ある日の夕方。
私はショッピングモールのベンチで今晩のおかずをぼんやりと考えていた。
「昨日はお肉料理だったし、今日はパスタにでもするか…」
席を立とうとした時、さっきから横に座っていた老夫婦が話しかけてきた。
「お姉さん、こんにちは。」
突然のことで驚いたが、
「こんにちは。」と返すと、
お爺さんが世間話を始めた。
幸い娘の保育園のお迎えまではまだ少し時間があったので、私は話を聞くことにした。
「今日はいい天気でしたな。お姉さんはお買い物かい?」
「ええ。そうなんです。夕飯の買い出しに来ました。」
「あぁ、そうかい。毎日ご苦労様だねえ。」
思えば結婚してから、誰からも褒められてこなかった。
両親は10年前に他界し、夫も仕事に追われ、家庭のことなど考えてすらおらず、私が家事や子育てをいくらこなしても、褒めてくれやしない。
産休中の職場からも冷たくあしらわれ、唯一の救いはたった1人の娘だった。
separator
お爺さんの「ご苦労様。」という言葉で、目から涙が零れ落ちた。
そんな私の様子を見て、お爺さんが口を開く。
「実はワシらにも娘がいたんだよ。生きていれば今年で45になっていたかな。交通事故で33の時に死んじまった。働き者で親孝行者の良い娘だった。。」
お爺さんは目頭に涙を浮かべ、そう話した。
隣でお婆さんも一緒になって静かに泣いていた。
「そうだったんですね…お気の毒に。。」
「見るかい?娘を」
そう言うと、お爺さんは手元のリュックをガサゴソと漁り始めた。私はてっきり娘さんの写真のことかと思ったが、お爺さんがリュックから取り出したのは一体の日本人形だった。
「可愛いだろう。ワシらの娘だ。」
反応に困ったが、人形をよく見てみると不可思議なことに、ひどく老けており、顔の皺や黒髪に混じった白髪が妙にリアルだった。
「もしよかったら、娘を貰ってくれんか。」
「え??」
「お姉さん、大変なんだろう?娘が力になってくれるはずだよ。」
「いや…でも、そんな大切なもの受け取れません!」
私は遠慮気味に席を立とうとした。
しかしお爺さんは悲しげに、
「ワシらはもう先が長くない。お姉さんに持っていてもらいたいんだ。」
そう言って日本人形を雑に押し付けると、そそくさと帰っていった。
正直気味が悪かった。
自宅に帰ってから、頭を下にして紙袋に入れ、椅子の上に置いた。
娘を迎えにいった後、晩御飯の支度をしていると夫が帰ってきた。
そして、椅子の上の紙袋を見つけるなり、
「おい…なんだこの人形は。」
と気味悪そうに呟いた。
近くにいた娘が、紙袋を逆さまにした。
shake
ドサ
日本人形が力なく地面に落ちる。
「わーーー可愛いお人形さん!ママ!これどうしたの?」
娘が人形を拾った。
「これね、さっきスーパー行った時に老夫婦にいただいたのよ。気味悪いから捨てちゃおうね。」
私は娘から人形を取ろうと、人形の頭を掴もうとした時、
「い"た"い"」
と、しがれた老婆のような声で娘が唸った。
空いた口が塞がらない私と夫。
「どうしたの?ママ」
ポカンとしている娘の声で、我に返った私達は、きっと疲れていたんだ。
そう思うことにした。
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翌日。
娘を自転車の後ろに乗せ、保育園へと向かった。
娘は日本人形を大事そうに抱えていた。
昼過ぎに保育園から電話があった。
「もしもし。Nちゃんのお母さんですか?」
「はい。そうですが、どうかなさいましたか?」
「実はNちゃんが…」
大急ぎで自転車を走らせ、保育園に着くと、
顔面傷だらけの娘が先生の横に立っていた。
そしてその横に、同じクラスのR君とその母親が不安げな顔でこちらを見ている。
「何度聞いてもR君は何もしてないって言うんです。私がもっと目を配っていれば…申し訳ありません、お母様。」
「先生は悪くないんですから、お気になさらないでください。こちらこそご迷惑をおかけしました。R君は何もしてないのよね。ね、R君。」
母親にしがみついていたR君に優しくそう問いかけた。
するとR君は、
「うん…僕はNちゃんとお人形さんで遊んでただけだよ。」
R母も深々と頭を下げると、今度改めてお詫びしますねと告げ、帰っていった。
私も娘の手を取り、
「大丈夫?痛かったね、」
と聞くと、娘は涙で目をうるっとさせ、私の太腿にしがみついた。
ヨシヨシと頭を撫でていると、娘の左手にプラプラと蠢く日本人形が目に入った。
よく見ると顔が所々破損していた。
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「そんな人形持たせるからこんなことになんだろ!?!?お前の失態だ!!!Nの顔に傷が一生残ったらどう責任を取るんだ!!!」
普段は青白い顔を赤く染めて、夫は怒鳴っている。
私は反論する気力すら起きなかった。
「N。人形を出しなさい。今すぐにだ!」
夫は娘が抱えている日本人形を無理やり取ろうとした。
娘は泣きじゃくりながら人形を離そうとしない。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!」
それでも夫は抵抗する娘から人形を引き剥がした。
その時、私の脳裏に今まで起きた出来事が偶然ではなく、これからとても恐ろしいことが起こる、そんな気がしてならなかった。
「あなた!人形に触っちゃだめ!!!」
「お前までそんなこと言ってんのか。こんなもの。こうしてやる。」
夫は息を荒げ人形の首に膝を入れた。
その瞬間。
shake
ミシミシミシミシミシ
と枯れ木の折れるような音が部屋中に響き渡り、娘の首がまるで電池を失ったロボットのようにだらんと垂れた。
作者ぎんやみ