長編16
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クレームの電話 3/3終

次の日

寝坊してかなり焦ったが、何とか時間ギリギリに出社した俺は、その日先輩がちゃっかり休みを取っていたことを知り愕然とした後、フラフラと自分の席に座った。

昨日の夜、702号室の中を探し回ったけど、結局あの女の子は姿を消したまま見つからなかった。

まさか先輩と俺の目を盗んで701号室の方へ入ってしまったのかと、701号室を見に行こうとしたけど、鍵がかかっていて入れなかった。

先輩が入居者から聞いていた携帯番号に電話をかけた。

先輩はしばらく携帯を耳に当てていたけど、程なくして手を下ろし携帯を閉じた。

「電話に出ないんですか?」

「ううん、現在使われておりません、だって」

途方に暮れてしばらくの間立ち尽くしていたけど、このままここにいてもどうしようもないので、もう帰ろうということになり、車に乗り込んでマンションを離れた。

時刻は2時近かったが、眠気は全く感じなかった。まだ頭の中は少し混乱していたけど、とにかく今は落ち着いて安全運転で帰ろうと思い、隣の先輩を見た。

車を出してまだ5分も経っていないのに、先輩はもう寝ていた。

 

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午前中は頭がぼーっとして仕事が手につかなかった。

昨日のあの女の子の最後の言葉を、頭の中で何度も反芻してしまう。

あれは、つまり、そう言うことなのか?

俺は仕事を中断して、社内の書類を保管している資料室に移動した。

資料室に入ると、管理物件に住む入居者の情報を保管している分厚いファイルをスチール製の棚から取り出し、品川ベイサイドマンション701号室の情報を探した。

  

入居者の名前は高松祥子、外資系保険会社の日本法人本社勤務。

免許証のコピーがファイルに挟んであった。

免許証の写真を見ると、パリッとメイクをした割と美人な女性だった。

昨日会った入居者とは顔が違うけど、女性はメイクによって見た目が結構変わるしな。それに免許証の写真って、実物と違って見えることが多いし。

さらに生年月日を見ると、俺よりも年上だった。

計算すると現在36歳。

まあ、若く見える人っているよね。

心臓の鼓動が早くなっていく。明らかに昨日会った入居者と、このファイルに保管されている入居者の情報は重ならない。

それでも何とか自分を納得させられる理由を、寝不足の頭で考えた。

もしかして姉名義で借りた部屋に妹が住んでるとか?

「何か疲れた顔してんねー」

突然話しかけられて驚き、何故かファイルを慌てて閉じた。

いつの間にか隣に、いつものように軽薄な笑みを浮かべた部長が立っていた。

「あ、お疲れ様です」

「お疲れ様。そう言えば西君さ、この前言ってた品川ベイサイドマンションの入居者とはあの後どうなったの?」

ちなみに西は俺の名前だ。

いつも部下の仕事に特に干渉してこない丸投げ気質の部長が、仕事の報告を求めてくるなんて珍しい。部長にとっても気になる案件だったのか。

ただ俺自身まだ頭の整理がついておらず、何と報告していいか分からない。

「あ、ええと、一応昨日行ってきたんですけど…」

「あっそう、もう話して来たのね。で、どうだった?」

「まあ、多分、告知義務のことについては、どうこう言ってくる事はなさそうでしたけど…」

「…けど何?何か問題ありそうなの?」

「ん〜。何て言ったらいいか…」

「なになに?あんまり納得してなさそうってこと?」

「何か、702号室の死亡事故のことに凄く執着してるんです。どういう事故だったのかとかをしつこく聞いて来て、ちょっと、いやかなり変な感じの女の子で…」

俺の話を聞いた部長の顔が少し険しくなった。

「ふーん、それで最後はどんな話で終わってるの?」

上手く説明しようと考えるが、寝不足で頭が働かない。

「最後ですか?、ええと、最後は……私なんで死んだんですかって、そう言われて、それで、いなくなっちゃったって言うか、消えちゃったって言うか…」

部長は眉間にシワを寄せて、黙って俺の方を見ていた。

何言ってんだコイツって思ってるんだろうけど、実際そうなんだから仕方がない。

これ以上聞かれても答えようがないし、むしろ誰かに答えを教えて欲しいくらいだ。

沈黙していた部長が口を開いた。

「それってつまりさぁ、その女の子は、702号室で死んだ人の幽霊だったってこと?」

部長から予想外の言葉が出て来たので、何と答えていいか分からず、口を開けてポカンとしてしまった。

そんな俺を上目使いで見ていた部長は

「そっかぁ、やっぱそうだったんだねぇ…」

そう呟きながら、そのまま部屋を出て行こうとしたので慌てて止めた。

「ちょっとちょっと!待ってくださいよ。やっぱりそうだったって、何がやっぱりなんですか?」

「何がって、幽霊だったんでしょ、その子。

このまえ西君の話聞いた時さ、もしかしたらって思ったんだよね」

話が飲み込めないけど、部長が何かを知っているらしいことは分かったので、詳しく教えて欲しいと頼んだ。

「え?聞きたいの?」

部長は気の進まない様子でそう言いながら辺りを見回した。部屋には部長と俺しかいない。

「あんまり人に言わないでよ。変な噂が流れても困るから」

そう言って部長は話し始めた。

  

8年前、当時の701号室の入居者から騒音のクレームが来て、部長はそれに対応していた。

隣の702号室の住人が、夜中に洗濯機を回したり、掃除機をかけたりしてうるさいので何とかして欲しいと言うことだった。

洗濯も掃除も、それぞれ普通の生活音ではあるけど、やはり時間帯が悪いし、毎日とまではいかなくても、これが週3.4日は聞こえると言うから確かに迷惑だ。

部長は702号室の入居者と契約している不動産業者に問い合わせて、入居者に注意してもらうよう申し入れた。

その不動産業者は入居者に伝えると言ったが、どうやら他人事だと思って適当にあしらっていただけだったようで、実際には入居者には連絡していなかった。

その後も騒音はおさまらず、度々クレームの電話が来るので、仕方なく部長は直接702号室に訪問して騒音のことについて注意をすることにした。

その日、運良く702号室の住人は家にいた。

学生かなと思う程の若い女の子だったそうだ。

部長が隣から騒音のことで苦情が来ていることを伝えると、その女の子は本当に申し訳なさそうに謝って、今後は夜遅い時間に掃除や洗濯はしないと約束してくれた。

「話聞くとさ、仕事でいつも帰りがめちゃめちゃ遅くて、そんな時間に掃除したり洗濯したりしてたらしいんだよね。

実は東京に出てきたばっかりなんです、なんて言ってて、実家は結構田舎で周りは田んぼばっかりだから、あまり音とか気にしたことなくて、そう言うのがよく分からなくてすいません、ってさ。

俺も娘いるしさ、田舎から出てきて頑張ってんだなぁ、健気だなぁなんて思ってさ、仕事大変だろうけど、あんまり無理しないようにね、なんて言ったりしてたんだよね」

部長がその子と話した後は、騒音のクレームが来ることも無くなった。

その後も部長がマンションに出入りした際に、その女の子と偶然顔を合わせたことが何度かあった。

「顔合わせるといつもニコニコしててさ、原田さんこんにちは、なんて一回話しただけなのに俺の名前も覚えてくれたりしてて、素直でいい子だなって思ってたのよ。

だから死んじゃったって聞いた時はショックでさ、なんで?って、どうしてあんないい子が?って思ったよねぇ」

そんな若い女性が自分の部屋で亡くなるような事故って何だろうか、ちょっとすぐには思いつかない。

「これはその時のマンションの管理人さんに聞いたんだけどね」

702号室の入居者が亡くなっているのを発見したのは、702号室を管理している不動産業者の担当者と、その管理人だった。

入居者の勤める会社から、数日間無断欠勤をしていると連絡を受けた入居者の親が、子供に電話するも連絡が取れず、心配だから見に行って欲しいと不動産業者に依頼が来たらしい。

不動産業者の担当者は一人で見るのが怖いので、その日たまたまいた管理人を伴って、702号室を訪問した。

インターホンを鳴らしても出てこず、持って来ていた鍵で室内に入った。

入居者はベットに横たわったまま、亡くなっていたらしい。

腐乱とまではいかないが、肌の色と漂う死臭から死後数日が経っていると素人にも分かったと言う。

管理人はすぐに部屋を出て警察を呼んだ。

動転していて部屋の様子もまじまじとは見ていなかったそうだが、テーブルの上に酒の空き缶と、病院で処方されたらしい薬の袋が散乱しており、またベットには嘔吐したような痕跡もあったらしい。

「それを見て管理人さんは、何かの薬を飲んで自殺したんだって思ったらしいんだけど、その後警察が来て捜査して行って、それから何日かしたら事故死だって聞かされたんだって。

別に管理人のおじさんには関係無いんだろうけどさ、事故っていうのがどうも気になったらしくて、警察の人に聞いたんだって、一応第一発見者だから警察もある程度詳しく教えてくれたみたいなんだけど、死因は窒息死だったらしい。

アナフィラキシーショックってやつ?酒のつまみに食べてたお菓子に少量のエビの粉末が入ってて、それが原因だって、あの子甲殻類アレルギーだったみたいね。

すぐ病院行けば助かったんだろうけど、結構酒飲んでたみたいで、しかも睡眠薬も飲んでたらしくって、昏睡状態で動けないまま死んじゃったんじゃないかっていうのが警察の見解らしい。

でもそれ聞いて思ったんだけどさ、それって事故じゃなくって自殺だろって。いくら酒飲んでたからって、甲殻類アレルギーの人がさ、自分が食うもんにエビが入ってないかって、絶対気にするだろ。しかも睡眠薬も飲むって、そりゃ完全に自殺だろって。

管理人さんもそう思って警察の人に言ったらしいだけど、結局遺書がないから分からないんだって、分からないから事故なんだって」

確かに、事故というには条件が揃いすぎだ。しかも自分で揃えた条件。でも警察が言うように、遺書などの証拠が無ければ、自殺と断定出来ないと言うのもわかる。

「当たり前だけど、実際のところは俺も分からないよ。本当に事故なのかも知れないよ。でも自殺なんだとしたらさ、きっと何かに悩んでたんだろ?仕事なのか男なのか知らないけどさ。

死ぬ程悩んでたんなら、少なからず訴えたいことって言うか、分かって欲しいみたいなこともあったかもしれないじゃん?

それを事故ってことで片付けられちゃったらさ、自分だったらどう思うよ?悔しいっつーか、寂しいっつーか、そんな気持ちになるんじゃないかなって思ってさ、だとしたら可哀想だなぁって思ったんだよねぇ」

部長はそこで一つため息をついた。いつも通りのヘラヘラしたような軽薄な顔をしているが、視線は床の方に落としたままで少し悲しげだった。

「で、それからしばらく経ってからなんだけどね、701号室に住んでた人が引っ越しちゃったから、入居者募集出したのよ。その時はちゃんと心理的瑕疵ありって募集図面に書いてね。

そしたら問い合わせの時、この心理的瑕疵って何ですか?って聞かれるわけじゃん?

警察が事故だって言ってるもんをさ、俺が自殺かも知れないなんて言えるわけないし、住む人にとっても隣で自殺あったって言われるよりは、事故だって言われた方がいくらか怖くないでしょ。

だから結局俺も、事故なんですよーって説明してたよね。

何かそれも、あの子に申し訳ないなあって思ってたんだけど。

ある時さ、701号室に問い合わせの電話が来たのよ、若い女の子でさ」

その子は701号室の心理的瑕疵について、詳細を教えて欲しいと問い合わせて来たらしい。

電話を受けた部長は、隣で事故で亡くなった人がいるとだけ伝えた。

「契約する意思があるんなら、もうちょっと詳しく教えるかもしれないけど、ただの問い合わせだったらあんまり詳しくペラペラ喋るもんでも無いからさ」

しかし電話して来た女の子は、事故について、どう言う事故だったのか、何故死んだのかなど、しつこく聞いてきたらしい。

「何か変な子だな、怪しいなと思って、詳しくは分かりませんって答えてたの。そしたら、最後は悲しそうな声でさ、そうですか…って言って電話切れちゃってさ。

電話切れた後、何か凄い悲しそうだったなぁって、気になっちゃって。考えてたら、もしかして今電話してきたの、死んだ702号室のあの女の子だったんじゃ無いかって思えて来たんだよね」

確かに、その電話をしてきたのはあの子のような気もするが、部長の話を聞いた限りでは部長の思い込みとも取れる。

「いや流石に考え過ぎだよなって思ってたんだけどね、でもそれから何日かしたら、またかかってきたんだよ、その女の子から、また事故のこと教えてくれって、また最初からやり直しって感じでさ。

でもさ、あなたは702号室で死んだあの子ですか?とは流石に聞けなくてさ。事故なんですよって前回と同じように説明したら、本当ですか?って、また悲しそうに聞くわけ、俺も何か悲しくなってきてさ、どうしようかなって思ったんけど、結局言えなかったね。事故じゃないかもとか、あなたもしかしてあの子なのとか、可哀想なんだけどさ、正直怖くってさ。

あの子が最後にまた、そうですかって凄い寂しそうに電話を切ってさ、何か俺、どうしたらよかったんだろうって、しばらく悩んじゃったよね」

昨日のあの子の最後の言葉が頭に浮かんだ。

彼女は今も自分が死んだ理由を探している。

事故として片付けられたことが納得いかなかったのか、はたまた本当に自分が死んだ理由が分からないのか。

「それでもさ、俺自身もまあ、俺の妄想なのかなって思ってたんだよ。幽霊が電話してくるなんてさ。

今回701号室の募集かけたときは、心理的瑕疵の文言つけなかったのよ。だからなのか、あの子から電話来なかったんだよね。もしかしたら成仏してくれたのかななんて思ってたんだけど、

そこに来て西君から、701号室の人が702号室でなんかあったんじゃないかってしつこく聞いてくるって話聞いてさ、あれ?もしかしてって思うよね。

しかもさ、電話してきてるの若い女の子だって言うじゃん、俺701号室の今の入居者会ったことあるけど、確か35歳くらいのキャリアウーマンだったよなぁって」

部長は俺の手元のファイルの方を見ながら言った。

「えっ、そこまで知ってたんなら、何でその時教えてくれないんですか?」

俺が思わず文句を言うと、部長は急に真剣な顔になり、低い声で言った。

「あのなぁ西君、35歳くらいの女性ってウチの会社にもたくさんいるんだよ。35歳が若い女の子かどうかなんて、言及するだけで危険だよ。気をつけた方がいいよ」

「…あ、はい、すいません」

真剣な口調で言われるので思わず謝ってしまったが、先に話題に出したのは部長の方だ。

「そう言うことだからさ、この件はもう気にするなよ。でももしさ…」

部長はそこで少し躊躇うように言葉を止めた。

「もし、なんですか?」

「もしまたあの子から電話が来たら、俺に回してくれよ。今度は俺からちゃんと話すから」

多分部長はあの子に本当の事を話さなかった事を後悔しているのだろう。

でもあの子から電話はもう来ない気がする。何となくだけど。

俺はもう一点、かなり気になることがあったので、聞きにくかったが部長に相談することにした。

「あの、いろいろ教えてもらった上で非常に言いづらいんですけど。

もし昨日のあの子が、やっぱり幽霊じゃなくて生きてる人間だったら、、」

部長が少し驚いた表情でこっちを見てきた。

「お前も空気読めないやつだなぁ。ここまでの話の流れでそれ言う?」

「いやそうですけど、でも幽霊だって確証は無い訳じゃないですか?

それで、もしあの子が幽霊じゃなかったとしたら、入居者になりすまして、家の中にも侵入してるし、犯罪ですよね?

どうなんでしょうか?一応、701号室の入居者に連絡した方がいいんでしょうか?」

連絡したところで、何と説明したらいいか分からないけど、幽霊だったと断定して放っておくのも正直不安だ。

部長は天井を仰ぎ見てしばらく考えると、いつもの軽薄な笑みを浮かべて答えた。

「いや、絶対幽霊だよ。入居者に連絡とかしたら余計ややこしいことになるから、いいよ、放っといて」

「本当に大丈夫ですかね?」

「大丈夫大丈夫、幽霊で間違いないって」

完全にいつもの適当な部長だった。

「あ、鈴田さんにも西君から上手く説明しといてよ。あの人、幽霊とかどうなんだろ?祟りとかそう言うの凄く気にしちゃうタイプかな」

「あぁ、絶対気にしないと思います」

「あ、そう。でももし気にしてる様子だったら、二人で一緒にお祓いでも行って来なよ、君達何か仲良いみたいだし。お祓いの費用、経費で落としてもいいよ」

部長はそう言って俺の肩を叩いて部屋を出ていった。

お祓いか、、そもそもなぜお祓いに行くのかを先輩に理解させるのに骨が折れそうだ。まあ、行かないけど。

自分の席に戻ると先輩から俺の携帯に電話が来た。

何やらお客さんに資料を送る約束をしていた事を忘れていたらしく、代わりにメールを送っておいて欲しいとのことだった。

「それはいいですけど、それより昨日のあの701号室の入居者、どうやら別人だったみたいですよ」

「え?なにそれ?どう言うこと?」

先輩が怪訝な声を上げた。

「あの子は幽霊だったっていう結論になりました」

俺がそう言うと、先輩はしばらく沈黙した後

「はっ、何言ってんの?」

鼻で笑われた。

天然の人に笑われると何か無性に腹が立つ。

俺が黙っていると、先輩は呆れたように話し始めた

「さっき、701号室のあの子からショートメール来たよ。」

「え?あの女の子の携帯からですか?」

「そうだよ」

昨日の今日で、もうコンタクトを取ってくるとは思ってなかったので少々驚いた。とりあえずどういった内容だったのか先輩に聞くと、

「ええっとね。

昨日は急に帰っちゃってすいませんでした。眠れない日が続いてたから、ちょっとおかしくなってたのかも知れません。隣の部屋の騒音も幻聴だったのかも知れません。お騒がせしました。

ってこんな感じの内容だったよ。

幽霊にショートメールが送れるわけないでしょ。もう、大丈夫?」

なんか嘲るように笑ってるけど、「現在使われていない」番号からショートメールが送られてくることには疑問を持たないのだろうか?

あの子もあの子で、何の目的でメールなんか送ってきて体裁を取り繕おうとしてるのか知らないけど、かえって怪異深めてんじゃねぇよ。

どいつもこいつも、しっかりしろ!

「でもあの子、確かにちょっとおかしかったよね。やっぱり人間ちゃんと寝ないと心を病んじゃうんだろうねぇ」

イライラしている俺をよそに、先輩がしみじみとした調子で言った。

「壁を引っ掻く音とか、物を引き摺る音とかは昨日は聞こえなかったから、本当なのか、本人が言うように幻聴なのか分からないけどさ、

あの笑い声は確かに耳障りだったよね。眠れないってのも分かるよ」

「…え?」

「ん?」

「今なんて言いました?」

「いやだから、壁を引っ掻くとか、物を引き摺るとかの音はよく分からないけど、あのときベランダの方から聞こえてた女の人の笑い----」

「あっ、もういいです。言わなくていいです。お客さんにメール送っときますから、どうぞゆっくり休んで下さいおつかれさまでした」

俺は先輩の話を遮って電話を切り、携帯を机に置いてため息をついた。

顔を上げると、隣の先輩の机の上に置きっぱなしになっていた品川ベイサイドマンション702号室の募集図面が目に入った。

俺は図面に謳われている「心理的瑕疵あり」の文字を眺めていた。

瑕疵、平たく言うと欠陥とか不具合とかそう言う意味だ。

この部屋の瑕疵は、ある一人の女の子がこの部屋で死んだこと。

でも死は生と一繋がりで、死だけが単独で存在することはない。

彼女がここで死んだと言うことは、同時に彼女がここで生きていたと言うことも意味している。

でもその事実は今この図面に「心理的瑕疵」の一言で表されている。

俺にはこの言葉が、彼女を縛る呪いとなっているように思えた。

彼女は本来「心理的瑕疵」では片付けられないはずの、自分自身の生と死の真実を探している。

そして、それを見て耳障りな笑い声を上げていたと言う何かが、あそこにいたのだろうか。

   

考えても分からない。

疲れたので、先輩の頼まれ事を片付けたら今日はもう早退してやろうかなと考えていたところに会社の電話が鳴った。

誰も電話を取らないので、気が進まなかったけど5コール目で渋々受話器を取った。

「すいません。品川ベイサイドマンションの701号室に住んでいる者ですが」

受話器から聞こえたその言葉を聞いて、全身が凍りついたように固まった。

「あ、、え?」

言葉にならない声を漏らしていると、電話口の相手が訝しげな声を上げた。

「あの、もしもし?」

女性だけど、昨日会った入居者とは声が違う。

つまり、恐らくこの人は701号室の本当の入居者だ。

何とか心を落ち着けて、俺は声を絞り出した。

「…はい、どうされましたか?」

701号室の入居者は、暗く怯えたような声で話し出した。

「すいません。あの、玄関の鍵の交換って、お願いすればやってもらえるのでしょうか?」

「…鍵の、交換ですか?はい、それは出来ますけど…」

「ここ一週間程、出張で家を開けてまして、先程帰って来たところなんですが、実は留守の間に部屋に誰かが入ったようなんです。

何か、身に覚えのない菓子折がテーブルの上に置いてあって…

怖いので玄関の鍵を交換して頂きたいんです」

その菓子折は、俺が昨日置いていったものだ。

「…あー、それはご不安ですよねぇ。わかりました、早急に鍵の交換の手配を致しますね。ところで何か盗られたりはしてませんか…」

頭が真っ白になりながらも、口から自然と白々しい言葉が出てくる自分に驚いた。

--------------終

Concrete
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@あひるちゃん
私の投稿を読んで頂きありがとうございます!
そしてコメントありがとうございます!
楽しんでもらえたとのことで嬉しいです。
見通し、全然考えられてません、、
本当は10分前後のお話を、前後編2話くらいのボリュームで収まると思って書き始めたのに、結果3話でしかも3話とも10分オーバーですよ。
あひるちゃんの様に程良い長さのお話をコンスタントに書ける人は凄いなと思います。

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