マグカップ

とある知人に聞いた話。

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彼女は、金婚式を目前にして夫を亡くした。

長患いで覚悟はしていた。五十年近くも一緒にいたがお世辞にも仲むつまじい夫婦ではなく、はっきり言って腐れ縁だった。

しかしそれでも、長年連れ添った伴侶を亡くすというのは自分で思っていた以上のショックだったようだ。そんなつもりはなかったのに、彼女はすっかり元気をなくし家に閉じこもりがちになった。

これではいけないとは思うのだがどうしても気持ちが外へと向かず、亡くなった夫のことばかり考えてしまう。そんなふうに数ヶ月が経ったとき、ふとあることに気がついた。

夫の愛用していたマグカップが、出した覚えもないのにひとつだけカウンターに出ているのだ。

何度片付けても、気がつけばカウンターにある。

最初は自分の認知症を疑った知人だったが、やがて思いなおした。

夫のマグカップは、温度変化で色が変わる素材でできていた。温かい飲み物を入れると、黒いカップが白く変わるのだ。

知人の目に付くときはいつも、中身は入っていなくともマグカップは白に変わっていた。知人は、生前の夫はコーヒーが好きで、よく一人でコーヒーを淹れてその香りと味を楽しんでいたことを思い出した。

自分には見えないが、きっと夫はまだこの家にいて、在りし日のように行動しているのだ。

知人はそう思った。恐怖はなく、むしろ嬉しかったという。

それからというもの、知人は毎日のように現れるマグカップを見守るようになった。時間はまちまちだったが、一日一回だけ現れるそれは、十分ほどで徐々に色が白から黒に戻り、完全に黒くなると最後に、余韻のように一瞬だけコーヒーの香りがしたそうだ。

やがて知人は家に閉じこもることもなくなり、以前のように外出を楽しむことも増えたという。

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「きっとご主人が見守ってくださっていたんでしょうねぇ」

私がほのぼのとした気持ちになっていると、知人は「違うわよぅ」と笑って首を振った。

「ある日ね、私気づいてしまったのよ」

「気づいた？」

「あの人ね、昔から自分の分だけしかコーヒーを淹れなかったの。私も好きなの知ってるくせにね。いつでも自分のことばっかり。死んでからもそんなだって気づいたら、なんだかあの人のことを思ってメソメソしてるのが馬鹿らしくなっちゃったのよ。私だってもうそんなに長くはないんだから、外に出て楽しまなきゃね」

知人はハハハ、とすがすがしく笑い、私は普段の自分の行動をつい振り返った。

マグカップはいまだ出現しているが、相変わらずひとつだけだという。