停職以上が必要と申請してます。近いうちに監察室から聴取があると思うんで、言い訳を考えといたほうがいいですよ」
Bは何も考えられなくなり、そのまま自主的に入院した。
入院中、Bは何度かカウンセリングを受けた。だいぶ気は楽になったが、Aだけは絶対に許せず、殺してやろうとさえ思っていた。そんなことを考えていたとき、ふと、大学時代の記憶がBの頭をよぎった。
Bは、台湾の歴史について勉強していた時期があり、そのときに教授と一緒に台湾旅行に行った。その教授は「近代東アジア地域の呪術」との変わったテーマを研究していた。教授のフィールドワークに、ゼミの有志数名がついて行った格好だ。
Bらは、台湾大学の研究者の紹介で、50年ほど前まで呪術を生業にしていた一族の老人と接触した。老人の年齢は80近く、非常に親日的で「日本から来たのか!」と喜び、夜はBらと一緒に食事に出かけた。
食事中、その老人は急病を発して倒れ、Bらが介抱して病院へ搬送し、奇跡的に数日で快癒するとの出来事があった。台湾での滞在も残りわずかとなったとき、Bらは老人から「礼がしたい」と家に呼ばれた。
老人は「これは特別な物だ」と言いながら、古めかしい小さなガラス瓶をテーブルに置いた。ガラス瓶は茶色の半透明で、蓋がしてあり、古く擦り切れかけている細長い紙で、何重にも封がされていた。中には黒い錠剤のようなものがいくつも見えた。
「これは何ですか?」教授が訊いた。
「フートンヤオ」と老人は言った。日本語に訳せば「契約の薬」だろうか。
老人の説明では、
『これを一錠飲めば、命と引き換えに魔物と契約でき、誰か一人を確実に呪殺できる。これは、私の祖父が若い頃に精製したもので、精製法は口伝で父に伝わった。しかし、戦争で父が死んだため、精製法はもう分からない。私が子供の頃は、これ一錠が、今の価格で80万元以上した。買いたがる者は5年に一人いるかいないかだったと聞いている。値段が高いからではない。飲めば確実に相手を殺せるが、その前に必ず自分も死ぬからだ』
すると老人は、その瓶の封印を開け、中身を出して見せた。真っ黒な錠剤だった。
「えっ!大丈夫なんですか?!」Bらは驚いた。
「はっはっは。信心深いお方だ。そういうお方がもっといれば、うちも儲かったんだが。こんなものを買いに来る人など、今は一人もいない。今の時代、誰も真に受けないよ。ただ今まで話したことは、本当に祖父から聞いたことだがね。うちの金庫に閉じ込められてるより、日本の恩人の研究に役立ててもらった方が、この薬も喜ぶだろう」
そう言って、命を助けてもらった礼として、瓶ごと教授に渡したのだ。教授はその薬について老人に色々と質問し、Bはノートをとったのだった。
「そういや・・・あの薬は、あの後・・・」Bは過去の記憶をたどった。
薬は、税関で問題になる可能性を考慮し、台湾大学経由で日本に送付させた。薬が日本に着いた後、教授のツテで成分を分析した。分析結果を要約すると『種類は不明であるが動物の黒焼き』に類似性を示しており『おそらく、服用しても人体に害はないだろう』というものだった。
そして重大なことを二つ思い出した。
一つは、老人の話は、その後清書して教授に提出したが、現地で書いたノートは、Bの自宅の押し入れに眠っていること。
もう一つは、研究室に薬が届いた日、Bは教授の目を盗んで、興味本位で1、2錠くすねて小さい袋に入れ、ノートにホチキスしたこと。
Bが退院を申請すると、医師は、あっさり許可した。Bは自宅に戻り、押し入れをひっくり返した。あった。
ノートには、黒い薬2錠が入った小袋が留められており、こう書かれていた。
【教授による質疑:李氏の応答】
1 服用時の儀式、様式:特になし
2 服用の方法:満月の夜のみ。所有する衣服で、最上の服の着用が必要 殺したい標的が使用する鏡の前で
3 鏡とは:標的が、一定時間姿を映すものなら、何でも可 祖父「若い頃、池の水で成功した例あり」
4 原材料:不知 祖父「数年から十年に一度、手に入るかどうかの貴重なもの」としか
5 具体的効能:実際の服用例は見たことなし 祖父「飲んで、契約が可能な場合は、すぐに向こうから来る。契約できない場合は、体に異常は起きず死なない 契約完了時、すぐにその場で死ぬ 相当な苦しみ 標的は、その鏡の前に立っているとき、殺される。標的が死ぬまで、呪いは解除されない」
6 どのように殺されるのか:不知 祖父からも聞いてない
『祖父「~~」』とあるのは、その老人が彼の祖父から聞いた内容だろう。記載は、この後数ページ続いていたが、彼は読まずにスマホを手に取り、月齢を調べた。
「今夜だ・・・」満月である。
「こんなものが効くはずがないし、何か分からないような物だ。飲めたもんじゃない。それに効くとすれば、俺は死ぬわけだ。悪いのはAだ。俺が死ぬのはおかしいだろ」はじめはそう考えていた。しかし、Bはやはり精神の均衡を失していたのだろう。だんだん「命に代えてもAを成敗すべきだ」という方向へ思考が旋回し始めた。
Bの耳に、Aからのイヤミ言が、繰り返し聞こえてきた。
『あいつのせいで、俺はもう担当にはなれないんだな。あいつはこうやって、これから先も、いろんな人の人生を壊していく。あいつはそういう人間なんだ。ここで俺が、それを止めるしかない』Bの壊れかけた心は、そう促した。
日没後、Bは、自分のいちばん高かったスーツ、ネクタイと靴を身に着け、自宅を出た。社屋に入ると、薬の服用場所を探した。
最初は、トイレを考えた。鏡があるからである。ただ『一定時間、姿を映す』との条件に合致するか疑問だった。用を足した後で手を洗うときに姿は映るが、せいぜい数十秒間だろう。Aのオフィスの中で良い場所を探そうにも、Aが残業していて、いつ帰るか分からないので無理だった。
ふらふら社屋内を歩き回っていると、#1会議室の前に来ていた。この部屋は、通称「1室」。Bが憧れた「担当」が、案件の重要事項や今後の進め方について上役にプレゼンし、業務指導や決裁を受ける部屋だった。
引き寄せられるように、1室に入った。廊下の照明が、壁の高窓やドア窓から入り、室内は真っ暗ではなかった。Bは、壁面スクリーンのそば、いつも担当がプレゼンをする位置に立った。
ふと横を見ると窓があり、憔悴したBの姿が映っていた。Bはここに決めた。
Bはポケットから例の錠剤を取り出すと口に含み、ごくりと飲み込んだ。
飲み込んでから数秒後、Bは、近くに誰かいるような気配を感じた。室内の空気が、はりつめていった。
次第にBの目の前の空間が、より暗く、黒くなっていき、やがて人の形になった。
墨でできたような、真っ黒な人。ぼさぼさの長髪で、小柄な女性のような体格だったが、腕が異常に長かった。男か女か分からない顔には鼻がなく、眉間にはさらに眼が一つついていた。頬の半ばまである横長い口で、にやぁ~と不気味に笑っていた。
「おわっ!」Bは驚いて腰を抜かし、尻もちをついた。
黒い人は、三つの眼でBを見据えながら言った。中国語に似たリズムの言語だったが、聞いたことのない言葉だった。それでも、なぜか意味が理解できた。
「お前は今、自分が何をしているのか、理解しているか?」との問いかけだった。
「あっあっ、はあっ、はっ・・・」驚きと恐怖で言葉が出なかった。ただBは、脳内では、黒い人からの質問に、肯定的な返答を浮かべていた。
「では、契約を望むか?」黒い人が更に問いかけた。
Bがこれにも肯定の認識を浮かべると、黒い人は
「ぎゃはははは!!!いひひひひ!!!」
と叫ぶように笑いながら、長い手をいきなりBの口に突っ込んだ。
「むぐぅ!んごぇぇ!!!」
同時に、Bは全身に、これまで経験のない異常な激痛を感じた。骨折なんて比較にならない激痛で、到底人間が耐えられるレベルのものではなかった。
「ごぉぉお!!!がっがあああ!!!!むぅぐぐぎぎい!!!!」
Bは、黒い手を口にくわえた状態であおむけに倒れ、釣り上げられた魚のように身体を痙攣させ、眼を裏返らせて泡を吹き出し、絶命した。
黒い人はBの絶命を察すると、Bの口から手を抜き出し、窓ガラスの方を向いた。「いひひひひ。ひひひひ」黒い人はヘラヘラ笑いながら、さも楽しそうに、両手の平でペタリペタリペタリペタリと何度も窓ガラスの表面に触れた後、溶けるように消えた。
1室には、しんとした静寂とBの遺体が残された。
作者フゥアンイー