とある清流沿いの集落で聞いた話。
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昔、旱魃からくる飢饉がその集落を襲った。田畑は枯れ、人々は山や川から食べられるものを手当たり次第とっていった。
そのせいで、清流にあれほどいた魚たちは、たちまち姿を消してしまったという。
あるとき、飢えた若者が食べるものを探して川中を歩いていた。魚はいなくとも、エビやカワニナなどいないかと期待したのだ。
しかし、旱魃で水量が減った川は水ばかりが澄んで、生き物の気配は感じられなかった。
落胆して川から上がろうとしたときだ。
視界の隅で、何かがキラリと光った。
近づいてみると、そこには一本の黒糸が水面を漂っていた。女の髪のようにも、絹糸のようにも見えた。
このような細い糸が目にかかるとは不思議なことだと、若者は糸を手にとってみて驚いた。
糸の長さは尋常ではなく、川のずっと上流まで続いていそうなほどだった。まるで、誰かがずっと先で糸巻きを解いているように思えたという。
少し力を込めて引くと、先で何かにつながっているのだろうか、糸はピンと張った。糸はしなやかだが丈夫で、強く引いても切れる気配はなかった。
空腹で動くのも億劫なはずの若者は、なぜかその糸を手繰って川を遡りはじめた。
ゆっくりと一時間ほども歩いた頃には、川幅は狭くなりかなり上流に来ていた。川は緩やかに弧を描き、深い淀みができている。
若者が手繰る黒糸は、その淀みで途切れていた。
彼は淀みを覗き込み、目を見張った。
見たこともないような大きな真鯉が、水中にたゆたっていた。そして若者の手の中の黒糸は、その真鯉につながっていたのだ。
真鯉は、まるで布がほつれるようにその身を糸に変え、淀みから下流に流していた。尾びれからほつれていったのだろう、その体はもう胸ビレから上しか残っていなかった。
若者が呆然と見守る中、鯉はどんどんほつれていき、とうとう姿がなくなってしまった。
鯉が変じた糸は一本の線となって、ゆっくりと下流に流れていった。
ふと若者は、それまで鯉がいたあたりに一枚の丸いものが浮いているのに気がついた。それは、手のひらの半分ほどもある大きな鱗だった。
若者は今見たものの証拠にと、その鱗を持って帰った。
それから二、三日して、飢えに喘ぐ集落に恵みがもたらされた。川から大量の鯉がとれるようになったのだ。
若者は、あのとき鯉がほつれてできた糸がたくさんの鯉に変わったのだと信じ、持ち帰った鱗を祀って祠を建てたという。
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「鯉の大漁のすぐ後には、大雨も降って日照りも解消されてな」
老爺は集落の伝説を、つい最近のことのように嬉しそうに語った。
「鯉さまさまですね」
「おうよ。おそらくその鯉は、天に登って龍になるのにいらなくなった体を、わしらのご先祖にくださったのじゃろう。だから今でもこの辺りじゃ、鯉を大事にしよる。なぁ?」
老爺は庭の池に語りかける。私もつられて覗き込んだ。
そこには、見たこともないような立派な真鯉が、まるで返事をするように大きな尾びれをくねらせていた。
作者実葛
以前他サイトに投稿していた作品を、加筆修正したものです。
画像を投稿してくださった方、ありがとうございます。