友達としゃべる者、読書をしている者、やっていなかった宿題を慌ててやってる者。御桜小学校3年3組の生徒達は、いつもと何も変わらない平和な朝を過ごしていた。ただ一人の生徒を除いて。
「吉塚!お前、ちゃんと1000円持ってきたか?」
「う、うん…。」
教室の片隅、吉塚彰太は親から貰ったばかりのお小遣いをいじめっ子の町田和夫に渡す。町田の取り巻きの二人がケラケラと笑う。
「本当に持ってきたじゃん!」
「やっベ~!」
彰太は誰かこの状況を助けてくれないかとまわりを見渡すが、誰もこちらを見ようとしない。
「おい、吉塚!お前、明日も1000円持ってこいよな!」
「えっ!?む、無理だよ…。」
「いいから持ってこい!持ってこなかったらお前を殺すからな!」
「……うん。」
普通に考えて町田の脅しが本気でないということは分かるだろう。しかし、当事者かつ子供の彰太はそこまで頭が回ることなく怯えから頷いてしまった。
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血のように真っ赤な夕焼けが地面を照らす。学校が終わって、本来なら清々しい気分になる放課後も彰太は暗い気持ちでいた。
(僕、もうお小遣いないのに…。明日の1000円どうしよう…。)
親はお小遣いを先日あげたばかりなので、くれないだろうということは彰太も分かっていた。かといってこのままだと自分は殺される…。
まさに八方塞がりの状況に彰太は泣きたくなった。少しでも気を抜くと目の縁から涙が溢れてきそうだ。
「吉塚くん。」
突如、誰かが彰太の名前を彰太の背後で呼んだ。反射的に振り替えると、どこか神秘的でしかし可愛らしい顔立ちの子供が立っていた。
彰太は一瞬その子が誰だか分からなかったが、すぐに誰だったか思い出した。
(確か…N井くんだ。)
N井。彰太と同じ3年3組の少年である。女の子と見紛う程の美しく、愛らしさも秘めた顔立ちの美少年だ。触れたら消えてしまいそうなほど、儚い雰囲気を醸し出している彼は皆が密かに気になっている存在ではあるものの同時に近寄りがたい存在でもあった。そのためクラスではいつも一人だった。
見つめあった二人の間に、しばらく沈黙の時間が続く。そして、それを破ったのは彰太だった。
「えーと…僕に何か用?」
「吉塚くん。町田くんにお金あげたよね?どうして?」
「どうしてって…。」
その理由をいうのは恥ずかしい。男の子としても人間としても…。だが、N井の綺麗で澄んだ瞳を見ていたらすんなりと理由は口から出た。
「怖かったから…。」
N井は「そう。」とポツリ言っただけだった。そちらから聞いてきた癖に、あまりにも淡白な反応だった。さすがの彰太もこの反応に頭に少し血が上る。
「あのさ、N井くん。それを聞くためだけに僕に話しかけたの?」
彰太は声が少し震えた声でN井に聞く。苛立ちがありありと声にあらわれている。
「多分。」
「多分って…。それ、どういう意味なの?もうちょっとはっきり答えてくれない?」
「気が向いたらね。」
彰太はイマイチ噛み合ってないN井との会話に疲れてきた。適当な理由を言って、N井の元を去ろうと考え始めていたとき。
「そろそろ僕、行かなきゃ。明日のこと考えなきゃいけないもの…。じゃあね、吉塚くん。」
「う、うん。」
相手の方から先に去ってくれた。N井の影が遠くに移動していく。
彰太はふと、今まで一度も話したことがないN井が何故放課後に……しかもこの中地半端な通学路で自分に話しかけてきたのか不思議に思ったが、明日のことの方がよっぽど気がかりだったため、その疑問はすぐに頭の中から消え去った。
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次の日。彰太は貯金箱の底に辛うじて残っていた100円玉を手のひらでガッチリと握りしめ、学校に向かっていた。
(1000円はなかったから100円持ってきたと言えば、殺されることはないだろう…。)
彰太なりの苦肉の策である。だが、殺されることはないと踏んでも恐怖は減らないし、涙は出そうだ。3年3組の教室に近づくにつれ息が苦しくなる。
(帰っちゃおうかなぁ…。)
こんな苦しい思いをしてまで何で学校に来ているんだろう。帰りたい。……そんな思いが彰太の頭を支配していく。しかし。
ガラララ…
彰太はこれから地獄の舞台になるであろう教室の中へ足を踏み入れたのだった。
教室はやけに騒いでいた。何でだろう?としばらく彰太は思ったが、よく見ると皆が一点の方向を見ていることに気づいた。そこは…。
(僕の机?)
彰太はあまり目が良くないのでよくは見えないが、明らかに昨日と比べてあらゆるところが黒い。彰太は慌てて近づく。
(何…これ…?)
『どうして学校に来ているの』
『君がいなくてもみんなだいじょうぶだよ』
『弱虫』
机には過度な暴言はないが、どこまでも冷えきった冷たい言葉が書き連ねられていた。彰太はズルリと崩れ落ちる。涙がポロポロと目から流れていく。
そのうち朝礼の始まりを告げるチャイムがなった。担任の原田律子が駆け足で入ってくる。
「……皆さん、おはようございます。…皆さん、何で立っているのですか?席に座ってくださ…あっ。」
原田先生が泣いている彰太に気づく。黒くなった彰太の机も目に入る。
「だ、だ…誰ですか!?吉塚くんの机にこんなことをした人は!!」
原田先生は動揺をすぐにかき消し、皆に怒鳴り付ける。教室は静まり返り、誰も手をあげない。
「…皆さん、机に伏せてください。あ、吉塚くんは手で顔を覆ってください。…正直に言ってくださいね。吉塚くんにこんなことをした人は誰ですか?」
さっきとはうって変わって優しい声で原田先生は生徒に尋ねる。数秒後、ある生徒が手をあげた。N井だった。机に顔は伏せていない。美しくも愛らしい顔が微笑えみながら堂々と手をあげている。
「…………。皆さん、顔をあげてください。えー、このクラスにはいないみたいですね。…すみませんが、吉塚くん。今日は我慢してその机を使ってください。では、号令係挨拶して…。」
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結局、クラス全体で触れられたのはあれっきりで、帰りの会はいつも通りだった。まだ彰太のあの机は教室にあったのにだ。
昨日と同じように地面は赤く照らされている。散々な日だった。机はああなるし、あの後町田達に100円をきちんと取られた上に少し殴られた。彰太はブルーな気持ちで帰り道をトボトボ歩いていた。
「吉塚くん。今日のことはビックリした?」
「…N井くん。」
昨日と同じように背後からN井に声をかけられた。彰太はゆっくり振り替える。彰太の目はまだ少し赤い。
「ビックリしたというか……悲しかった。」
「ふぅん。」
相変わらず薄い反応だった。彰太は口をわなわなと震わせながらも空気を吸い込み、N井に自身の心の声を喋り出す。
「…ねぇ、何で僕ばかりこんな目に遭うの?僕、わかってるよ。町田達があれやったんでしょ…?何で僕ばか」
「僕がやったよ。」
唐突にN井はそう言った。あまりにも唐突だったので彰太には意味がわからなかった。
「いきなり何?N井くん…。」
「僕が君の机をああしたんだよ。」
「えっ…。」
N井は普段と何も変わらない抑揚、口調で衝撃の事実を彰太に叩きつけた。彰太の口から悲痛な声が出る。
「なん、で…?」
彰太は別にN井のことをとても信頼などしていたわけではない。昨日始めて会話した程度の関係だ。信頼も友情もあるわけがない。だが、それでも……自分をいじめている町田以外の人がやったというのが物凄いショックだったのだ。
N井は何も答えない。暖かくも冷たくもない曖昧な温度の視線を彰太に向けているだけである。
「僕、君に何かした…?」
「していないよ。」
「じゃあ何で!!」
叫びながら彰太は泣き崩れる。N井は無表情ではないが激烈な感情があるわけでもない奇妙な表情で、泣き叫んでいる彰太を見つめているだけだった。
「あっ、そろそろ帰らないとダメだ。」
ポツリとN井が呟く。
「君も早く帰らないとダメなんじゃない?きっと親が心配しているよ。」
「……N井くん。」
いつの間にか彰太は泣き止んでいた。子供の出せる一番低い声でN井の名前を呼ぶ。
「どうして僕にあんなことしたの?」
彰太の顔は無表情だった。怒りも悲しみも悔しさもない。何も感情のない完璧な無表情だった。N井はしばらく黙って
「君、僕の家に来ない?」
彰太の質問に全く関係のない事を言った。それを聞いた彰太は機械的に同じ問いを繰り返す。
「どうして僕にあんなことしたの?」
「そういえば今日、いい天気だったよね。明日のこと考えないと…。」
「どうして僕にあんなことしたの?」
「さっきから同じことしか言わないね。君、ロボットだったの?」
大きな瞳を見開きキョトンと首をかしげる。彰太の無表情が少し崩れた。声も平坦なものから震えた声になる。
「ちゃんと答えてよ…。何で…。」
「…わかった!僕たちが今日から友達になるためだったんだよ!」
「…は?」
彰太は思わずすっとんきょうな声をあげる。N井は可愛らしい笑みを浮かべている。それはまるで天使みたいな…。その笑顔に彰太の感情は一気に負の方向へ燃え上がった。
「それって…よくわかんないけど…友達になるために僕の机にあんなこと書いたってこと!?」
彰太の怒りが、感情が辺りに響き渡った。彰太はN井をじっと睨み付ける。
「うん…。そうかもしれない。今となっては僕も分からないよ。でも、友達になるためには必要なことだったんだって分かる。…昨日はごめん。友達になるんだったら、もっとちゃんとした返事しとかないとダメだったよね。」
彰太はN井が何を思ってそんなことを言うのかさっぱり分からなかった。得たいの知れない恐怖が怒りを消し去り、彰太に纏わりつく。彰太は衝動的に走り出していた。
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数分ほど走っただろうか。ぜぇぜぇと荒い息をしながら彰太は後ろを見る。N井の姿はなかった。
(追いかけてこなかったみたい…。)
彰太はホッと安堵の息をする。走ったことで少し気分が落ち着いた彰太は明日の不安……N井のことなど忘れて家に帰ろうと思った。
夕暮れはもう終わりかけており、空は黄昏と夜を混ぜた色だった。いくつかの星がキラキラと輝いている。
(お母さん、心配しているだろうなぁ…。)
早く家に帰らないと。自然と家へ向かう足が速くなる。
もう夜だからか分からないが、いつもは比較的人のいる通学路も全く人がいない。少し怖いが、N井よりはマシだと思いながら俯きながら歩いていると、いつの間にか家のすぐ近くまで来ていた。彰太は目と鼻の先にある我が家へと走り出す。
玄関のドアを開けた。
「…?」
家の中はシーンと静まり返っているうえにリビングを除いて真っ暗だった。彰太は不気味に思いながらも靴を脱ぎ、リビングへ向かう。
「た、ただいま…。」
「はぁい。」
知らない女の人の声がリビングから聞こえた。彰太は凍りつく。3つの方向から人の動く音が聞こえる。やがて音は一点にあつまる。
「おかえりなさい。彰太くん。夕食はもうできているわよ。」
「心配したよ、彰太くん。もっと早く帰ってきなさい。」
「ご飯一緒に食べようね。彰太くん。」
見知らぬ茶髪の女性。
見知らぬ柔和な顔の男性。
N井。
3人が同時に笑った。
作者りも
その日から彰太はN井たちの「友達家族」の一員となった。