私は視線が堪らなく気になっていた。他人の視線ではない。自分の視線が気になってしかたがないのだ。
学校で試験を受けているとき、自分が誰かの解答を盗み見していないか気になる。また、あるときは電車で、隣に座った客の携帯画面を注視しているような気持ちになる。
私は次第に自分の視線が怖くなってしまった。
私の中に何かを覗きたいという潜在意識があるのだろうか。それとも、私の意識過剰であるのだろうか。
私は誰かの視線が気になるのではなく、自分の視線が気になるのだ。しかし、私の視線は右側に限られていた。
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私の視線に対する恐怖は日に日に強まっていった。
ついに恐怖が限界に達して、私は目を開けるのも怖くなってしまった。
そんな時、私は解決法を思いついた。視線の先に何か別のものを思い浮かべるのだ。人が隣に座っているとしたら、その人に被さるように別の物体を思い浮かべる。そうすることで、自分の視線を避けることができるようになった。
ところが、この方法もそのうちに上手くいかなくなってしまった。
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……別の物体を思い浮かべる。
……その物体こそが問題となった。
見たこともない女の恨めしそうな顔が視線をふさいで浮かびあがるようになってしまったのだ。
私は困り果てた。
女の顔は日に日に歪んでいくようだった。半開きの口からは、延びきった黒い舌が垂れさがっている。長く伸びた前髪の奥から血走った眼がこちらを覗いていて、とても気味が悪かった。
しかし、私は誰にも相談することができなかった。この女は自分の想像なのだから、想像をやめればいいだけの話だ。
私は、右側の目に眼帯を着けるようにした。
塞いでしまえばいいのだ。
そうすれば、視線を気にする必要もなくなる。
眼帯をずっと着けているわけにもいかず、視線に悩まされることは多々あったが、それでも私の恐怖はずいぶん軽減された。
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盆休みになって、私は実家に帰ることになった。私の実家はかなり田舎の方にある。帰省すると、家族や親戚に眼帯について訊かれたが、ものもらいができたなどといって曖昧に返事をした。
帰省してすぐは親戚の集まりに加わる必要があったのだが、3日目になるとすることはなくなった。昼間はだらだらとして過ごし、夜になるとなんとなく眠れなくて、私は自転車をこいで隣町のコンビニに行くことにした。
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家を出ると、街灯がちらほらと光っているだけで他には灯りもない。暗くて少々危険ではあるが、慣れきった道なので問題はない。
私は自転車をゆっくりこいで、曲がり角にさしかかった。その時に、ちょうど曲がり角にある小さな神社が目に入った。この神社は私が幼いときから馴染みのある神社で、神主さんとも付き合いがあった。そんなことを思い出していると、硬く刺さるような音が聞こえてきた。
こんこん…
コンコン…
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暗いのでよく見えない。しかし、音は神社から聞こえている。
神社の境内に広がる闇を注視すると、ぼんやりと白いものが浮かびあがった。
こんな時間に、人がいるわ……。
私は、気づかれないようにそっと電信柱の陰に自転車を押し込んだ。
神社の中にいたのは、白い装束に身をつつんだ女だった。私は、女が丑の刻参りをしているのだと察した。気味が悪くて悪寒がしたが、それでも、こんなこともあるものだと思った。 私は女に気がつかれないように、自転車を放置して、実家に引き返そうと歩きだした。
自転車は明日の朝に取りに来ればいい。
ところが、自転車の止めかたが悪かったのか私が数歩歩きだしたところで、自転車は横転してしまった。
ガッシャンと音がなって、私の心臓は止まりかけた。女に気づかれてしまう。丑の刻参りが他人に知れてしまうことはご法度だ。女が私を放っておくとは限らない。
私はすぐにでも駆け出したい気持ちがあったが、足がすくんで、走ることができなかった。仕方なく、私は少しだけ離れた場所に音をたてないように移動し、陰にしゃがみこんだ。
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女は神社からツカツカと音を立てて出てくるとあたりを見回した。そうして、私の自転車に気がついたようだった。しかしながら、女は私の自転車に近づくようなことはせず、神社の境内に引き返していった。私は少しだけほっと一息、胸を撫で下ろし、あたりを確認すると、移動して自転車をそっと立て直した。
帰ろう。
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ツカツカ ツカツカ ツカツカ
境内に引き返したと思っていた女は、神社のすぐそばの陰に隠れていたようで、満面の笑みを浮かべて私の方に駆けよってきた。女の顔は確かに笑っていたのだが、狂気じみていて、ぞっとするような寒さを感じた。
私はあわてて自転車にまたがった。
足がもつれてペダルがこげない。
女が私の近くによってきて高い声で話した。
アナタ…?
アナタ…?
女の声はキーが外れていて、耳に気持ちの悪い感覚が残った。
アナタが邪魔するから悪いの…
女は妙なことを言った。私は女の歪んだ顔を見て気がついた。
私はこの女を知っている。それは、私の視線の先に浮かんでくる女だった。
それから…ずっと昔、私が子どものころに見かけた顔だった。
私は、子どものころにも一度、丑の刻参りを見たことがあった。家族と喧嘩して家出をしたときのことだ。最初は祖父母の家に泊まりこんでいたのだが、母が恋しくなって夜中に抜け出した。 その時に、この神社でこの女を見た。私は駆け出して、家に帰ってから母に抱きついて泣いた。
私が、女の丑の刻参りを邪魔したのだ。
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女は気が触れているようで、私に近づいても危害は加えて来なかった。私は、自転車を死に物狂いでこいで実家へと引き返した。
その日は結局、眠れずに朝まで震えていた。朝になると、急用ができたといって現在住んでいるアパートに戻った。もう田舎には帰りたくない。
私の視線の先になぜ、あの女が浮かびあがるようになったのか、今なら理解することができる。10年前、私は女の丑の刻参りを邪魔した。それ以来、私は女の恨みの対象になったのだ。女は10年もの間、私を恨んで釘を打ち付けていたのかもしれない。女の呪いが私の視線の先に恐ろしい姿を浮かび上がらせていたのだろう。
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女の姿は、まだ視線の先から消えそうにもない。
作者鯛西