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中編5
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合わせ鏡《府内駅夜話》

府内駅は、県内最大のターミナル駅だ。

最大といっても地方都市での話なので、東京や大阪のそれとは比べ物にならない。しかし、数年前の全面改築で高架駅となり、映画館や数多くのテナントが入る駅ビルは、県内最大級の複合商業施設だ。

俺は駅ビル内にあるカラオケ店で、ほぼ毎日のようにバイトをしている。親に頼み込んで大学の学費を出してもらっているので、生活費くらいは自分で稼ごうというわけだ。忙しく体を動かすのは好きなので苦ではないが、ときどき自分の本分が勉強なのかバイトなのかわからなくなるのが難点だ。

大学の授業が終わってから23時までがシフトだ。当然、帰りは終電になる。

汚い話なのだが、バイトを始めてからというもの、俺は終電に乗る前に駅のトイレで大きい方の用を足している。多分、夕食にカラオケ店の脂っぽい賄いを食っているからだろう。店を出る前にとか、家まで我慢して、というごもっとも意見はあると思うが、俺はトイレ掃除が嫌いなのだ。したがって、申し訳ない気持ちを抱きながら個室に籠っている。

いつも行くトイレは決まっている。カラオケ店からひとつ階を上がった、五階の飲食店街の片隅にある人気のないトイレ。そこの奥の個室だ。

そこに、いつの頃からか妙な奴がやって来るようになった。

遭遇するのはいつも週末だ。俺が用を足して個室から出ると、ソイツは手洗い場に立ち、鏡をしげしげと眺めているのだ。

最初は単なるナルシストかとも思ったが、どうも違うようだ。そいつは陶酔するというより、不思議なものを観察するように、あるいは探し物をするように、鏡を覗き込んでいるのだった。

俺はいつもソイツを、「なんだコイツ」と思いながら素通りしていた。妙な奴と関わり合いにはなりたくなかった。

しかしある日ふと、ソイツに見覚えがあるのに気づいてしまった。

「あ」

思わず漏らした俺の声に、ソイツが振り返る。気まずそうな顔で薄い笑みを浮かべ、小さく頭を下げてきた。

少しずれた眼鏡を片手で正す。やはり、俺はその顔のことを覚えていた。

「あの、府内大学の人じゃないスか?」

俺の言葉にソイツは驚いたように目を見開き、やがて「ああ!」と声をあげた。

「一昨日、図書館で」

「そうそう。俺が本を落とした時。あん時は、ありがとうございました」

「いえいえ、全然」

「今日は、前髪下ろしてないんスね。そっちの方が似合うと思いますよ」

オタクっぽくなくて、という言葉を俺は飲み込む。ソイツは苦笑いして、一昨日は前髪に覆われていた左目の辺りを小さく掻いた。

「…ところで、訊いてもいいスか?」

「なにを?」

「あの、いつもここで何してんスか? 鏡とにらめっこして」

繋がりは薄いとはいえ相手が知り合いとわかると、俺はここぞとばかりに気になっていたことを訊いてみた。

ソイツはやっぱり苦笑いして、「そう思うよねぇ」と鏡に目をやる。俺もつられて鏡を覗き込んだ。

鏡の中にはソイツと俺が、何人も映っていた。なんのことはない、合わせ鏡だ。このトイレには、左右の壁にそれぞれ二台ずつの手洗い場と鏡が、背中合わせになるよう設置されている。

「都市伝説、っていうのかな。ここのトイレの鏡を覗くと、合わせ鏡に映った何番目かの自分が、違ってるって噂があるんだ」

「違ってる?」

「うん。後ろを向いてたり、違う動きをしたり、老けてたり。色々らしいけどね。それで、ちょっと気になって」

「…へぇ。で、どうなんスか。違った自分が見えました?」

正直、俺はちょっと引いていた。自然と小馬鹿にしたような言い方になる。

合わせ鏡の怪なんて、小学校で噂になるような怪談だ。いい歳して信じているのもおかしいが、それを検証するためにしょっちゅう鏡を覗き込んでいるのもおかしい。控えめに言って、変人か暇人だ。

俺の口調に気分を害した風もなく、ソイツは小さく笑ってから鏡を見た。俺もつられて鏡に目をやる。

そこにはさっきと同じく、だんだん小さくなる自分の姿が無数に映っていた。

━━いや、違う?

小さな違和感に俺は眼鏡をかけ直した。

すると鏡の中の俺も、一斉に右手を目元に上げるはずだ。それなのに、列をなす俺の中に一人だけ、両手をだらりと下ろしたままの奴がいる。

まるで体が凍りついたように動かなくなった。呆然とする俺を嘲笑うかのように、鏡の中の小さな俺はゆっくりと両腕を組み、馬鹿にするように軽く顎を上げた。眼鏡はかけていなかった。

俺は唯一動く目玉をキョロキョロと動かし、なんとか状況を把握しようとする。しかしわかったことは、一人だけ腕を組む俺の立つ面には、隣にいるはずの男の姿はないということだけだった。

鏡の中の俺はやがて腕を下ろすと、ゆっくりと右手を前に突き出し始めた。探るように手を伸ばし、なにかを掴もうとするように指がクネクネと動く。右手は鏡の領域を超え、どんどん伸びて俺に迫ってくる。

━━さぁ、こっちと代われよ。

俺ではない誰かが、俺の声で頭の中に囁いた。

━━さぁ

━━さぁ

━━さぁ!

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パンッ!

突然の破裂音に、体がビクリと飛び跳ねた。

隣の男が手を叩いたのだとわかった途端、まるで長時間の潜水から上がった時のように、俺は大きく何度も息を吸った。吸い込みすぎてむせて、涙目になるまで咳き込む。

「大丈夫?」

背中をさすろうとしたソイツの手を、俺は思わず払いのけた。と同時にハッとして、「すんません」と謝る。

ソイツは、なんでもないと言うように静かに首を振る。

そしてニヤリと口を歪めて、言った。

「…どう? 違う自分が見えた?」

・・・・・

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それから、俺は例のトイレには一切足を向けなくなった。それどころか、駅でトイレを使うこと自体をやめた。毎日、自宅とバイト先のトイレ掃除に励んでいる。

あの時俺が見たものがなんだったのか、単なる見間違いか白昼夢か、それともなんらかのトリックがあったのか、それはわからないし、考えるつもりもない。喉元を掴まれるような恐怖は、二度と思い出したくなかった。

アイツのことは、大学で時々見かける。前髪で片目を隠した鬱陶しい髪型で、人畜無害そうな顔で友人と連れだっている。

俺に気づくと、小さく頭を下げたりする。

俺は絶対、それには応えない。

少し気まずそうな薄い笑みが、あの夜のことを思い出させるから。

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