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カラスと白・終〈『話』シリーズ・外伝〉

長編11
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カラスと白・終〈『話』シリーズ・外伝〉

その夜遅くに帰ってきた明夫(あきお)に、ハツヱは詰め寄った。

「みのちゃんが、朝からいないんです。知っていますか?」

明夫は、しばらく目を泳がせたり口をパクパクと動かしたが、結局なにも言わなかった。

━━あぁ、やっぱりこの人は知っているんだわ。

ハツヱは全身の血が氷になってしまったように、身体中が冷え切っていた。

「……さ、寂しくなって、実家に帰ったんじゃないのか」

ようやく絞り出された明夫のその言葉が、虚しく耳をかすめていく。

「…私、みのちゃんを探して、裏の納屋まで行ってみたんです」

明夫が息を飲んだのがわかった。

「みのちゃんは、あそこですね?」

「み、見たのか⁈ アレを…」

「覗いてみたけれど、暗くてわかりませんでした。あそこにいるのは、いったい何者なんですか? みのちゃんはどうなったんですか⁈」

明夫が帰るまでの間、何度も同じ考えがハツヱの頭を巡っていた。

近づくことすら禁じられていた裏の納屋。

納屋にいた、黒い塊のようななにか。みのはきっと、裏の納屋にいるそのなにかを怖がっていたのだ。

義叔父の新(あらた)は、納屋にいるのは何者なのか知っていたはずだ。だからこそ、近づくことすら厳しく禁じていたのだろう。

自分たちの奇妙な結婚や婚約も、きっとその「何者か」に関係しているに違いない。

新の跡を継いだのは、夫の明夫だ。

では、明夫は裏の納屋の謎を知っているのだろうか。知っているからこその、昨晩のおかしな態度だったのか?

裏の納屋をあれほど怖がっていたみのが、自分から近づいたとは思えない。みのが怯えていた「何者か」に連れ去られてしまったのだろう。

まさか、自分やみのが墨村家に来たのは名前の件だけでなく、これが目的だったのだろうか。

それらの疑問をすべてぶつけると、明夫は観念したように肩を落とした。

「みのちゃんは、どうなったんですか」

震えながら口にすると、明夫はなにやらボソボソと呟いた。

「……だよ」

「え? なんですって?」

「だから、供物だと言ったんだ」

「くもつ……?」

聞きなれないその言葉は、嫌に禍々しく耳に届いた。

「どういうことですか」

「だから。納屋にいるヤツに、みのを供物として捧げたと言っているんだ!」

明夫は自棄になったように捲し立てた。

「あの納屋には、叔父がどこからか連れてきたバケモノが棲んでるんだ。叔父の娘のゆきも、叔母の千代も、そのバケモノに喰われたんだよ。叔父が自分で捧げたんだ」

「なぜ、そんなことを」

「なぜ? 少し考えたらわかるだろう。人喰いのバケモノは、我が明星新報の守り神なんだよ。うちの会社の急成長ぶりを、おかしいと思わなかったのか? 繁栄を約束する代わりに、ヤツは供物を求めるんだ。どうしようもない」

「どうしようもないですって⁈」

ハツヱの声は最早悲鳴のようだった。

「みのちゃんもそうやって捧げたっていうんですか。あなたがしたんですか⁈」

「僕は、なにも知らなかったんだ! すべて叔父が始めたことだ。社長になるまで僕はなにも知らなかったし、知っていたら叔父を継いだりしなかった!」

「みのちゃんを殺したのは、あなたなんですか⁈」

明夫はガックリとうなだれ、ため息のように「あぁ」と声を漏らした。ハツヱは全身の力が抜け、ヘナヘナとその場に座り込む。

「でも、僕が直接手を下したわけじゃない。僕は、あのバケモノに教えただけなんだ。次の供物はどれなのか……」

「同じことです。みのちゃんは、治彦さんの許嫁なのに」

「………」

長い沈黙の後、明夫は絞り出すように言った。

「治彦の許嫁は、別にいる」

「は?」

見上げた明夫の顔は泣きそうに歪んでいたが、その一方で、片頬を吊り上げ醜悪な笑みを見せた。

「だってそうだろう。どうして、将来有望な我が社の御曹司が、無学な田舎娘を嫁にもらう必要がある? 治彦にはちゃんと、墨村家にふさわしい許嫁がとっくの昔に用意されてる。叔父は最初から言っていただろう。欲しかったのは、正しく『鷺山』という名字だけだよ」

ハツヱの両目から涙が溢れた。

「そんな、そんな」

「お前にしたってそうだぞ、ハツヱ。子供でもできれば儲けものだと、みのより生かしておいたが、お前はとんだ石女だ。この家でバケモノの供物になるのを待つのが、この先のお前の運命なんだよ!」

泡を吹き、涙と鼻水を垂れ流しながら、明夫は怒鳴り立てた。怒鳴りながら、癇癪を起こした子供のように無意味に振り回した手が、何度か確かに玄関を指差した。

「あなた……」

「お前は、決してこの家から逃げられないんだよ、ハツヱ!」

その言葉を合図のように、ハツヱは弾かれたように家を飛び出した。

背中で、気弱で優しい夫が崩れ落ちながら嗚咽するのを聞いた。

・・・・・

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━━とにかく、ここから逃げなくては。このままでは私も殺されてしまう。

その思いだけで、ハツヱは寝間着のまま履き物も履かずに、家を飛び出した。

墨村家の敷地は塀で囲われており、二箇所にある門からしか出入りができない。菜園を突っ切り母屋の前を走り抜け、ネムノキを過ぎれば、ようやく表門が見えてきた。

飛びつくようにして門扉の取っ手に手をかける。しかし当然のようにそこには錠が掛けられていて、ハツヱの手を突き放した。

「あぁ、もう!」

涙が出そうになるのをグッとこらえて、ハツヱは辺りを見回す。

今夜は新月、微かな星明かりだけが庭を照らしている。目を凝らすと、自分を追いかけてくる人影がない代わりに、錠をこじ開けるのに都合が良さそうなものも転がってはいなかった。

視線を巡らすと、先ほど通り過ぎたネムノキが目に入った。名前の通り、無数に付いた細かい葉を眠ったように閉じてしまったその姿は、昼間見る涼やかなものとは違いなんだか薄気味悪い。細い枝葉が微かな風にも揺れる様子は、まるで骸骨が手招きをしているようにも見えた。

しかし、ハツヱの目はそのネムノキに釘付けになる。

ネムノキの樹高は塀をゆうに超え、一本の枝が御誂え向きに塀の方へ伸びていたのだ。

ハツヱの脳裏に、小さい頃の思い出が浮かんだ。近所の桜の木に引っかかった弟の凧を取るために、着物の裾をたくし上げて木登りしたこと。

━━枝は細いけど、なんとか登れるわ。登るしかない。

ハツヱは意を決してネムノキに近づいた。わずかなコブや細い枝に注意深く手や足をかけながら、ゆっくりと登っていく。

何度か滑り落ちそうになりながらもやっとのことで塀の上に跨ったときには、あちこち擦り傷だらけになっていた。

塀の外を見下ろすと、高さはあるがゆっくりと足から降りれば、大きな怪我をしなくてもすみそうだ。

ハツヱがホッとひと息ついた、そのときだった。

「おい」

唐突に目の前からそんな声がした。少年のようなまだ若い声だったが、今まで聞いたことのないほどの威圧感があった。

何者の声かはわからない。わからないが、逃げなければとハツヱの頭の中で警鐘が鳴り響く。

だというのに、体は金縛りにあったように動かなかった。ただ、目の前の一点を凝視することしかできない。

ハツヱのいる場所から二メートルと離れぬ塀の上に、少しずつなにかの形が生じていった。まるで夜の闇から溶け出した黒を集めて固めたような、より深い黒の塊。

やがてソレは、左右の翼を確かめるように大きく二、三度羽ばたかせた。そして、小さく首を傾げながら短い足でピョンピョンと跳ね、ハツヱに近づいてくる。

闇夜のカラス。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

見ようによっては可愛らしい鳥の仕草が、ハツヱには妙に禍々しいものに見える。

カラスは手を伸ばせば触れられるほどの距離まで来て、鋭い嘴を開いた。そこからは人間の言葉が漏れ出てきた。

「おい、お前。どこへ行こうとする」

先ほど聞いたのと同じ少年の声が、カラスの嘴から発せられる。目の前のありえない光景に、ハツヱは目眩がした。傾きそうな体を、塀を必死に掴んで支える。

カラスは確認するようにまじまじとハツヱの顔を眺め、また嘴を開いた。

「お前、今朝、見ていただろう」

それを聞いた途端、ハツヱの体は瘧にかかったように大きく震え始めた。喉が塞がれたように息もできず、悲鳴をあげて恐怖を外に放出することもできない。

頭の中に、今朝覗き込んだ納屋の中の暗闇が浮かぶ。

耳の奥で、あの恐ろしい咀嚼音がこだまする。

明夫が言っていたバケモノ、みのを供物として屠ったのは、目の前にいるこの小さな鳥なのだ。

雷に打たれたような衝撃を受けながら、ハツヱはそう理解した。

そして、次は自分の番なのだということも。

カラスは、なにがおかしいのか何度も首を傾げ、まるで笑うように薄く嘴を開いた。

「そんなに怯えずとも、今すぐお前をどうこうはしない。無駄な怪我をしないうちに、早く降りろ」

「……ど、ど、どういうこと」

短く息を吐きながら、なんとかハツヱはそれだけ口にした。

カラスは呆れたように嘴をカタカタと鳴らす。

「新(あらた)との約定だ、供物は五年に一度。今朝いただいたばかりだからな。お前はまだ先だ」

「わ、私を、食べる気なの? あの子のように…」

カラスは、また首を傾げた。

「お前は、そのためにこの家に来たのではないか」

違う、とは言えなかった。

ハツヱはガックリと肩を落とす。追い討ちをかけるようにカラスは続けた。

「逃げようなどとは思わないことだ。私の目はこの街中に届く。どこに行こうと逃れられないし、どこに隠れても見つけ出せる」

これから自分は、このバケモノの供物になる日を待ちながら生きていかなければならないのだろうか。食用の家畜のように、その日を待つことしかできないのか。

━━そんなのは、嫌!

俯いたハツヱの視界に、塀の外に暗く広がる地面が映る。塀の影も相まって、そこは奈落へ続く空洞のようにも見えたが、今のハツヱにとっては地獄の方がこの墨村家よりマシに思えた。

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「いま、明夫を呼んできてやる。そのまま大人しくしていろ」

カラスが翼を広げて飛び立とうとするより早く、ハツヱは頭から塀の外に身を投げ出した。

・・・・・

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明星新報の社長の新妻の訃報は、紙面にこそ載らなかったものの、すぐに人々の口の端に上った。

どこからともなく、子供ができないことを気に病んで自ら命を絶ったという噂が流れ、多くの人が疑うことなくそれを信じた。

社長の白鳥明夫はまだ年若かったため、次々に新しい縁談が持ち込まれた。しかし彼はどれにも首を縦には振らず、見合いすらしなかった。

そして妻の死から十年後、突如消息を絶った。

遺書めいたものが残されており、明夫の弟である治彦は早々に失踪ではなく自殺だと断定した。葬儀は親族だけで行われたが、棺は空だったともっぱらの噂だった。

社長の座を狙った治彦が兄を追い出したのではないかとまことしやかに囁かれたが、やがて治彦が社長として優れた手腕を振るうにつれ、自然と噂は消え、明夫とその妻の存在自体も、人々の記憶から薄れていった。

・・・・・

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・・・・

・・・

・・

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「なんでだ! なんで、みののことをなにも教えてくれん⁈ 遺骨の一欠片も渡さんつもりか‼︎」

鷺山五助(さぎやまごすけ)は、墨村家の門の前でかれこれ三十分はがなり立てている。しかしいくら怒鳴っても凄んでも、使用人らしき若い男は億劫そうな顔で

「だから、旦那様は今はおられないと言ってるだろう」

と繰り返すばかりだ。

「わしは、この墨村家の坊ちゃんの許嫁、鷺山みのの父親やぞ! お前のような使用人では話にならん、はやく当主を呼べ!」

「あのなぁ。あんたのように、誰それの身内だと騙って幾ばくかの金を握ろうとする輩が、この家にはわんさか来るんだよ。そんなのいちいち旦那様が相手にするわけないだろう。もしあんたの言うことが本当なら、追って旦那様から連絡が行くはずだ。とりあえず今日は帰るこったな」

最後には野良犬でも払うように箒を振り回され、尻餅をついた五助の鼻先で門は音を立てて閉められてしまった。

「騙りだと? 追って連絡をするだと⁈ クソッ、貧乏人だと馬鹿にしやがって」

悔しさのあまり、長く続く塀に拳をぶつけたときだった。

「あの……」

不意にかけられた声に振り向くと、そこには若い娘が一人立っていた。どこか寂しげな顔をして、肌の色は昼の日差しに透けるように白い。

「みのちゃんの、お父さまですか」

娘はか細い声で言った。

「お父さまなんてガラじゃねぇが、みのはわしの娘だよ。あんた、みののことを知ってんのか?」

娘は頷くと、着物の袂からなにかを取り出した。

「みのちゃんが使っていた櫛です。どうぞ、これを形見としてお持ちください」

「形見って…… やっぱり、手紙のとおり、みのは死んじまったのか」

落胆とともに五助が呟くと、娘も俯いてそっと目元を押さえた。

「なぁ、あんた。みのはなんで死んじまったんだ? わしはなにも、金を分捕ってやろうとか悪りぃ評判を流そうとか、そんなこと思っちゃいねぇんだ。ただ、ホントのことが知りてぇだけなんだよ」

五助は頭を下げたが、娘はそれより深くこうべを垂れて、首を振った。

「言えねぇのかい。金持ちの都合ってやつかよ」

唾を吐き捨てようとして、五助は思いとどまる。少なくとも目の前の娘は、みのの死を悼んで形見を分けてくれたのだ。

五助は改めて娘の姿をしげしげと眺めた。色白が過ぎるせいでどこか生気のないようにも思えたが、着ているものは使用人のそれなどではなく、言葉遣いや立ち振る舞いにも品がある娘だった。

「なぁ。あんた、墨村の家の人なんだろ。みのとは親しくしてくれたのかい」

「……私は、みのちゃんの義理の姉になる者です。みのちゃんを守ってあげられなくて、申し訳ありません」

「いや… 事情はよくわからんけど、あんたはきっとみのによくしてくれたんだろ」

そこで、娘は初めて微かに顔を綻ばせた。

「みのちゃんの形見を、家族の方に渡すことができてよかった。それだけが、心残りだったんです」

五助は手の中の櫛に目を落とす。これでみのが毎日髪を梳いていたのかと思うと、胸が締め付けられるようだった。

「ありがとうな。あんた、名前は…」

顔を上げた五助は、そこで言葉を失った。

先ほどまで会話をしていた娘は、もうどこにもいなくなっていたのだ。

走り去るような足音は聞こえなかったし、辺りを見回しても隠れるようなところはない。

しかし、五助の目にあるものがとまった。地面に落ちた淡紅色のそれは、手にとって見るとネムノキの花だとわかった。

頭上を見上げると、確かに塀の向こうに生えていると思われるネムノキが、こちら側まで大きく枝を伸ばしている。

「しかし、今時分花が咲くのかね…」

首を傾げながらも、五助はその花を櫛と同じように懐にしまった。

そして、固く閉じられた墨村家の門に今度こそ唾を吐きかけて、トボトボとその場を後にしたのだった。

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