以前勤めていた不動産会社にいた先輩の話です。
ちなみにその先輩は女の人です。
その日、俺は朝からずっと外出していて会社に戻ってきたのはもう夕方だった。
先輩と俺は席が隣だったんだけど、俺が帰って来たとき、先輩は誰かと電話してた。
俺はその日、結構大きな金額の申し込みが取れたので、それを先輩に自慢しようと電話が終わるのを待ってたんだけど、
その電話はなかなか終わらなくて、
電話の内容に聞き耳を立ててみると、
先輩は「すいません」とか「そうですよね」とか「ちょっとそれは難しいんですよねぇ」とか、
そんな歯切れの悪い相槌をずっと繰り返していた。
あぁ、これはクレームだな
そう思った俺は面倒ごとに巻き込まれるのが嫌なので、電話が終わって盛大にため息をついた先輩がこっちを見ていても、事務仕事に集中している感じを装って気付かない振りをしていた。
けど無駄だった。
「ねぇ聞いてよ」
俺は結構忙しそうな雰囲気を醸し出していたつもりだったけど、そんなことはお構いなしに先輩は話し始めた。
「品川ベイサイドマンションの入居者からクレームの電話が来てさぁ。
隣の部屋から夜遅くに音がしてうるさいって言うんだよね」
品川ベイサイドマンションは、マンション名から分かる通り、品川にある単身者向けの分譲マンションだ。
とくに先輩がこの品川ベイサイドマンションの担当という訳ではないのだけど、人数の少ない会社なので、クレームは電話を取った人間がそのまま対応するという風潮が根付いていた。
たまたま電話を取っただけの先輩には同情するけど、
騒音のクレームは解決が難しい上に、クレームを言ってくる人が神経質だったり、ちょっと病んでる場合も多い。
出来れば関わりたくないので、俺は何も答えずに忙しいアピールを続けた。
でもやっぱり無駄だった。
先輩は空気が読めない人で、はっきり言うと天然だった。
先輩は全く気にせずに話を続けた。
「それで隣の部屋の702号室はうちの管理じゃないから、マンションの管理会社に電話して問い合わせたの」
分譲マンションなので、各部屋ごとに所有者が違う。ウチの会社がマンションの全部屋を管理している訳ではないので、管理外の702号室の入居者に連絡を取るには、マンションを統括管理している会社に問い合わせて、702号室の入居者と契約している不動産業者に取り次いでもらわなければならない。
「そしたら管理会社の人がね、隣の702号室は今は空室だって言うのよ。
隣の部屋人住んでないのに、音が聞こえるとか言って、何なんだろうね?病んでるのかなこの人」
「………あぁ、そっちですか」
俺は思わず手を止めて話を聞いてしまった。
先輩は何て言うか、この手のやつを引き寄せる性質の人らしく、ちょくちょく不思議現象に関わってしまう。
でも天然だからなのか、怖がるとか不思議がるとか、そういう感覚が欠如している変な人だった。
「音って、どんな音なんですか?」
「何か壁を爪でガリガリ引っ掻くような音が、夜の0時くらいから明け方近くまで聞こえるんだって。
入居してるの若い女の子みたいでさ、眠れなくて困ってるって言うから可哀想で、何とかしてあげようと思ったんだけど」
誰もいない部屋から壁を引っ掻く音って、またベタなやつ来たな。
しかも住んでるのは若い女の子か、そりゃ怖いだろうな。
隣に人は住んでないなんて伝えたら余計怖がってしまうだろう。
こう言う場合、何て説明するべきだろうか。
先輩が話を続ける。
「入居者に、隣は空室なんだから隣から聞こえるって言うのは気のせいなんじゃないかって言ったんだけど、本人は絶対違うって言うんだよね。この部屋は角部屋で接してるのは702号室だけだから、音は702号室からしているって聞かなくって」
「え?その子に隣は空室だって伝えたんですか?」
「うん、伝えたよ」
可哀想に。俺だったらビビって部屋を飛び出すわ。
いくら天然だからって配慮が足りないと、先輩を咎めたけど
「じゃあ何て言えばいいの?」
と先輩に言われて考えた。
確かに、そのまま言う以外ないか。
「それでその子が、本当に隣から音がするから家に確認しに来てって言うの」
出た。やっぱり引き寄せてる。
先輩はこれまでも、いくつかの不思議現象に遭遇していたけど、話を聞く限り今のところ本人が所謂霊的なものに取り憑かれたりとか、祟られたりとか、危険な目に遭ってる様子はなかった。
でも今後もそうとは限らない。
かと言って、心配して一緒に行動したりすると、とばっちりでこっちが怖い思いをすることがあるのでたちが悪い。
「それで、行くんですか?」
俺は恐る恐る聞いた。
「行かないよぉ、だって0時だよ。流石にめんどいよ。マンションの管理会社に頼んで、騒音注意の貼り紙を1階の掲示板に貼ってもらうってことで、何とか勘弁してもらったけど、
多分解決しないよね、また電話かかってきそう」
ひとまずその部屋には行かないようなのでホッとした。でも確かに貼り紙なんかでは解決しなさそうだ。
「その音が本当にしてるのか、その入居者の気のせいなのか分かりませんけど、どっちにしても解決は難しそうですよね。
また電話がかかってきたら、もう対応出来ないって言っちゃっていいと思いますよ。他の部屋はうちの管理じゃないわけだし」
俺はそう言って、その日はこのクレームの話は終わったんだけど、
次の日の夕方、早速その入居者から電話がかかって来た。
しかも電話を取ったのは俺だった。
「すいません、品川ベイサイドマンションの701号室に住んでるものですが」
若い女の子の声だった。
「鈴田さんはいらっしゃいますか?」
鈴田は先輩の名前だ。その時先輩は外出していた。
先輩の不在を伝えて早々に電話を切ろうかとも思ったけど、どうせならここで決着をつけてやろうと代わりに話をすることにした。
「騒音の件ですよね、鈴田から聞いています。もうお聞きになってると思いますけど、隣の部屋は空き室なんですよ。注意の貼り紙はマンションを管理している会社がありますからそこに依頼します。後は音の出所も特定出来ないし、うちではこれ以上対応出来ないですよ」
自分より年下っぽい女の子の声だったので、ちょっと可哀想な気もしたけど、こう言う騒音のクレームは対応しても解決せずにずるずると長引いて、無駄に手を取られるだけのことが多いので、はっきり突っぱねてやった方がいい。
ましてや誰も住んでない部屋から壁を引っ掻く音が聞こえるなんて話、本当なら尚更関わりたくない。諦めて早く引っ越した方がいいと思う。
俺の話を聞いた入居者は冷静な口調で話し始めた。
「それなんですけど、誰も住んでない部屋から音が聞こえるなんて異常ですよね。もしかしてこの部屋、っていうかこのマンションって、事故物件じゃないですよね?」
ああ、そう来たか。
別に騒音を「幽霊か何かの仕業ではないのか?」なんて言われても、分かりませんで通せばいいけど、
「事故物件かどうか」を掘り下げられると少々ややこしいことになる。
このマンションについて俺自身は詳しく知らないけど、うちの管理物件である701号室で過去に事故があったのなら、当然会社は把握しているはずだ。
基本的にうちの会社も事故物件の告知義務については認識しているので、流石に701号室自体が実は事故物件ということはないと思う。
でも他の部屋については、会社も全部は把握してないだろう。
もし他の部屋で死亡事故や自殺が起きていたとしたら、原則はこの701号室にも心理的瑕疵の告知義務が発生することになる。
でもその告知義務の基準は曖昧で、何年前の事故まで告知する義務があるのか、どういう事故なら告知義務に入るのか、明確な線引はない。
仮に何処かの部屋で自殺があったとか、屋上から人が飛び降りたとか、そんな事実があったとして、それをうちの会社が知らなかったとしても、
入居者が「そんなことがあったと知っていたら、契約していなかった」
と言えば、告知をしていなかった不動産会社には何らかの賠償責任が発生する可能性がある。
とは言え賠償なんて話になるのは相手が訴訟を起こした場合で、実際にそこまでの話になることなんて稀と言うか、俺自身聞いたことがない。
この女の子がそこまで考えているかも分からない。
「いや、そう言った話は弊社では把握してないですよ」
とりあえず当たり障りのない回答で様子を見てみる。
「本当ですか?隣の部屋で過去に何かあったんじゃ無いんですか?」
「隣の部屋はうちの管理じゃないので詳しくは分かりませんけど、多分無いと思いますよ」
「それ、確認して頂けますか?その隣の部屋を管理している会社に」
ほら、だんだん面倒臭いことになってきたぞ。
「いや、流石に隣の部屋で事故があったらうちにも情報が入ると思うんですよね。何にも無いと思いますよ」
実際のところ、隣が事故物件でないと言う確証は無いけど、いちいち調べるのは面倒だ。管理会社に記録がちゃんと残っていればいいが、管理が杜撰で記録が残ってないケースもある。その場合どこまで調べれば納得してもらえるのか。
「本当ですか?本当に事故物件じゃないってことで、間違いないんですか?」
思ったよりしつこいタイプの子だな。
でももしこの子が自分で調べて、本当に他の部屋に事故物件があったら、この子はウチの会社に不信感を持つだろう。そしてその情報をどこに持っていくか分からない。
消費者センターとかに通報されたら会社に指導が入ったりするのだろうか。
SNSに書き込んだりするかも知れない。
どうなるかよく分からないけど、それはそれで面倒なことになりそうな気もする。
仕方がないので、隣の部屋、又は他の部屋で死亡事故や自殺など事故物件になり得る出来事がなかったか調べると入居者に伝えて電話を切った。
やっぱり、先輩の代わりに決着をつけてやろうなんて考えずに早々に電話を切ればよかった。
悔やんでもしょうがないので、とりあえずマンションの管理会社に電話で聞いてみた。
「え、事故物件?ですか?」
マンション管理会社の担当者はそう言った後、暫く沈黙しているので何とも気まずい気持ちになった。
忙しいのに変なこと聞いてくんなよって思われてるのかと考えていたところ
「……ええと、品川ベイサイドマンションは、ここに…」
沈黙していたのは何か資料を探していたせいだったようだ。電話口からかすかに紙をめくる音が聞こえた。
「あぁ、あったあった、702号室で死亡事故がありました。…ええと、8年前ですね」
「え!?本当ですか?」
まさかと言うか、やっぱりと言うか。
「それってうちの会社にも通知されてますか?」
「されてると思いますよ。その時は私の担当じゃないですけど、組合の集会で周知されたと記録されてます。多分議事録にも載ってるんじゃないですかね」
集会の議事録はうちの会社にも届いているはずだ。
つまり把握してないのはうちの会社のミスだろう。
「それで、その死亡事故ってどんな事故なんですか?」
「いや、死亡事故としか記録されてないです。詳しいことはこちらも把握してません。ただ、自殺とか殺人とかならそう記録されていますので、ただの事故じゃないですかね」
死亡事故の内容は少し気になるけど、最低限知りたかったことは案外あっさり知ることが出来た。
このことを701号室の入居者に連絡しようかと思ったが、そこで少し考える。
これを伝えたらあの入居者は何て言うだろうか。
そうだったんですね、と納得して話が終わるとは思えない。
何で契約前に教えてくれなかったのかと更なるクレームに発展する可能性が高い。
あぁ、やっぱり面倒臭い。
何で俺がこんなことで悩まなければならないのか?
先輩の代わりに電話を取っただけなのに。
そもそもこの入居者が契約したときに、隣の部屋のことを告知しなかった当時の担当者が悪いんだろう。
この会社のそんなに多くはない管理物件の募集や契約業務を統括しているのは部長だ。
俺はこのことを部長に報告しに行った。
「ああ、702号室だろ。知ってるよ」
一通り報告したところで、部長がアッケラカンとした声で言った。
部長は、会社立ち上げ当時から社長の右腕として社員をまとめてきた人なのだが、威厳とか厳格さなどとは対極に位置するタイプの人だった。
よく言えば親しみやすく相談もしやすい上司なのだが、悪く言えば何とも言動が適当で軽薄な印象を受けてしまう。
要するに何だか軽くてチャラいおじさんだった。
「え?じゃあ701号室の契約の時に、702号室の死亡事故のことは告知してるんですか?」
「してないよ」
してないよ、じゃねぇよ。しろよ。
とは言えないので俺は黙って聞いていた。
「だって、もう8年も前の話だよ。あん時は結構騒ぎになったけどさ。もうあのマンションに当時から住んでる人はいないでしょ。そしたら入居者がそれを知ることなんてないから。
それにあれから入居者も二回入れ替わってるし、もう告知義務ないよ」
確かに、事故後入居者が複数回入れ替われば、告知義務がなくなると言うような話をよく聞くけど、実際はその理屈に根拠はない。
ただ業界内で語られる通説として入居者に話す材料くらいにはなるかも知れないけど。
「じゃあ、うちに告知義務違反は無いっていうことで、今の入居者にはありのまま話していいですか?」
俺が部長に確認を取ると、部長はしばらく考えて、
「いや、一応うちも知らなかったってことにしておこうよ。
知ってて黙ってたってなると具合悪いでしょ。もうこんなとこ住めないから引越し費用払えとか言われちゃっても困るしね。
8年前の担当者はもう退社しててよく分からなくなってたとか何とか言ってさ。まぁ、8年前の担当者は俺なんだけど。
それで菓子折かなんか持って行って謝れば大丈夫だよ。
万が一それ以上何か言ってきたら、うちも弁護士立てるってかましてやんなよ。多分それで何も言ってこなくなるよ」
不誠実で姑息な考えだなと思う一方で、まあ妥当な対応かなとも思った。
考えてみれば隣の部屋で過去に人が死んだと言っても、それ自体うちが悪いわけじゃないし、それについて必要以上にヘコヘコすることも無いと言えば無い。
とりあえず部長の言うような方向で入居者に話しをしよう、あ、そう言えばさっき電話が来たとき入居者の連絡先聞いとくの忘れたな。まあいいか、うちの管理物件なんだから入居者の電話番号は名簿に記載されてるだろうし。
とそんなことを考えながら自分の席へ戻ると、外出していた先輩が戻って来ていた。
「おう、おつかれちゃーん♪」
ニコニコしながら申込書に記入をしている。
多分契約が取れて機嫌がいいんだろう。
一連の話を先輩に伝えた。
「何か悪いねーいろいろやってくれてありがとねー」
702号室で8年前に死亡事故があったと聞いても、先輩は驚くそぶりも見せなかった。
本当に状況を分かっているのだろうか。
「じゃあ、私からあの子に連絡しとくね」
大丈夫だろうか。かなり不安だが、ここでお節介を焼くから俺はいつも面倒なことに巻き込まれるのだ。
もう後は先輩に任せようと決めて、俺は家に帰った。
次の日俺は休みだったので、2日後、会社で先輩にあの入居者に連絡したのか聞いた。
「したって言うか、昨日また向こうから電話が来たよ」
先輩はそこで話を止めた。
そして真顔でこっちを見ている。
あ、何か嫌な予感する。
もうこれ以上聞くのはよそう。
外出の予定はもう少し後だったけど、少し早めに出てしまおうと、俺はわざとらしく慌ただしい様子で準備を始めた。
「そしたらさぁ」
先輩は構わず話を続ける
「何か、音が増えてるって」
先輩がまたそこで話を止める。
そこで止められたら、どうにも気になってしまう。
「……増えてるって、どういうことですか?」
「何かね、部屋の中を重いものを引きずって歩き回るような音なんだって、しかもその音が部屋から出て来て、701号室の玄関の前まで来るらしいの」
「何か更にヤバい感じになってますね」
「あと声も聞こえるって。隣のベランダの方から女の人の笑い声がするんだって」
「…それで、先輩は何て言ったんですか?」
「702号室は人住んでないから、笑い声は他の部屋からですよって」
何か空気の読めない感じがするけど、返答としては間違ってない。
「でも絶対702号室からだって言い張るのよねあの子。そんで702号室って過去に何かあったんじゃないですか?って聞いてくるからさ」
「死亡事故のことは話したんですね」
「うん、8年前に事故があったらしいですよって伝えて、それで言ってなかったこと謝ろうかと思ったの。そしたらあの子が、どんな事故だったのかって、すごい勢いで聞いてきてさ、そんなに聞かれてもこっちも知らないから困っちゃってさ」
何だかよく分かんない方向に話が進んでいってるな。
「私に事故のこと調べて欲しいって言うわけ、そんなことまでするわけないじゃん?だからそれはもうウチでは分かりませんって言い続けてたんだけど」
やっぱり何か良くない方向に進んでる気がする。
「じゃあ事故のことは調べなくていいから、隣から聞こえてくる音を確認しに家に来て欲しいって言われて…」
「……え?まさか、音聞きに行くんですか?」
「うん、もう根負けしちゃって」
しまった。やっぱり俺が電話すればよかった。
「ちなみにいつ行くんですか?」
「今日の夜、0時」
「………へぇ、大変すね。じゃあ俺これから案内あるんで、行ってきます」
「ねぇ一緒に来てよ」
半ばこうなることは分かっていた様な気もするけど、一応抵抗してみる。
「え?何で俺も行くんですか?」
「昨日そのあと考えたんだけどね、702号室が空室ってことはさ、もしかして賃貸で募集出てるんじゃないかって思って、そんで調べたらあったの702号室の募集」
先輩は702号室の募集図面を机の上に出した。
備考欄に「心理的瑕疵あり」としっかり記載されていた。
「募集出てるなら鍵借りて中入れるじゃん。だからさ」
「夜の0時に701号室と702号室、両方の部屋からその音を聞こうってわけですか?」
「そうそうそう」
先輩が朗らかに笑って答える。
この人、本当に恐怖心とかないんだろうか。
------- 2/3へ続く
作者エスニ
去年投稿しました「屋根裏部屋」の先輩と俺が再登場する作品です。出来ればこちらも一緒にお読み頂けると幸いです。
「屋根裏部屋」↓
https://kowabana.jp/stories/33637
長いので3話に分けました。
空き時間に1話ずつでも読んで頂けませんでしょうか。
どうかどうかよろしくお願いします。
クレームの電話 (2/3)↓
https://kowabana.jp/stories/34319
クレームの電話 (3/3)終↓
https://kowabana.jp/stories/34320