長編19
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「可哀想な中岡」

昔、大阪のテレビ制作会社で働いていたとき、そこにすごく可哀想なヤツがいたのでそいつの話をします。

  

  

その夜、家で寝ていた俺は同期の中岡からの電話で起こされた。

これからウチに泊めて欲しいと言う。

時計を見ると、時刻は既に2時近かった。

  

当時の職場は大阪市の北区にあり、一人暮らしの俺の家はそこからタクシーで1000円程度の距離だった。

どうせ仕事終わりに梅田辺りで飲んで終電を逃し、自宅までタクシーで帰る金が惜しいとかそんなんだろうと思った。

お互い明日も仕事なのに、元気なヤツやなと。

でも話を聞いてみると、実際の状況は思っていた以上にエグかった。

  

俺と中岡は4月に新卒で入社し、テレビカメラマン見習いとしてカメラアシスタントをしていた。

学校は違うが二人とも専門学校卒の20歳で、その頃は入社3ヶ月ぐらいだったと思う。

ついこの間まで気楽な学生だった俺たちは、社会の厳しさに揉まれる日々だった。

その日、中岡は早朝から日が落ちる時間まで屋外で再現VTRのロケ。夜に会社に戻り、片付けて終わりかと思いきや、そこから社内の小スタジオで室内撮りが始まり、撮影が終わったのは深夜1時過ぎだったらしい。

たぶんディレクターが組んでる撮影ボリュームがそもそも1日で終わる量じゃなかったんだろう。

撮影が終わり他のスタッフが帰ったあとも、中岡は機材の片付けをして、やっと帰れるとヘロヘロになりながら事務所にタクチケを取り行った。

事務所にはもう誰もいないだろうと思っていたが、行ってみるとまだ電気が点いていたので、誰かいるのかと思い、お疲れ様です、と言いながら事務所に入った。

しかし中には誰もいなかった。

トイレか喫煙所にでも行っているのかと思いつつ、中岡はタクチケが入っている引き出しに向かった。

電気が点いているとは言え、深夜に事務所に一人っきりでいるのは結構気味が悪い。

特にこの事務所では、深夜一人で仕事をしていた社員が不思議な体験をしたと言うような噂がいくつかあり、入社してまだそんなに経っていない中岡も、何となくではあるがその噂は聞いていた。

早くタクチケ取って帰ろう。

中岡は急いで引き出しを開けてチケットを取り出した。

あとは帳簿に名前と日付を記入すればいいだけなのだが、なぜか周りが気になって手が止まってしまう。

こういう風に夜一人っきりになったとき、なぜか人から聞いた怖い噂のことが頭に浮かんで離れなくなったりするものだ。

テレビ業界というのは怪談好きが多いのか、どの局、会社、スタジオにもこの手の噂話が一つ二つはある。

この事務所の噂もどうせ誰かが面白半分に作ったものだろう。

中岡もそう思って噂のことなんか信じてはいなかった。噂の内容もありきたりなもので、聞いた時はとくに怖いとも思わなかった。

曰く事務所に誰もいないのに何人もの人が歩き回る足音が聞こえるとか、

机に向かって仕事をしていると黒い影が前を横切るとか、

誰もいない会議室から話し声が聞こえるとか

「なんや中岡、まだおったんか」

急に後ろから話しかけられて飛び上がりそうになった。

振り返ると課長が事務所の入り口に立っていた。

「お、お疲れ様です」

心拍数が上がって声が震えてしまった。

「遅くまでご苦労さん」

課長は中岡に労いの言葉をかけながら肩をポンと叩き、奥の自分の机の方へ歩いていった。

中岡はまだバクバクいってる心臓の辺りをさすって軽く深呼吸し、帳簿の記入を再開した。

とそこで、中岡は違和感を感じたらしい。

課長は自分の席に座らずに立ったまま中岡の方をじっと見ている。

中岡は課長のことが苦手だった。

というよりも新人はみんな課長が苦手だったと思う。

課長は普段、常にムスッとした顔で眉間にシワを寄せていた。

ベテラン社員とは普通に喋るが、俺たち新人とはまともに挨拶もしてくれない。こっちから挨拶をしても無視されるか、せいぜい「あぁ」とか「おぉ」とか小さい声で言うくらいだった。

とにかく下っ端と話すのが面倒臭い様子で、感じ悪いし近づき難かった。

ところが、課長は今さっき中岡に労いの言葉と、肩にポンまでしていった。そんなこと今までなかった。

そもそも課長は何でこんな時間に会社にいるのか。いつも20時くらいには帰ってるのに。

そう言えば先輩からこんな話も聞いた。

もう退職した社員の話だが、深夜一人で仕事をしていたその社員がトイレに行ったら、事務所から大きな声で名前を何度も呼ばれた。

声が課長に似ていたから、何で課長が事務所にいるのかと思いながら慌てて事務所に戻ったが誰もいなかった。

次の日課長に聞いても夜に事務所に行ったりしてないと言われたとか。

中岡は課長の方を見た、課長は相変わらず無言でこっちを見ている。

今目の前にいるこの人は、本当に課長なのか?

「おい中岡ぁ」

「はいっ!?」

急に課長に名前を呼ばれて声が裏返ってしまった。

中岡はビックリしてまた心拍数があがったのと、コイツは何をビクビクしているのかと課長に思われてそうで恥ずかしくなり、顔が紅潮してしまった。

しかし直後に課長の口から発せられた言葉を聞いて、中岡は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

  

明日からの泊まりのロケ、カメアシで入る予定のヤツが熱出たって連絡来たから代わりにお前行け。ロケ地は奈良。朝6時には出発するからそれまでに準備しとけよ、って

  

「え、6時出発ですか?」

中岡が時計を見ると、すでに1時半を回っている。

6時に出発するのであれば、準備や打ち合わせのことを考えると5時頃には出社していなければならない。

やっとこれから帰ろうとしているのに、3時間半後にはもう会社にいなければならないということだ。

課長は中岡の問いかけには答えず、眉間にシワを寄せてただこっちを見ていた。

もう自分の用件は言ったから話は終わりなんだが、何でコイツは聞き返してくるのか?という顔で。

やっぱりいつもの課長だった。

  

今はどうか知らないが、当時のTV制作会社なんていうのはブラックそのもので、勤務時間もめちゃくちゃ、超体育会系で超縦社会、カメアシは上司やカメラマンから毎日のように罵声を浴びせられていた。(もちろん優しい人も中にはいたけど)

先輩たちからは、理不尽な目にあってもカメラマンになりたいなら辛抱せぇと、辛抱したヤツが一人前のカメラマンになれるんや、俺の新人の時はもっともっと厳しくて今なんか全然優しなった方やでウンタラカンタラと、相談したつもりが若い頃の苦労自慢を聞かされる始末でとにかく酷い環境だった。

なので新人は上司に反論はおろか、不満と取られるような言動をすることさえ許されない雰囲気だった。

  

「はい、わかりました。 

 お先に失礼します。」

中岡は重い足取りで事務所を出た。

  

実家住まいの中岡の家は会社からタクシーでも1時間以上はかかる。電車なら1時間半。これでは今から帰っても寝る時間は無い。そもそも5時に会社に来るには始発に乗っても間に合わない。

だから泊めてくれと言ってきたのだ。ウチに泊まれば上手くすれば2時間くらいは寝れる。

  

なんて可哀想なヤツだ。俺も入社3ヶ月にしていろいろと辛い目に遭っていたから他人事ではなかった。

こういう時は同期として助け合わなあかん。

そう思ってウチに泊めてやることにした。

でもこの時、カプセルホテルか漫喫にでも泊まれよと言ってやれば良かった。

その方が中岡の為だったと今は思う。

  

  

20分程して疲れ切った顔をした中岡がウチにきた。

「急に悪いな」と申し訳なさそうな中岡に、

大変やったな、とりあえず風呂入れよとタオルと寝巻きを用意して渡した。

中岡が風呂に入ってすぐに俺は寝落ちしてしまったらしく、風呂から上がってきた中岡に肩を揺すられて目を覚ました。

正直俺も疲れていた。

来客用の布団なんて持っていなかったが、流石に床に直では眠れないだろうと思い、掛け布団を床に敷いてやった。

「タオルケットもいる?」

「いや、大丈夫。これで全然寝れる、ありがとう」

寒い時期ではなかったので風邪を引くことはないだろうと思い、さてもう寝ようと電気を消そうとしたところに、中岡がまた申し訳なさそうに話し出した。

「俺明日から泊まりやねんけど、着替えがないねん」

俺は眠たすぎて頭が働いておらず、中岡が言いたいことが最初は分からなかった。

「出来れば服貸してくれへん?」

なんやそんなことか、ええよ貸したるわと、目をしょぼつかせながら中岡に貸す服を探した。

中岡は俺よりも体が大きかった。上はちょっと大きめのTシャツで問題ないだろう、ロケは一泊という話なので2枚貸してやった。でもズボンはちょっとサイズが合わなそうだった。

「ズボンはええわ、これずっと履くわ」

中岡はさっきまで履いていた自分のズボンを指さした。カバンの横にきれいに畳んで置いてあった。結構几帳面なやつだ。

まぁ泊まる先のホテルにコインランドリーあるかもしれんしなとかゴニョゴニョ言いながら、俺は頭からベッドに突っ込んだ。眠い。もう限界や。

「でもパンツもないねん」

「アホか!それはコンビニで買え!」

眠りに落ちる寸前に中岡の言葉が耳に入り、俺は反射的に突っ込んだ。

「そっか、そやなパンツはコンビニで買うわ。あ、待って、俺金あんま持ってなかったわ。泊まりやし一応多めに金持っていったほうがええよな」

そうか、じゃあ金貸してやろうか、あ、でも俺も今あんまり持ってないな、、、などと頭の中で考えるが、もう眠すぎて言葉が出ない。

「俺コンビニのATMで金下ろしてくるわ」

「えぇ?もう明日でええやろ」(超小声)

「いや、今寝たらもう時間ギリギリまで起きられへんと思うし、明日のカメラマン松木さんやから絶対遅刻出来んし寝る前に行ってくる」

たしかに、松木さんはめっちゃ怖いから絶対遅刻はできんなぁ、、あの人はカメラマンと言うよりほぼヤクザやからなぁ、、、こいつ明日からあの松木さんと一緒の泊まりロケなんか、、、、それが一番可哀想やな。

そんなことを思っているうちに玄関のドアがバタンと閉まる音が聞こえた。

その音を聞くと同時に俺は眠りについた。

   

   

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ここから先は後日中岡から聞いた話だ。

  

中岡は外に出たはいいものの、実は近くのコンビニがどこにあるか知らなかったらしく、とりあえず駅のある大通りの方に向かって歩いていったそうだ。

俺があまりにも眠そうだったので、最寄りのコンビニの場所を聞くのも気が引けたらしい。

大通りとは反対の方に行けば、すぐ近くにコンビニがあったのに。

だんだん気温が上がってきて夏らしくなってきた時期だったが、夜は風もあり少し肌寒いくらいだった。

大阪の中心部から程近いとは言え、下町の住宅街だ。深夜2時半に外を出歩いている人は一人もいなかった。

  

大通りに向かって歩いていたところ、その途中で閉じられたシャッターの並ぶ、細く暗い通りに出てきた。

中岡はもちろん知らないが、そこは古い商店街で、その頃既にほとんどの店が廃業しており、昼間でも人通りの少ないシャッター通りとなっていた。

道幅も狭いので車もあまり入ってこない寂しい雰囲気の場所で、近くに住んでいる俺も普段足を踏み入れることはなかった。

深夜の時間帯にそんな真っ暗なシャッター通りに入って行くヤツは普通いないと思うが、中岡はその通りに入って行ったと言う。

シャッター通りの奥の方に一軒だけ明るく電気が点いているところがあり、そこに見覚えのある看板を見つけたからだ。

店は閉まっているとは言え、住居兼用で人が住んでいるところもあると思うのだが、その時奥の一軒以外に灯りが点いているところは一つも無かったらしい。時間が時間なので当然かもしれないが。

暗いシャッター通りを抜け、灯りの前まで来た。

中岡の思った通り、そこは大手都市銀行の無人ATMだった。しかもこの時間も稼働している。

中岡は本当はコンビニで金を下ろして、ついでにパンツも買おうと考えていたらしいが、もうかなり疲れていて眠かったので、ここで金を下ろして早く戻って寝ようと思い、自動ドアを開けて中に入った。

  

2台並んだATMの機械は若干旧式のタイプで、チカチカする画面の中で、カクカク動く女性の銀行員のアニメーションがお辞儀をしていた。

中岡は入り口に近い右側の機械の前に立ち、現金引き出しの操作を始めた。

狭いATMの中でタッチパネルの操作音がやけに大きく響いた。

そして暗証番号を入力しているときに異常が起きた。

タッチパネルが反応しなくなった。暗証番号入力の画面のまま固まっている。

テンキーや取り消しボタンを押しても画面は切り替わらない。

「なんやねんこれ」

疲れてイライラしていた中岡は画面をドンドン叩いた。

プツっと、画面が突然真っ黒になってしまった。

あ、壊れた。

  

じゃあもう一台の方で下ろそうと、隣の機械の前に移動したところで気がついた。

キャッシュカードが機械に入ったままだ。

しばらく待ってみたが、やっぱり画面は真っ黒のままでカードが出てくる気配も無い。

中岡は途方にくれて、もう部屋に戻ろうかと思ったが、キャッシュカードが取られたままじゃ帰るわけにもいかない。

早く戻って寝たいのに身動きが取れなくなってしまった。

  

仕方なくATMの機械の左上の方にある、「機械の故障時には、こちらのインターホンで係員とお話し下さい。」と書かれて設置されている受話器を手に取った。

こんな時間でも誰か対応してくれるのだろうか。

不安に思いながら中岡は受話器を耳にあてた。

受話器から呼び出し音が流れる。

なかなか繋がらないので、やっぱり対応時間外かと思ったその時、呼び出し音が機械的な女性の声のアナウンスに切り替わった。

  

「そのままでお待ち下さい」

  

お待ち下さいってことは、誰か対応してくれるってことなんだろう。希望が見えたので、中岡は少し安心した。

繰り返されるアナウンスを聞きながら、ATMの機械に背を向けて腰掛ける様にもたれかかり、入り口の自動ドアのガラス越しに外を眺めた。

  

外はほぼ灯りが無く真っ暗で、この無人ATMだけが煌々と光っている様な状況だったので、ガラスにはATM内部の様子が反射して鏡の様にはっきりと映し出されていた。

その為、外はあまり良く見えなかったが、道を挟んだ向かい側の建物はかろうじて見ることが出来た。

向かいの建物も他と同じくシャッターが閉じられた元商店のようだ。

その建物の2階の方に目をやると、やはり電気の点いていない部屋の窓が見えた。

よくよく見てみると、その窓は開いている様だった。窓の脇から白いカーテンが外に向かってヒラヒラと少し出ていたそうだ。

あそこはまだ人が住んでるのかな。

そんなことを思いながら、中岡は受話器を耳に当てたまま、向かいの店の2階の窓をぼーっと眺めていた。

  

段々目が慣れてきたのか、最初は全く気づかなかったが、2階の真っ暗なその部屋の中に、人が一人立っているのが見えてきた。

見えてきたと言うか、浮かび上がってきた感じだったそうだ。

何となくだが、女の人のようだ。

  

外は真っ暗で、部屋の電気も点いていない。光源は中岡のいるATMの光だけだ。

人が立っていることはわかっても、服装や表情はよく見えない。でも女の人だということはわかった。

肩くらいまでの長さの黒い髪。細身で色が白い。

こっちの方を向いて立っている。

後日中岡からこの話を聞いたとき俺は、そんな真夜中の無人ATMで一人っきりの状況で、多分俺ならその時点で怖くなって帰ってるわって言った。

その時中岡自身も、もしかしたらアレは見てはいけないものかもしれない、と頭に浮かんでいたと言う。

でも不思議と恐怖心はあまりなかったそうだ。

受話器から一定のリズムで流れる音声が、催眠術のように思考を鈍化させていたのか、もしくはそもそも眠すぎて半分寝てしまっていたのか。

ただひたすらに、ぼーっとその女を見ていた。

ずっと見ていると、暗くて見えなかった女の姿が段々と見えるようになってきた。

目が慣れたからなのか、あるいは女が少しずつ窓の方に、こっちの方に近づいて来ているような気もした。

影になっているのか、前髪が掛かっているのか、目元は良く見えなかった。

でも口元は何となく見える。

  

女は何か喋っているように見えた。

何か口が動いている。

   

その女の口元を見ているうちに、中岡の心の中に少しずつ不安と胸騒ぎが広がっていった。

それに伴って自らの心臓の音もどんどん大きくなっていった。

そして遂には心臓の音が体中に鳴り響いて

突如、鈍っていた恐怖心が覚醒した。

   

   

中岡は気づいた。

   

「そのままでお待ち下さい」

  

受話器から繰り返される機械的なアナウンスと、

女の口の動き、タイミングが同じだ。

   

急に怖くなった中岡は思わず受話器を投げ捨てた。

コードに繋がれた受話器がATMの前の部分にぶつかって大きな音が響いた。

早くここから出ないと、

中岡は直感的に強くそう感じて、ATMの入り口に向かって走り出した。

入り口の自動ドアまでは4歩ぐらいの距離しかない。

勢い余って自動ドアのガラスに体ごとぶつかってしまった。

中岡はガラスに張り付いたまま、左手で自動ドアの開くボタンを連打した。

  

開かない。

ドアが開かない。

  

心の中の恐怖と焦りが膨らんでくる。

何度ボタンを押しても自動ドアが開かない。

ボタンの出っ張りに手をかけて、力ずくで自動ドアをこじ開けようとしたが、ドアは全く動かない。

中岡は怖くて女の方は見ないようにしていたが、ドアをこじ開けようとしているときに向かいの建物の窓が目に入ってしまった。

  

女はいなかった。

  

消えたのか?

  

状況が掴めず、中岡は窓を見つめていたが、直後に視界の隅に映った影に気づき、再び体が硬直した。

  

いる。

来てる。うしろに。

  

窓の方を見ていた中岡の視界の隅に、

鏡のようにATM内を映しているガラス越しに、

それが見えた。

中岡の後ろ、さっき操作してたATMの、だらんとぶら下がった受話器の前にそれは立っていた。

   

何でさっきまで、あんなものをぼーっと見ていられたのか。

何でアレを女だと思ったのか。

まずその異様な体が目に入った。

深海魚のように真っ白く、骨が浮き出るほど細い。

腹から太ももにかけて、真っ黒い無数の歪な斑点のような模様が広がっていた。

濡れたように張り付いた髪、その間から薄く開かれた目が見えるが焦点が全く合っていない。

首をゆっくりと左右に回しながら、半開きの口を時々ぱくぱくと動かしていた。

目の焦点が合っていないので、こっちが見えていないのかと思ったが、

ゆっくりと持ち上げた両腕は、しっかりと中岡の方に向けられていた。

  

中岡は体が震えて手も上手く動かせなかったが、必死で開けるボタンを押し続けた。泣きそうになりながら。

  

……あぅぅ…

うめき声が聞こえて、ビクッとなった。

後ろのアレがうめいているのかと思ったが違った。

中岡の口から声が漏れていたのだ。

…うぅぁ………あぅっ…

恐怖のあまり無意識に声が漏れる。

コントロール出来ない自分の声がさらに恐怖心を膨らませるので、中岡は右手で自分の口を塞いだ。

それでも指の間から声が漏れる。

…ゔぅ… ……ううっ…

  

…テシ

   

自分の声に混じって、明らかに自分ではない声が聞こえた。

子供のような老人のような、上擦ったような、かすれたような、抑揚の無い声だった。

  

…ウ……テシ

  

声が今度はすぐ後ろから聞こえた。

さっきよりも近づいて来てる。

右肩に何かが触れた。

思わず右に目を向ける。

灰のように真っ白くて、異常に長い指が見えた。

   

   

    

   

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朝になり、アラームの音で目を覚ました俺は、床で寝ているであろう中岡の方を見た。

中岡はそこに寝ていなかった。

寝てはいなかったが、中岡は布団の上で体育座りしていた。そして自分の足の親指を凝視していた。

声を掛けても反応がない。

「おい!中岡!?」

肩を揺すってやっとこっちを見た。

唇と手が小刻みに震えている。

やっぱり寒かったんだろうか。タオルケットも貸してやればよかったか。

中岡は震えながら、弱々しく自分の身に起こった事を話し始めた。

正直その時は、中岡の話は要領を得てなくて、何かATMで怖いものを見たらしいと言うくらいしか理解出来なかった。

ATMに閉じ込められていたけど、何とか帰って来れたと言うことだった。

 

閉じ込められたって、なんで?

それで何とか帰れたって、どうやって?

 

いろいろよく分からなかったが、走って帰ってくる時もアレの声が聞こえた、とか真っ白い顔で声を震わせて話すので、何だかこっちも怖くなってきて聞くのをやめた。

とにかくずっと震えているので落ち着くまで背中でもさすってやりたかったが、俺も仕事に行く時間があるのでそうも言ってられない。

  

ていうか中岡ももう会社に行かないとヤバイのでは?

むしろもうちょっと遅刻なのでは?

  

中岡にそのことを知らせると、時計を見て

  

「ヤバイ!!遅刻やっ!!」

と立ち上がって慌ただしく準備をはじめた。

体の震えは止まっている。

つい今体験した恐怖よりも、遅刻で怒られる恐怖の方が勝ったようだ。

  

「ああそうや。金下ろされへんかったんや。ごめん金貸してくれへん?」

「ごめん、今あんまり金持ってないわ。2千円しか無いけどいい?」

「えっ、、まぁとりあえずパンツが買えればええわ、ありがとう」

「足りんかったら松木さんに借りぃ」

「・・・そやな」

  

  

中岡は大急ぎで会社に向かったが、結局遅刻した。

しかも体も心も激しく疲労していた為、仕事中もミスを連発してしまい、松木さんにものすごくキレられたらしい。

それはもう、トラウマになるほどに。

その時の松木さんのキレようは、もうヤクザを超えて荒ぶる神のようだったそうだ。

中岡は何で遅刻したのか聞かれたけど、寝坊しましたとしか言えなかった。

「あの状況で、心霊体験をしたので遅刻しました、なんて言えるわけないやろ、頭おかしなったと思われるわ。」

ロケから帰ってきた中岡が落ち込んだ様子で話しているのを聞いたときは、もう可哀想過ぎて笑ってしまった。

  

  

  

でも、その後に起きたことは笑えなかった。

   

   

   

中岡はロケから帰ってきた次の日から会社を休んだ。

  

会社には中岡の親から体調不良だと連絡が入っていたらしい。

俺は心配して中岡に電話をかけたが繋がらなかった。

  

そして中岡が休んでから2日後、

俺の携帯に警察から電話が来た。

中岡のことで話を聞きたいと言う。

中岡に何があったのか、俺は緊張しながら電話口の警官に聞いた。

その内容は衝撃的で、最初は理解が追いつかなかったが、聞いてるうちに段々と状況が飲み込めてきた。

  

中岡は、俺の部屋に泊まったあの日、

あの無人ATMの中に閉じ込められて、

置いてあった消化器を手に持ち、

自動ドアのガラスをブチ破って脱出したのだ。

  

あの時中岡が言ってた、

何とか帰れたの「何とか」って、そういうことか。

  

当然銀行から被害届けが出て、現場のATMの機械に入ったままになっていたキャッシュカードの持ち主であり、防犯カメラにもバッチリ映っていた中岡は、警察から出頭要請をくらい、事情聴取を受けたそうだ。

犯行当日に俺の家に泊まっていたと、中岡が供述しているので、当日の様子を俺から聞くために電話してきたらしい。

単なる器物損壊ではない。銀行のATMで起こったことだ。

中岡はかなり厳しく取り調べを受けたらしいが、本人はガラスを破ったことを認めて反省していたし、ATMの機械が壊れて、更に自動ドアも壊れて出られなくなりパニックになった、という中岡の話も防犯カメラの映像の様子とほぼ一致していたので、身柄の拘束はされず自宅に返されたとのこと。

  

中岡の親がすぐに弁護士に対応を依頼したので、銀行とは示談の方向で話が進められ、中岡は幸い不起訴となった。

    

1週間程経って、中岡が出社してきた。

その頃には会社にも中岡が警察のお世話になったことは知られていたので、出社してすぐ会社の偉い人たちに連れて行かれて会議室でいろいろ聞かれていた。

とにかくパニックになっていたということを理解してもらえたようで、1時間ほどで開放されてた。

  

余談だがこの後しばらく、中岡はちょっとヤバいヤツ的な話が広がりカメラマン達の中岡への接し方が少し優しくなったらしい。中岡はその点だけは良かったと言っていた。

  

会議室から出てきた中岡は俺の顔を見ると、

「迷惑かけてごめんな」と謝ってきた。

警察から電話が来た次の日に、中岡からも電話が来て謝られていたし(中岡の親からも)、もちろん俺に中岡を責める気持ちはなかった。

「いやええよ。ほんま大変やったな」

実家に警察から出頭要請の連絡が来て、親と一緒に警察に行ったらしい。

取り調べの時の警官も怖かったし、自分は逮捕されるのか、前科がついて会社もクビになるのかと、不安で悲しくてずっと泣いてたらしい。あとオカンも泣いてたらしい。可哀想で俺も泣けてきた。

ただ何で自分から銀行に連絡しなかったのか、泊まりロケなんか行ってる場合やないやろと、そこについては少し言ってやった。

中岡が言うには、あの日の出来事はあまりにも非現実的だったし、実際あの時自分はかなり疲れていて、眠くて意識も朦朧としていたところもあったから、次の日になったら、もしかしてあの出来事は全部悪い夢だったのでは、もしくは幻覚だったのでは、ってそう思えてきたらしい。ガラスをブチ破ったことも夢だったんじゃないかと。

まあ確かに、日頃の疲れとストレスも相当あったことだろうから、夢じゃないにしても幻覚の類いだった可能性はあるなと俺も思った。

「じゃあやっぱり警察にも、ATMで見た "アレ"のことは話さんかったんか?」

俺が尋ねると、中岡はしばらく黙って、

  

「警察で、あの時の防犯カメラの映像を見せられたんよ。

俺あの時の記憶が蘇ってきて、映像見るのは怖くて嫌やったけど、警察の人が確認しろって言うから。」

  

中岡は警察官3人くらいと一緒に録画された防犯カメラの映像を見たらしい。

カメラはATMの機械の上の天井に取り付けられていたらしく、やや粗く彩度の低い映像がATM全体を俯瞰で映していた。

  

「俺があのとき見た アレな

  

ガッツリ映っとった。あの時俺が見たまんま。はっきりと。

でも一緒に見てた警察の人達がな

誰も映ってるアレのことには触れないのよ。

あんなにはっきり映ってるのに、

ほんまに全然見えてないみたいやった。

  

あぁ、俺以外には見えてないんやなって思って。

だから、そこにアレがいるとか、映ってるとか言えんかった。

だってもし俺がそれを言うたら、

  

画面の中のアレがこっち向きそうやんか」

  

防犯カメラの粗い画像の中で、アレが首を回してこっちを向く様を想像して俺は背筋が寒くなった。

ふと中岡の方を見ると、中岡は感情のない虚な目で俺の方をじっと見つめていた。

  

「なあ、結局 アレ って何なんやろか?

 何で俺だけに見えるんやろうか?」

  

俺は何も言えなかった。

その時は正直可哀想を通り越して、中岡自体が怖かった。

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@天津堂 さん
投稿を読んで頂きありがとうございます!
またコメントもありがとうございます!
私がテレビ制作会社で働いていたのは15年以上前の話なので、今は全然違うんじゃないでしょうか。
今の若い人はああいう理不尽に怒鳴られたり、意味不明な根性論にはついて来ないでしょう。

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@arrieciaアリーシャ さん
長い話を最後まで読んで頂きありがとうございます!!またコメントもありがとうございます!
泣いて頂けましたか!
自分的にはギリギリ笑える可哀想さを狙ったつもりでしたが、泣いて頂けたのであればそれはそれでよかったです。

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@アンソニー さん。
コメントありがとうございます!また最後まで読んで頂きありがとうございます!
ロッチの中岡!?
実は狙って付けました。可哀想さが増すかなと。

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中岡さん、命あってよかった。
なぜか、ロッチの中岡の顔が浮かんでます(笑)

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