陽が落ちて尚、蒸し暑さが続く徳島の、ここは静かな山の中。もう少し先に進むと木々の間から、町の明かりが遠く霞んで見える。
町は今、毎年恒例の阿波踊りの時期で人々の汗と熱が、これまた人々の情けと欲に混じり合い、混沌たる世界を創り出している。
だがそれらもこの山には届かない。
そんな静かな山中の開けたこの場所に、人だかりがあった。老若男女を問わず、皆阿波踊りの衣装を身にまとい、一人の男を待っていた。
程なく先の見えぬ茂みの闇から、一人の僧侶が現れた。
「お待ちしておりました」
人だかりの中からまとめ役らしき体躯のよい男が僧侶の前に進み出た。
僧侶は男に向かって、時間が惜しいとばかりに掌を向けて、挨拶を遮り告げた。
「始めるぞ」
同時に笛と太鼓の音が広間に鳴り響いた。
人々は嬌声をあげ踊り始めた。
エラッヤッチャ エラッヤッチャ ヨイヨイヨイ!
人々のかけ声が楽の音を追い、踊る熱が静かな山の空気を裂いた。
汗と熱と楽が混じり合い、溶け合い融合する。
皆、踊りながら輪をつくる。
先程まで人であった者たちは、本性を剥き出しに気がつけば狸や狐、一つ目や鬼の姿に変化している。
それが本来の姿。
ここにいるのは皆、物の怪だった。
僧侶は踊りの輪の中で何やら唱えながら韻を組んでいる。
やがて踊りの輪は地を離れ、空高く舞い上がった。
物の怪たちは空中遊泳をしながら踊っている。
そんな中、町の騒めきが押し寄せてきて、物の怪たちを包み込んだ。
人と物の怪の、汗と熱と楽と踊りの狂乱。それらが混じり合い溶け合い、夜空には世にも美しく強靭な曼陀羅を創り上げていた。
僧侶は韻を解くと、空に浮かぶ曼陀羅を眺めてうなづいた。
これで暫くは大丈夫だろう。
世は移ろい、今や時代は人の世だ。ここに我らの住まう場所はない。生き残るには人の世に上手く紛れ込まなくてはならない。できないモノは消えるのみだ。
この曼陀羅は不器用な物の怪たちが上手く人の世に紛れ込むためのエネルギーを蓄える装置のような物だ。
人が出すエネルギーと物の怪の妖力を混ぜて、踊っているモノたちに吸収させている。
こんなことをしなくとも、いつか昔のように人と物の怪が共存できる、そんな世になればいい。
願いを胸に一息ついていた時だった。
「見事ですな」
後方から声がした。先程の、まとめ役の男だった。男は僧侶の横に半歩退がって並んだ。
「一人では生きていくことも儘ならぬ、弱い我らがかくも美しいとは、踊っている時には気づきませんでした」
男は曼陀羅を見上げて言った。
「其方は加わらぬのか?」
僧侶が問うと、男は寂しげに笑った。
「先日、女房が死にまして…。わたしはもういいんです」
「……そうか…残念だったな…」
「ですが命続く限り、取りまとめはさせて頂く所存でございますのでよろしくお願いします」
語尾は明るい口調で男は告げた。
僧侶は黙ってうなづいた。
空の、輝く曼陀羅は町からも充分に堪能できる。
だが人の眼には映らない。自らが生み出す祭りの騒きも眼で捉えることができる人間はごく僅かだ。
「わたしが言うのもなんですが、いい女でしてね。振り向いてほしくて必死で這い上がってきました」
男は辺り一帯をまとめる物の怪の頭領だった。皆の前では涙も見せられないだろう。
夜は長い。今宵はこの男の話に耳を傾けるのもいいだろう。
僧侶は思った。
「女房は幼い時分に人に助けてもらったせいか、人間が好きで好きで、いつかここではなく町で踊ってみたいと申しておりました。踊りに夢中になって本性を晒すことを恐れて出来なかった様ですが…」
女房の願いを叶えてやることができなかったのが悔やまれます。
最後は消え入る様な声音だった。
僧侶は男を見やった。
瞬間、眼が合い、男がこれまた消え入りそうな笑みを浮かべた。
「わたしは大丈夫です」
何か言葉をかけようと口を開くと同時に、僧侶の耳に踊りへと誘う楽が流れこんできた。
エラッヤッチャ エラッヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ!
祭りの騒きが潮となって身体を巡る。
「わたしに気遣いは無用です。今宵は祭りです。その騒きは女房が導いたものです。どうぞ堪能してください。私はここから見守っています」
人間たちが生み出す騒きを遠く離れたこの場所へ導くには、予め道筋を造る必要がある。男の女房はその役目を担っていたのだった。
エラッヤッチャ エラッヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ!
踊る阿保に見る阿保! 同じ阿保なら踊らにゃソンソン!
「良い騒きだ。感謝する」
男の女房の努力を無駄にはしない。
僧侶は袈裟を脱ぎ捨てた。
そして
天狗の姿に変化した僧侶もまた、曼陀羅の一部になるべく宙を舞った。
作者國丸
ふたばさんの掲示板から。
3題怪談の文字数を意識しながら書いても800字を超えてしまって、文字数を減らすべく文章を削ぎ表現をかえ、エピソードを削ぎ、完成したお話を掲示板に投稿させて頂きました。掲示板のコメントにも書きましたが、もとの話と完成品を比較して、どう変わったのかをみるのは面白く勉強にもなりました。ふたばさまに感謝です。
比較していく内にもっと書き加えたくなって、今回の投稿となりました。今回の話にはもう一つエピソードがあって、書き終えたらまた投稿させて頂きたいと思っています。