それは、大学が夏休みに入った1日目のこと。
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度重なる遅刻でカフェのバイトを解雇された俺は、アパートの一室で朝からだらだらと暇を持て余していた。
ソファーに寝転がり、集合ポストに入っていたバイト情報のフリーペーパーを何気に見ていると、とある募集が目に止まる。
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家庭教師急募!
当方、来年受験を迎える中三女子の親です
週一、二時間程度、ご指導いただける方を探しています
時給5,000円 交通費別途支給
詳細は以下にお電話を!
090-○○○○-○○○○ Sまで
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─時給5,000円だと?嘘だろ?
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俺はソファーから飛び上がり、改めて紙面に目を近付けて何度となく内容を確認する。
そして、テーブルに置かれた携帯に手を伸ばした。
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その日の午後2時。
着なれないリクルートスーツに身を包んだ俺は、指定された喫茶店の窓際テーブルに座っていた。
正面には40過ぎくらいの七三分けの実直そうなSさんが座り、熱心に俺の履歴書に目を走らせている。
しばらくすると彼は履歴書から顔を上げ、こう言った。
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「もし、来ていただけるなら、いつから大丈夫ですか?」
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「はい、明日からでも大丈夫です」
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俺は自信を持って答える。
事実、暇は唸るほどあった。
Sさんは一回コーヒーをすすると、しばらく物憂げな表情で窓の外を眺めていた。
そして改めて俺の方に向き直り、こう言った。
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「びっくりさせるかもしれませんが、うちには今、子供はいないのです」
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「は?」
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Sさんの意味不明な言葉に、俺はコーヒーを吹き出しそうになりながら言った。
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「いや、あの、、、募集欄には中三女子と」
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「はい、確かに今年の春から三年生になる予定でした」
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「……」
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困惑する俺を尻目に、Sさんは続ける。
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「実は娘の千尋は去年の冬、自室で首を吊って自ら命を絶ちました。
原因ははっきりしてました。
私の妻です」
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「奥さん?」
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「はい、、、
妻の娘に対する愛情は普通ではなく、明らかに歪んでいて異常なものでした。
特に教育に関しては、、、
彼女は自らの母校でもあるT女子大の付属高校に、どうしても千尋を入学させたかったようです。
理由は娘のためとかではなく、自分のエゴを満たすためだったのです」
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「そこで中二になると、まず強制的に部活を止めさせました。
そして嫌がる千尋を無理やり、市内ではトップクラスの塾に押し込みました。
しかし成績は上昇どころか、むしろ下がり始めたのです。
妻は苛立ち、千尋に辛く当たり散らしました。
もちろん私は何度となく妻を諭したのですが、無駄でした」
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「それでとうとう、かわいそうな千尋は学校にも塾にも行けなくなり、ずっと部屋に閉じ籠るようになり、外に出なくなりました。
そして去年のクリスマスの日、自室で自ら命を絶ったのです」
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そこまで語ったSさんの頬には二筋の涙がつたい、光っていた。
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「娘さんは、本当に気の毒なことだったと思います。
ただ今更どうして、家庭教師が必要なんです?」
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俺はずっと引っ掛かっていた疑問を、Sさんにぶつけた。
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「ええ、、、ごもっともな疑問だと思います。
実は千尋が亡くなり、葬式を執り行い、初七日を過ぎた頃から妻の様子がおかしいのです」
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「おかしいというのは?」
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「千尋は亡くなってしまったというのに、まるでまだ生きているかのような言動をするんです。
朝になると二階の娘の部屋に行き、声をかけたり、夜は食卓に三人分の食事を準備して、夕食中も目の前にいるかのように話しかけたりするんです。
娘はもういないんだよと何度も言ったのですが、ダメでした。
どうやら妻には現実に娘が見えているみたいで、、
それで前月、妻にお願いされて私が家庭教師の募集をかけたのです。
めちゃくちゃなお願いをしているのは、十分分かっております。
教えるふりをするだけでいいんです。
報酬はちゃんと払います。
受験の前日まででも千尋が勉強を頑張ってくれたということで、妻もある程度納得してくれるのでは、と思うんです」
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結局俺は8月から毎週土曜日、家庭教師をすることになった
期限はT女子大付属高校一般入試日である来年2月上旬までだ。
まあ、教えるふりをして2時間やり過ごすと、一万円もらえるのだから、楽勝といえば楽勝なバイトだ。
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8月の第1土曜日の夕方、俺は携帯地図を片手にSさんの家に向かっていた。
電車で二駅めで降り、北へ坂道を歩くこと15分。
山手にある閑静な住宅街の一画に、Sさんの二階建ての家はあった。
赤茶けた屋根がどこか印象的だった。
時刻はちょうど17時。
ぴったり約束の時間だ。
ポーチに立ち、玄関のブザーを押すと、中から女の人の声が聞こえてきてガチャリと鍵が開けられる。
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ドアを開くと玄関口に、薄いブルーのエプロン姿の小柄な女の人が立っていた。
恐らくこの人がSさんの奥さんだろう。
奥さんは白い顔に満面の笑みを浮かべているが、その目はどこか寂しげだ。
奥さんは「今日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」と深々頭を下げ、
「さあ、どうぞ御上がりください」と言う。
俺は型通りの挨拶をし、靴を脱いだ。
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玄関を上がり廊下の左手奥にある階段を上がったところに、千尋ちゃんの部屋はあった。
奥さんは階段を登りきると右側のドアをノックして
「ちいちゃん、入るわよ」と言ってノブを回す。
中は8帖ほどの小ぢんまりとした部屋だった。
左手奥の窓際に学習机があり、正面壁際にベッドがある。
壁にはアイドルのポスター、ベッドの上には熊のぬいぐるみが置いてある。
いかにも中学女子の部屋という感じだ。
部屋の中は気のせいだろうか、どんよりとした空気が漂っていた。
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「ほら、ちいちゃん、家庭教師の先生来られたのよ。
そんなところで座ってないで、ちゃんと挨拶なさい」
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奥さんが誰も座っていない学習机に向かって言う。
俺は部屋に入ると「今日から一緒に勉強、頑張ろうね」と無人の机に向かって爽やかに挨拶をした。
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奥さんが部屋から出ていった後、俺は机の傍らに立ち軽くため息をつくと、バッグから数冊の問題集を出し学習机の上に置いた。
俺が大学受験のときに使ったものだ。
どうせ使わないのだから、何でもいいだろう。
それからベッドの端に座ると、バッグからコミックを出し読み始めた。
こうでもしないと間が持たない。
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最初の異変は、それから数分後に起こった。
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─ギ、、、
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金属の軋むような音が微かに聞こえた。
俺は顔を上げ辺りを見渡す。
特に異常はない。
再びコミックを読みだした。
すると、
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─ギ、、、
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同じ音がまた聞こえる。
ふと右手にある学習机の前にある椅子を見て、俺は違和感を感じた。
最初見た時確か椅子は机にピタリと付けられていたと思うのだが、いつの間にか50センチほどの隙間が出来ている。
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─そうだ、さっきの音は椅子の背もたれが鳴る音
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立ち上がり、ゆっくり机に近づいた途端パッと背中が粟立った。
─そんな、バカな、、、
閉じられていたはずの問題集が、きちんと開かれている。
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「ち、千尋ちゃん、、、いるのかい?」
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恐々尋ねてみる。
すると突然、机の上の問題集がばさりと床に落ちた。
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「うわ!」
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俺は思わず声を出し、後退りした。
それからしばらく床に落ちた問題集を凝視した後、
そっと手を伸ばし床の上から取ると、
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「ごめん、次はちゃんとしたものを持ってくるね」
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と言ってバッグの中に戻した。
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数日後俺は大学近くにある本屋に寄り、高校受験用の問題集を数冊買った。
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8月の第2土曜日 午後5時。
新しい問題集を持参し、俺はSさんの家に伺った。
千尋ちゃんの部屋に入ると、学習机の前の椅子は既に机から50センチほど離れている。
俺はさっそく購入した高校受験用の問題集を出した。
そして「じゃあ今から1時間で、これを解いてみようか?」と言うと、今日の課題個所を開いて机の真ん中に置いた。
俺は時計で時間を確認してからベッドの端に座り、半信半疑のままコミックを読み始めた。
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そろそろ1時間になろうかという時、部屋のドアがノックされ奥さんが入ってきた。
コーヒーとケーキを二つずつ乗せたトレイを俺の座るベッドの横に置くと「よろしかったら、どうぞ」と小声で呟き出て行った。
コーヒーを啜っていると時間がきたので立ち上がり、机の上の問題集を見てみる。
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信じられない光景がそこにあった。
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解答欄のほとんどが拙い丸文字で埋まっているのだ。
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俺は解答の冊子を片手に震える手で赤ペンを持ち、添削をしていった。
すべての添削を終えた後「もうちょっと頑張らないと、志望校は難しいぞ」と言って今度は違う課題個所を開いて、机の真ん中に置く。
それからまたベッドに座ったとき、思わず「あっ」と声を出してしまった。
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ショートケーキが一つ、きれいに食べられていた。
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それから数か月が過ぎ、あっという間に年が明けた。
姿の見えない俺の教え子は、なんとか最後まで課題をこなしてくれた。
ただちょっと気になることがあった。
それは最初に会ったSさんのことだ、、、
あれ以来一度も顔を合わせたことがない。
帰りの遅い仕事なんだろうか?
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そして家庭教師の最終日である2月の最初の土曜日のこと
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帰り際の玄関先でSさんの奥さんが「先生、長い間、本当にありがとうございます。
おかげで千尋もちゃんと勉強をするようになってくれました」と言い、深々と頭を下げた。
俺も最後の挨拶をすると、門を出て路地を駅に向かい歩き始めた。
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─ああ、やっと終わった、、、
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奇妙な達成感に浸りながら冷たい風の吹く薄暗い路地を歩いていると、背後からまた「ありがとうございます」の声がする。
何気に振り向いた瞬間、俺の背中をぞくりと冷たい何かが走った。
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街灯の淡い光に浮かび上がっているSさんの家の門前、、
そこに二人の人影が見えていた。
一人は、エプロン姿のSさん。
そしてもう一人は、、、
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紺の中学の制服に身を包んだショートカットの女の子だった。顔のところは影のように黒い。
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俺は強張った笑顔で軽く会釈をすると速足で駅に向かった
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それから春になって新たなバイトを見つけた俺はキャンパスライフと両立させながら、まあまあ充実した生活を送っていた。
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そんなある日の夕暮れ時のこと。
駅そばのコンビニのバイトを終えた俺は電車に飛び乗り、帰宅の途についていた。
特急の通過待ちで電車がとある駅に停車したとき、俺はふとその駅で途中下車をした。
そして改札を出ると、駅から北に走る坂道を歩きだした。
この道をしばらく歩くと、あのSさんの家があるはずだ。
これといった用事があったわけではなかった。
ただ何となく、あの家をもう一度見たかったのだ。
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朱色の西日を浴びながらどんどん進むと、見覚えのある住宅街が眼前に広がってきた。
記憶を頼りに区画された道を歩く。
するとブロック塀の向こうに、懐かしい赤茶けた屋根が見えてきた。
俺は門前のところまで行くと立ち止まり玄関に視線を移す
玄関に通じるエントランスは、何故か雑草が伸び放題になっていた。
玄関ドアに何か白い紙が貼ってある。
そしてそこに大きく書かれた文字を見た途端、俺はちょっとした衝撃を受けた。
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そこには「売り家」という文字。
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─Sさん夫婦、あれからどこかに引っ越したのかな
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呆然と門前に立ち尽くしていると、背後から声がする。
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「どうかされましたか?」
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振り向くとそこには黒いスエット姿の初老の男が立っていた。
俺は慌てて「い、いえ、あの、、、私、Sさん夫婦の知り合いなんですけど、、、
すみません、あのお二人、どこかに引っ越されたのですか?」と尋ねた。
男は悲しげな顔で俺の顔を見て、こう言った。
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「ああ、Sさん一家ね、、、ここは本当、気の毒なご家族でした、、、
奥さんが教育熱心な方でねえ、それはそれは熱心に娘さんの教育をされていたんですよ。
でもある日娘さんが部屋で自殺しなさってねえ。
プレッシャーに耐えられなかったんでしょうねえ。
奥さん相当ショックだったのでしょう。
葬式を終えた後も娘さんが生きていると、言い張りだしたそうです。
ご主人それで、相当悩んでらした」
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「そして娘さんの初七日の日。
Sさんが車で嫌がる奥さんを、何とかお寺に連れていった帰る道すがら交差点でトラックと衝突してしまったんです
疲れておられたのでしょう。
奥さんは即死でした。
Sさんは一命をとりとめたんですが、ショックからか退院してからは明らかに言動がおかしくなりました」
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「奥さんは亡くなってしまったというのに、まるで一緒に生活しているみたいな言葉や行動をし始めたんです。
休みの日とかに道で会うと、これから夫婦で買い物に行くんですって嬉しそうに言ったり、妻がうるさいから娘のために家庭教師を雇おうと思っているとか言ったりして、それで本当に大学生がバイトに来てたみたいですよ。
娘さんいないのにですよ。
Sさんも分かっていたはずなのにね」
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「それで今年の2月頃でしたかな。
実はこの家を売りにだして引っ越そうと思っていますと言われていたのが、私がご主人とお話した最後でした。
ところで、あなたSさんのご親戚か何か?」
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俺は男の質問には苦笑いをして答えず、薄暗くなった路地を再び歩き始めた。
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駅に着き、改札を抜けて、プラットホームで電車を待っているとき、俺はジャケットのポケットから携帯を取り出すと、電話の履歴からSさんの番号を探した。
ようやく見つけると、かけてみる。
だがすぐにこの番号は使われていないという、ガイダンスが聞こえてきた。
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次の電車が近づいてきているというアナウンスが、ホームに響き渡る。
俺は携帯をポケットに戻すとゆっくり白線まで歩を進めた
そして何気に、向かいのホームに視線を移したときだ。
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身体が一瞬で凍りついた。
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人気のない向かいの薄暗いホーム、、、
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そこにはSさん一家の三人が並び立ち、満面の笑みを浮かべながらじっとこちらを見ていた。
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Fin
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Presented by Nekojiro
作者ねこじろう