長編9
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畢生の図書館

野菊の並ぶ山道を、私は俯き歩いていた。

もう、どれだけ歩いたのかは分からない。

辺りは深い霧に包まれていて、前も後ろも、まるっきり何も見えなくなっていた。

息が荒い。山になんて慣れていないのに、使い古したスニーカーで来た事を、今更ながら後悔していた。

足元に蔓延る野菊が、私を見つめている。

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はぁ……

デコボコと歩き難い岩肌に、足が疲れた。

誰もいない内に登りたくて、まだ陽も昇らない早朝に来たのが無謀だった。

10月の山は薄寒く、そして、湿度が高い。

重い足取りで俯き歩いていた私が顔を上げると、辺りは濃霧に包まれてしまっていたのだ。

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あぁ、最悪だ……

もう、本当、ずっと最悪だ……

まるで、悪夢の中を歩くかのような感覚。

ぐちゃぐちゃと坩堝のように渦巻く感情や思考に、注意力がまるで働いていなかった。

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私が進む事も戻る事も出来ず途方に暮れていると、ふっと、遠くの方に、光が見えた。

いや、距離感なんて判らない。この深い霧のせいで、その光が近くなのか遠くなのか、私には判断がつかない。

ただ、その明かりは四角い窓の形をしていて、そこに建物があるのではないかという希望が、頭を過ぎる。

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こんな山に建物なんて…

訝しいと思うのは、他にどうする事も出来無い私は、霧が晴れるまでならと、その怪しい建物へと足を運んだ。

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……はは、情け無いなぁ。

私は、自分の全部を終わらせる為に、この山に来た筈なのに……

ふわふわとした意識の中、頭に浮かぶのは自己否定の思考だらけだ。もう、それが無意識の癖になってしまっていた。

足元の野菊が相変わらず私を見つめるが、その小さな花なんかより、私の方がずっと、矮小に思えた。

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暫くも歩かない内に、大きな建物が目の前に現れた。

身体が重い。霧でベトベトに濡れている筈なのに、その感覚すら分からない。

目の前の建物にも、ぼーっとした視線を向けるだけだった。

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…こんな霧の中に、西洋の館のような建造物……、いよいよ、本当に夢の中のように思えた。

…扉に触れる。重厚そうなその扉は、まるでセンサー式の自動扉であったかのように、スッと勝手に開いた。

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◯◯◯

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「やあやあ、いらっしゃい。ようこそ、畢生(ひっせい)の図書館へ。」

開いた扉の先、そこは広い空間になっていた。

暖かい部屋に広がる、紙と蝋燭の香り。

声の方を見やると、受付台に座る男性がいた。

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「……畢生の…図書館?」

私の問いに、男性が頷く。

…見回すと、辺りは無数の本棚に囲まれていた。どの本棚も壁のように背が高く、ぎっしりと本で埋め尽くされている。

天井は高く、シャンデリアの灯りが宵時のように部屋を照らす。

霧で外からは分からなかったが、どうやらとても大きな建物らしく、部屋の広さは、まるで無限のようにさえ思えた。

私が入って来た扉は、いつの間にか閉じていて、眠ってしまったように口を閉ざしている。

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なんだか、本当に夢の中にいるみたいだ……

明らかな異空間。だけれど、この部屋は微睡みのように暖かかった。

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「こんにちは、いや、おはよう御座いますかな、もしかしたら今晩はかもしれないね。

…僕は此処の図書館で司書をしている者さ、この場所の事なら、何でも聞いてくれて構わない。」

ゆっくりとした口調で、男性がまた話し掛けて来た。高く低く、落ち着いた声だ。

「ゆっくりしていくと良いよ、どうせ此処では時間なんてものも存在しない。気の済むまで、納得の行くまで、此処に居れば良いさ」

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……よく分から無い説明に、私は首を傾げる。

「君もあの野菊の道を通って此処に来たのだろう。

急に立派な建物が現れて吃驚してしまったんじゃあないかな。

大丈夫さ、帰る時は、入って来た時と同じ扉から出れば良い。

必ず、入って来た扉から、ね」

男性は微笑んでいる。肌が白く、ポーカーフェイスと言うのだろうか、柔和に細い目が、男性の心の内をぼやかしているみたいだ。

「さしずめ、君は自殺でもしにあの山を登ったのだろう。あそこは、自殺の名所だからね」

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ドキリとした…と思う、その通りだったから。

だけど、何故だろう、この場所ならば、それくらい言い当てられるのは不思議じゃない。そう思っていた。

きっと、此処に来てから感じる懐かしさのせいなのだろう。

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「だけど、此処に辿り着いたという事は、本当は迷っているのだという証。

さぁ、折角だ。此処の蔵書でも読んで行ってくれよ。どうせ外は深い霧なんだ。温かいコーヒーでも入れてあげるよ。

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此処は畢生の図書館。

あらゆる人々の生涯を、物語として読む事の出来る、不思議な場所さ。

どこか懐かしいだろう。

誰しも、この図書館には必ず、少なくとも2回は訪れるのさ。

先ずは産まれる直前、

その人の物語が、書き綴られることを了承して貰う為に。

そして死んだ時、

その人の物語が、それで終わりなのだと署名を戴く為に……

だけれど偶に、人生という物語の途中であるにも関わらず、此処へやって来る者がいる。

それは大抵、大きな人生の岐路に立たされている者達だ。

此処は、その者達にとって、己の書きかけのストーリーを振り返る為の場所でもあるのさ。

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君も、何か大きな悩み事があるのだろう。だったら、君の物語でも、それ以外の人の物語でも、読んでみるといい。

世間は丁度、読書の秋なのだしさ。

きっと、何かしらの役に立つ筈さ」

男性は微笑んでいる。

私は、近くの本棚の前に立つ。そして、その中の本の1つに、手を伸ばした。

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「それじゃあ、ごゆっくり」

……

……

……

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「随分と熱心に読んでいるね。

君が尊敬する偉人の物語、君の先祖の物語、君の前世の物語……

どれも面白いだろう。文字通り、畢生(ひっせい)の大作さ」

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どれくらい経った頃だろう、男性が話しかけて来た。

「…それで、悩み事は解決したのかい」

「……」

何も答えられない私に、男性は入れ直したコーヒーを私の側に置く。

白く薄い湯気がのぼり、優しくビターな香りに包まれた。

傍らにできた本の山は、膝を抱えて座る私の頭程の高さがある。

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「まあ、そう焦る事はないさ。

そうだね、ここは1つ、僕の雑談にでも付き合ってよ。

いいだろう?別に読みながらだって、耳は空いているんだから。

雑談と言っても、君に質問はしない、僕の独り言さ。それなら構わないだろう?」

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……そう言って、男性は私の隣に腰掛ける。その手に持つコーヒーは私に用意されたものとは異なり、やけに沢山の砂糖とクリームが入れられていた。

細目の彼は、その優しげなポーカーフェイスのまま、ひとり話を続ける。

「こうして図書館の司書をしているとね、色々な言葉に出逢うのだけれど、その中でも僕が好きな言葉があるんだ。

『月に叢雲花に風』って言葉。聞いた事はあるんじゃないかな。

好事には兎に角差し障りが多いって意味なんだけどさ、

…って、なんだいその目は。嫌だなぁ、ネガティブな言葉が好きだなんてコイツ変人かよって目じゃないか。

まぁ、確かに、あまり良い意味では無い言葉なんだけどさ。

…だけど、とても美しい言葉だとは思はないかい?

月と、群れを成す雲と、花と、そして風。

花鳥風月の内、3つが入っている。

月を覆い隠す雲は、確かに勿体無い気持ちになるけれど、『月のいとあかきおもてにうすき雲、あはれなり』なんて、月にはちょっとくらい雲があった方が風情があると、枕草子では言っている。

花は風によって早く散ってしまうけれど、その花の香りというのは、風に乗って広がっていくものさ。

雲も風も、人の手ではどうしようもないものだけれど、そのどれも、美しき自然の縁だ。

どんな困難だって、ひょっとしたらそれは、美しいものなのかも知れない」

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彼が、私が開いている本を指差す。

「君が読んでいるその物語達にも、必ず何処かで悲劇や不幸が起こる。人生とは、そういうものなのだから。

だけれど、そんな困難に乗り越えたからこそ、彼らの物語は美しい。どんな叢雲や暴風さえもそれを乗り越えられたら、ドラマになる。

時には病に、時には戦争に、その物語が引き裂かれようとも、そうやって繋がって来た歴史の上に、今君は立っているんだ。

僕には世間の事なんて分からないが、この幾ヶ月の内に、この図書館へ最後の署名をしに訪れる者が多くいた。そして、君と同じく人生も半ばで此処に来る者も、多くいた。

想い人を亡くした者。3年間続けてきた集大成を、何処にも咲かせることなく去らねばならなくなった者。今まで何代も続いてきた店を畳まなければならなくなった者……

色んな者達が此処に来た。

君も同じ渦に巻き込まれたのかは分からない。だが、こんなにも思い悩み続ける程に、今君は苦しんでいる。それこそ、自殺を考えてしまうくらいに。

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傍らの本の山は、今にも崩れそうだった。多くの歴史を掘り、それだけ積み上がったその山は、私の苦悩の大きさを表していた。

…彼が、本棚から1冊の本を取り出した。

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「この本を見て欲しい、君の本だ。

まだ物語も途中で、君はまだそんな歳なのに、こんなにも本が厚くなっている。

きっと、もの凄く頑張って来たんだね。本当に本当に、沢山の努力をしたんだね。

君は、凄い奴なんだよ。

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此処に来る道中、沢山の野菊が咲いていただろう。

野菊の花言葉は知っているかい?

一般的な菊の花言葉が「高貴」「高潔」「高尚」といくつもあるのに対し、偽物の菊である野菊の花言葉はたった1つ、「障害」だ。

そんな格好で山道を歩くのは大変だっただろうね。それでも君は、沢山の野菊を越えて、歩き続ける事が出来た。

深い霧に包まれても、この図書館へと辿り着く事が出来た。

今はどうやったって駄目かも知れない。そういう時代の流れは、どうやったって避ける事は出来ないのだから。だけど、君にはまだ次のページがある。

そのページでまた障害に阻まれても、その更に次のページにだって、必ず月は昇るし、花だって返り咲く。

いつか、その障害を乗り越える事だって、君なら出来る筈だ。

…だから、君なら大丈夫さ」

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気が付くと、私の頬を涙が伝っていた。とても、とても熱い涙だった。

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「…もう、此処には長居しなくて良さそうだね。

さあ、どうする?

このまま入って来た扉を出れば、元の世界へ帰る事が出来る。

その気が無いなら、君の畢生(ひっせい)の本に著名をして、此処で物語を終わらせる事も出来る。

それをすれば、元来た扉は完全に閉ざされ、代わりに黄泉への扉の鍵が開く」

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男性の細い目から覗く瞳は、この世のモノとは思えない程昏昏と、奇麗に燃えている。

その瞳に向かい、私は決断した。

まだ湯気ののぼる珈琲を、彼に突き返す。

折角淹れて貰った珈琲だけれど、その珈琲の味は、次来た時のお楽しみだ。

私は立ち上がり、散らかしてしまった本を、本棚へ戻していく。1冊1冊、有難う御座いますと、感謝を込めて。

男性に背を向ける。進む方向は、入って来た時と同じ、重厚な扉の方だ。

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「…そうか、それなら暫くのお別れだ」

彼は目を閉じる。月の孤のように、優しく口角が上がっている。

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「今度また逢う時は、月に重なる叢雲も、花に吹き付ける風も美しかったと、僕に語ってくれないかな。

出来れば本では無くて、君の口から。

それじゃあまた…

行ってらっしゃい」

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あんなにも口を閉ざしていた扉は、図書館へ入る時と同じく音も無く開き、私がそこを潜ると、ゆっくり、ゆっくり、と閉じていく。

扉が締まりきるその時まで、やっぱり彼はあの細い目で、優しく私を見送った。

扉が閉まりきるを確認し、私は振り返る。

空はすっかり明るくなっていて、冷たい霧はとうに晴れている。山の谷間から、沈む満月がほんの少しだけ見えていた。

うーん、と思いっ切り、掌を空に向けて伸びをする。深い深い眠りから醒めたような、そんな清々しさが、泉のように湧き上がる。

そして、

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__パンっ!

両手で頬を打つと、微睡みが抜けて、秋風が身体の中へと流れ込んで来る感覚がした。

「…よしっ!」

…私はもう、大丈夫だ。

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ぼろぼろのスニーカーで、一歩一歩山道を下る。

前を向くと、地面に蔓延る野菊の群れが、朝露に光輝いていた。

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あははは😃今年50になりました。見た目は、30代後半らしいんですがね(笑)

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いいお話ですね。アラフィフの私には身に染みるお話でした。

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