とある病院で聞いた話。
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そこは、戦後すぐに建てられたという古い精神科病院だった。
少女は、母親に付き添われて診察室に入ってきた。
カルテを見ると年齢は十六歳。病院の性質に合わず、健康的で年相応の外見だった。
ただ、右の頬に貼られた白く大きなガーゼが、必要以上の奇妙な違和感を感じさせる。
「今日は、どうしました?」
医者の決まり文句に、少女はそっぽを向いた。どうやらここにやってきたのは不本意らしい。隣に立つ母親が代わりに答えた。
「この子、顔の痣と話ができると言うんです…」
母親は、少女の顔のガーゼをゆっくりと剥ぐ。
現れたのは、五センチほどの長さの三日月型の痣だった。三日月の弧の部分が鼻を向いている。薄赤く派手ではないが、大きさがあるのでかなり目立つ。若い女性には失礼だが、どことなくピエロのメイクを彷彿とさせた。
「その痣は、いつから?」
「生まれつきです」
母親の話によると、彼女は生まれたときから右頬にその痣があったらしい。赤ん坊の白い肌にくっきりと浮かぶ仄赤いそれを初めて見たとき、母親は言い知れぬ不安感を覚えたという。
女の子の顔に痣なんて、と母親は気にしたが、顔のほぼ中心にあるので手術で取るのも躊躇われた。当の少女はその痣を疎むことはなく、むしろ気に入っているようだったので、除去することなくここまできてしまったそうだ。
少女は幼い頃から独り言の多い子供だった。母親はそれを、子供によくあることと特に気にとめてはいなかったが、まさか顔の痣とおしゃべりしているとは夢に思わなかったという。
成長とともに独り言は止んだが、それは人前で話さなくなっただけだった。ある日、自室でブツブツ呟いている娘を不審に思った母親が問い詰めると、右頬の痣と話していることを初めて打ち明けたのだそうだ。
母親がそこまで話したところで、口を噤んでいた少女が大きなため息をついた。
「もう、ママは心配しすぎ。別に変なことしてないんだから、ほっといてよ」
「変なこと、って?」
医者が尋ねると、少女はしばらく迷ってから渋々、
「大人が心配するような、悪い事はしてないってことです。学校のこととか友達のこととか、そんなことしか話してない」
と、早口で応えた。
母親が言うように、少女が自分の顔の痣と「話している」というのは本当らしい。通常はありえないその事象を、ごく当たり前のことと捉えているような響きが、彼女の言葉には含まれていた。
さて、どうしたものか。
医者が言葉を探していると、その沈黙を不信と受け取ったらしい少女は、キッと眦を吊り上げた。
「先生も、痣と喋るなんてありえない、私の頭がおかしいって言うんでしょ。私もそのくらいわかってます。でも、これって悪いことなんですか? 誰にも迷惑かけてないし、これくらいの秘密、人に言わないだけで誰でもみんな持ってるんじゃないの?
私は、この子と話すからって非行にも走ってないし、成績も落としてないし、ちゃんと学校行って友達もいて、親とも仲悪くないし。なにが問題なの?」
一気にまくしたてると、少女は医者を睨みつける。攻撃的な口調ではあるが内容は理路整然としていた。病識の有無ははっきりしないが、この年頃にはよくある屁理屈だ。
「君のお母さんは、心配しているみたいだね」
医者のその一言に少女は少しシュンとして、「心配性なんだから…」と吐き捨てるように呟くと俯いてしまった。
「ここは、あまり来たい場所ではないよね。それなのに来てくれてありがとう」
その言葉は意外だったのだろう、少女は少し顔を上げる。疑り深い視線に医者は苦笑した。
「僕はなにも、君やその痣を無理にどうこうしようとは思ってないんだよ。ただ、なにか困っていることがあるなら、力になりたいんだ。とりあえず、まだ聞きたいことはあるから、一ヶ月後にまた来てくれるかな?」
少女は返事をしなかったが、隣の母親が大きく頷いた。
「最後に、その痣をちょっと見せてもらってもいいかな? 触らないから」
少女の顔は険しいままだったが、少しだけ頬を向けてくれた。医者は椅子を引いて少女の右頬に顔を寄せる。
レーザー治療できれいに取れるだろうか。今すぐは難しくても、目立つ場所だから将来的には取ってあげたい……
医者がそんなことを思ったときだった。
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「よけいなこと、かんがえるなよ」
一気に体温が下がって気がして、医者は思わず身を引いていた。
診察室にいるのは自分と看護師、患者である少女とその母親の四人だけだ。しかし、今の声はその誰のものでもなかった。形容しがたいが、老若男女のすべての声を混ぜ合わせたような、気味の悪い声だった。
医者の様子を怪訝そうに見る母親とは違い、少女の顔には驚きと小さな喜びが浮かんでいた。
「なんだ、先生にも聞こえるんじゃん」
小声でそう言うと、少女は病院に来て初めて笑顔を見せた。
少女が笑うと、右頬の痣も小さく歪み、まるで三日月が笑っているように見えた。
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「一ヶ月後に予約を取っていましたが、少女は結局来ませんでした。でも、僕はなんだかホッとしてしまいましたよ」
医者はそう言って、小さくため息をついた。
「たった一回診ただけではなんとも言えませんが、あれは僕の手には負えないもののような気がしました。彼女の言っていることの方が、正しいような気がしたんですよね」
「つまり、痣が喋ると?」
「うーん、僕の口からはちょっと言いにくいんですが。まぁ、そういうことです」
私は、経験豊富な医者を困らせたという、少女の顔の痣を思った。
やはり申し訳ないが、頭の中でピエロが踊った。
作者実葛
以前他サイトに投稿していた作品を、加筆修正したものです。
画像を投稿してくださった方、ありがとうございます。