カラスと白・二〈『話』シリーズ・外伝〉

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カラスと白・二〈『話』シリーズ・外伝〉

白鳥(しらとり)ハツヱと鷺山(さぎやま)みのが初めて出会ったのは、明治三十一年、ハツヱの祝言の日だった。

それは、奇妙な祝言だった。

墨村(すみむら)家の広い座敷に用意された祝膳。しかし、そこで賑わい食事に舌鼓を打つ祝い客は一人もいなかった。

出席していたのは、ハツヱと新郎の明夫(あきお)、明夫の両親、そして仲人を務めた明夫の叔父。加えて、なぜか末席にはひと組の少年少女がちんまりと座っていた。

祝言が始まる前に、二人のことはそれぞれ、明夫の弟である治彦(はるひこ)と、その許婚となるみのであると紹介されていた。

二人は、ハツヱたちの祝言に合わせて本日許嫁の約束を交わし、その上みのは、行儀見習いとしてこの墨村家に住み込むことになるらしい。

晴れ着を着た二人はまるで稚児人形のような愛らしさだったが、その態度は対照的だった。

いかにも勝気そうな目をして前を見据える治彦に対し、みのは体を小さくして俯いたままだ。その様子から、この婚約が、あるいは婚家に住み込むことが意に添わぬことなのであろうと、ハツヱには手に取るようにわかった。

角隠しの下から、隣に座る夫の明夫をチラリと見やる。明夫は緊張した面持ちで、膝の上で両手を握りしめ、まっすぐ前だけを見ていた。

━━このおかしな婚礼を、不思議に思わないのかしら。

ハツヱは呆れ、気づかれないよう小さくため息をつく。

そう、この結婚は奇妙だ。

なにしろ、書類の上ではこれは、嫁入りではなく婿入りなのだ。明夫が白鳥家を継ぐわけではなく、夫の名前を「墨村」から「白鳥」に変える、そのためだけの結婚。

『カラスに負けないために』

そんなよくわからない理由で強引に話を押し進めた明夫の叔父、新(あらた)の顔を、ハツヱはそっと覗き見る。痩せぎすで、祝いの席だというのに気難しい顔をして座っているが、新進気鋭の会社の社長に相応しく、凄みのある男性だった。

ハツヱは、もう一度こっそりため息をつく。

十六歳で結婚適齢期と言われる自分でさえ、こんなに不安に思っているのだ。まだ子供のみのは、どんなに心細いことだろう。

実の姉のように、優しくあの子に接してあげよう。

ハツヱはそう心に誓った。

・・・・・

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「すず丸、すず丸ー」

墨村家にやってきてから一年、ハツヱは拍子抜けするほど穏やかな日常を送っていた。

ハツヱが暮らすのは、広い墨村家の敷地内にあるこじんまりとした家だった。ハツヱたちの結婚に合わせて建てられたというその家は、畳の匂いもまだ新しい居心地のいい家だった。

玄関にはご丁寧に「白鳥」の表札が掲げられ、それを見るにつけ、あの奇妙な祝言が昨日のことのように思い出される。

元々は豪農の持ち物だったという墨村家の敷地は広く、母屋とハツヱたちの家の他に、義叔父の新の住む離れ、大小の蔵と二つの納屋、池や菜園もあった。暮らし始めて一年が経つが、ハツヱはまだ全貌を掴めてはいない。

「すず丸ー」

そんな敷地中を、ハツヱは飼い猫の名前を呼びながら、ウロウロと歩きまわっていた。

いつも昼寝をしているお気に入りの縁側と縁の下、つい先日登ったはいいものの降りられなくなって喚いていた庭の隅のネムノキ、一の蔵、二の蔵、表の納屋。

そのどれを巡ってみても、やんちゃ盛りの子猫の姿は見当たらなかった。

ガァ!

突然の大きな音に、驚いて振り返る。

屋根の上では、大きなカラスがまるで嘲笑うかのようにハツヱを見下ろしていた。

━━もし、カラスに狙われでもしたら…

自分の嫌な想像に首を振り、ハツヱはもう一度大きな声で飼い猫を呼んだ。

もちろん、応えはない。

「まったく。なんだって、こんなに広いんだか」

苛立ちを思わず言葉にした時だった。

「ハツヱねえさん」

振り返ると、赤い着物を着た少女が子猫を胸に抱いて立っていた。

「みのちゃん、すず丸」

安堵の声を漏らしたハツヱに、少女は小さく微笑み、子猫は悪びれる様子もなく甘えた声を出した。

・・・・・

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「まぁ、そんなところにいたの?」

お茶を淹れながら、ハツヱは呆れた声を出した。

みのによれば、すず丸は離れに続く渡り廊下のところで、大きなカマキリと睨み合いをしていたというのだ。

「お馬鹿さんね。今のあなたじゃ、まだカマキリにも勝てないわよ」

ハツヱが鼻先をつつくと、すず丸はヘソを曲げたようにそっぽを向き、首の鈴をチリンと鳴らした。

その様子を、みのはニコニコと眺めている。

みのとはそれぞれの婚礼によって結ばれた義理の姉妹という関係だが、一年が経った今では、ハツヱは彼女のことを本当の妹のように可愛く思っていた。

行儀見習いとして墨村家に来たはずのみのだが、現在寝起きしているのはハツヱたちの住む白鳥家だった。

みのは非常に内気な性格で、墨村家にやってきた当初は誰かとまともに会話することも、目を合わせることすら苦手な様子だった。元々の性格に加え、たった一人で見知らぬ家にやってきたことを考えればそれも当然とハツヱは思うが、許嫁の治彦は違ったようだ。

墨村家に来た当初は、みのは許婚らしく治彦と同じ母屋で暮らしていた。しかし、まだ十歳の治彦に許婚の意味など正しく理解できるはずもなかった。新しい遊び相手としてはじめは好意的に迎えたものの、時にやんちゃがすぎる治彦の遊び相手がおとなしいみのに務まるはずもなく、治彦の言動にみのはすっかり萎縮してしまった。そのうち食事も喉を通らないようになってしまい、困った義両親が治彦と距離を置かせるために選んだのが、ハツヱたちの新居だったのだ。

行儀見習いなのにいいのかとも思ったが、当のみのが少しずつ年相応の子供らしい明るさを見せるようになったので、ハツヱは安心した。ハツヱとしても、素直で気がきくみのがいてくれることは正直助かったし、同じ境遇の者同士近くにいられることは心強かった。

それはみのにしても同じだったのだろう。「ハツヱねえさん」と呼び、何かにつけ頼りにしてくれている。

「それにしてもみのちゃん、ありがとうね。私一人じゃとても見つけられなかったわ」

ハツヱが改めて頭を下げると、みのは照れたように俯き、小さな声を出した。

「でも、もっと向こうに行っていなくて、よかった」

「もっと向こう?」

「…裏の納屋の方です」

みのの表情が曇る。あぁ、とハツヱも合点がいった。

すず丸が見つかった渡り廊下の先には、義叔父が寝起きする離れがあった。その離れの奥にひっそりとあるのが「裏の納屋」と呼ばれる納屋で、見た目は菜園の脇にある「表の納屋」とそう変わらないが、立ち入りはおろか近づくことも固く禁じられていた。

禁じているのは、義叔父の新だ。

「そうね、裏の納屋の周りをウロウロしていたら、おじさまに怒られちゃうわ。でも、昼間はお仕事に行かれているから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」

みのを安心させるためにハツヱは少しおどけてそう言ったが、みのはフルフルと首を振った。

「…違うんです」

「違うって、なにが?」

みのはしばらく迷うように口を閉ざしていたが、やがて上目遣いにそっとハツヱを見た。

「ハツヱねえさんに、信じてもらえるかどうかわからないけれど……」

「?」

「うちは、あの裏の納屋に、なにかいるような気がするんです」

みのは消え入りそうな声でそう言った。

その言葉に、なぜかゾワリとしたものがハツヱの背中を駆け上った。両腕の毛穴が一斉開き、そこから冷気が入り込むような感覚に襲われる。

「みのちゃん。『うち』ではなくて、『私』と言いましょうね」

寒気を誤魔化すようにハツヱは言ったが、その言葉はどこか頓珍漢に響いた。

「なにかって、なにがいるの? 動物かしら」

「それは、よくわからないんですけど。でも、あれはきっと…」

口ごもるみのをハツヱは目で促す。

みのは覚悟を決めたように口を開いた。

「あそこにいるのは、うちたちと同じように生きているものとは、きっと違うんです。ハツヱねえさん、わかりますか?」

みのは縋るようにハツヱを見つめた。

みのの言葉の意味はよくわからなかったが、ハツヱはふと、実家の近くに住んでいた拝み屋の老婆のことを思い出した。先祖の霊と交信できると評判だったあの老婆から、似たような言葉を聞いたことがある。

「みのちゃん、あなたもしかして、拝み屋の血筋なの?」

「……うちは、ただ見えるだけで、なにもできることはないんです。でも、あの裏の納屋にはなにかがおって、それがうちは怖い」

みのは小刻みに震え、ギュッと唇を噛んだ。なにがいるのか肝心なところはよくわからないが、怖がっているのは確かなようだ。

「わかったわ、みのちゃん。もう言わなくても大丈夫よ。だからそんなに怖がらないで」

「ハツヱねえさん、うちの言うこと、信じてくれますか?」

「えぇ、信じるわ。きっと、おじさまもそれで裏の納屋に近づくことを禁じられているんだと思うわ。でも、近づかなければ大丈夫よ。ね、そうでしょう?」

みのは少し考えるように間を置いて、その後コクリと頷いた。

「たぶん…」

「なら、安心ね。さわらぬ神に祟りなし、って言うじゃない。それから……」

「それから?」

「みのちゃん。『うち』ではなくて、『私』と言いましょうね」

ハツヱがわざとしかめっ面をしてそう言うと、みのはようやく表情を緩めた。

「はい。気をつけます」

「よろしい」

二人は顔を見合わせクスクスと笑った。

笑いながら、ハツヱはそっと右腕に触れる。

みのの話を聞いてからいまだに、そこは粟立ったままだった。

・・・・・

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その日夫の明夫が帰ってから、ハツヱは昼間の話をしてみた。

「すず丸の奴、また迷子になったのか。首に鈴じゃなくて、縄でもつけてた方がいいんじゃないか?」

「嫌だわあなた、犬じゃないんだから」

明夫の冗談にハツヱは笑みをこぼした。

すず丸を連れて帰ってくれたのは明夫だった。ひと月前、「帰り道で鳴いていたから」と突然子猫を抱いて帰ってきたのだ。結婚して一年が過ぎても妊娠の兆しがないことを姑にチクリと刺され、気落ちしていたハツヱを思ってのことだとすぐに知れた。

ハツヱはそんな、少し気弱だが優しく誠実な性格の明夫を、好ましく思っていた。

明夫の晩酌に付き合いながら、ハツヱは昼間気になったことを訊いてみることにした。

「それにしても、すず丸が裏の納屋まで行っていなくてよかったわ。あそこは、どうして行ってはいけないと言われているんですか?」

つまみを口にしながら、明夫は「さぁなぁ」と首をひねる。

「もともとこの家は、叔父家族が住んでいた家だったんだ。叔父が今住んでる離れなんかは後から建て増ししたんだけど、納屋は昔からあったはずだよ。僕は小さい時によくここに遊びにきたけど、そのときは特になにも言われなかったなぁ。それが、五、六年前にここに引っ越してくるとすぐに、『あそこには近づくな』とキツく言われてね。理由までは教えてくれなかったけど」

「おじさまが、ご家族で…」

明夫は、ハツヱの言いたい事をすぐに理解したようだった。

「叔父には奥さんと娘さんがいたんだけどね。二人とももう亡くなってしまったんだよ」

「…そうですか」

「もっとも娘の方は、行方不明なんだけどね。八年くらい前かな、突然いなくなってしまったんだ」

「いなくなってしまった…」

昼間感じた寒気が、またもやハツヱの体を駆け巡った。

「それこそ、消えるみたいにね。みんなで大騒ぎして探したけれど、結局見つからなくて。僕より二歳年下の、賢くて可愛い子だったよ。本当なら彼女が、婿養子をとって明星新報を継ぐはずだったんだろうにね」

当時のことを思い出したのか、明夫は眉を下げて酒を口に含んだ。

「あの、奥様は?」

「僕たちの結婚の前の年に、川でね。このときも遺体は見つからなくて、空っぽの棺と叔父の姿が痛々しかった。そのすぐ後だったよ、叔父が急に縁談の話を持ってきたのは。あの強引さで話をどんどんまとめて、叔母の喪が明けてすぐに祝言を挙げたんだ」

「……」

「あのときはさぁ」

明夫は、少しばかりハツヱににじり寄ってきた。

「僕は少し、叔父に怒っていたんだ。叔母が死んだばかりだったし、結婚の理由だって意味がわからなかったし。僕ら兄弟を跡継ぎにと考えてくれるのは嬉しいけど、あまりに強引すぎるだろうとね。でも…」

「でも?」

「今は叔父に感謝してるよ。こうやってハツヱに会えたんだからな」

そう言って、明夫はハツヱに口付けを落とした。

ハツヱはそれに応えながらも、先ほどの寒気とともに感じた不安をぬぐいきれずにいた。

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