とある海辺の集落で聞いた話。
separator
nextpage
その集落では昔から、新年に海の潮を汲んで神棚に供える風習があるそうだ。
昔、ある若夫婦が年が変わってすぐに海に潮を汲みに出向いた。真夜中なので妻が夫の手元を灯りで照らし、夫は小さな手桶で波打ち際の潮を掬いとった。
桶を引き上げる直前、ふとなにか小さな黒いものが、桶の中に滑り込んだ気がした。
しかし、二人とも特に気にすることなく家路を急ぎ、桶を神棚に供えたあと、すぐに床についたそうだ。
次の日二人は仰天した。
小さな桶の中に、得体の知れない生き物がユラユラと漂っていたのだ。
それは中指ほどの大きさで、小さなナマコのようにもウミウシのように見えた。
しかし気味の悪いことに、その全身は黒い毛で覆われていた。ニセンチほどのその毛は柔らかそうに海水の中でなびいており、人間の髪の毛にそっくりだったという。
二人は不気味に思い、桶の潮ごとその生き物を海に返した。
しばらくして、二人に異変が起き始めた。髪の毛がどんどん抜けていくのだ。
朝起きたとき、梳ったとき、ちょっと頭を掻いたとき。普通では考えられないほどごっそり抜けてしまったのだという。
なにかの病気かと二人で医者にかかったが、髪が次々と抜ける以外はまったくの健康体だった。
結局、暖かくなる頃には二人の髪はすっかり抜け落ちてしまい、そして二度と生えてはこなかった。
あのとき汲み上げたという不思議な生き物のせいだろう、と集落の人々は噂したそうだ。
separator
nextpage
「それからみんな、新年の潮汲みは初日の出を拝んでからするようになったんよ」
その話をしてくれた老人は、そう話を締めくくった。
彼は、見事なまでの禿頭だった。
私の失礼な視線に気づいたのだろう。彼は頭をツルリと撫でると、「これは年のせいやな」と笑った。
そこに、彼の妻らしき老婆がお茶を出してくれた。
夏も近いというのに、老婆は耳まですっぽり覆う毛糸の帽子をかぶっていた。
暑くないのか問うと、
「若い頃からずっとこれですからねぇ。ないと落ち着かないで」
そう言って、ニコリと笑った。
作者実葛
以前他サイトに投稿していた作品を、加筆修正したものです。
画像を投稿してくださった方、ありがとうございます。